- ジャンル:特集
- 著者/編者: V・アレクサンドロフ
- 評者: 沼野充義、池田嘉郎
対談=沼野充義・池田嘉郎
<あり得たロシア革命のもうひとつの歴史>
Ⅴ・アレクサンドロフ著『ロシアの鎖を断ち切るために』(作品社)刊行を機に
ウラジーミル・アレクサンドロフ著、竹田円訳『ロシアの鎖を断ち切るために 皇帝とボリシェヴィキを相手に闘ったボリス・サヴィンコフ』が作品社より刊行された。日本では『蒼ざめた馬』の著者として知られるロープシン=ボリス・サヴィンコフを主人公にした伝記小説で、二〇世紀ロシアで皇帝、ボリシェヴィキ体制と戦った革命家の生涯を克明に描いた一冊である。
このたび、本書の解説を務めた東京大学名誉教授の沼野充義氏と同教授の池田嘉郎氏による対談を実施。文学研究者と歴史学者、双方の視点から
本書の魅力を語ってもらった。(編集部)
沼野 対談の皮切りとして、本書の解説と、なぜ池田さんとの対談を希望したかお話しします。
本書は、ロシアの革命家ボリス・サヴィンコフを主人公にした伝記小説です。サヴィンコフは悪名高いテロリストとしても知られていて、ロープシンのペンネームでテロリストの心境を描いた問題小説『蒼ざめた馬』は日本でも翻訳され、1920年代から30年代、1960年代から70年代にかけてと、過去に2度ブームになり、日本の多くの読者に読まれました。
私は以前から、20世紀のロシア史を考える上で一つの鍵を提供してくれるのがこのサヴィンコフではないかと考えていました。しかし、この人物の生涯は謎と伝説に満ちていて、解き明かされていない部分が多くあったのも事実です。
今回、北米におけるロシア文学研究の最良の部分を代表する学者の一人であり、文化史や文学に高い見識を持つウラジーミル・アレクサンドロフが、徹底した史料調査をもとにサヴィンコフ伝を書きました。そのため、ロシアの専門家の方々にとっても裨益する内容であると同時に、高いエンターテイメント性を兼ね備えた、一般読者の関心を惹く読み物になっておるといえます。
私は本書を通じて、ロシア革命に至る道のりや、その後のボリシェヴィキ政権によって作られたソ連は歴史の必然だったのか、あるいは他の可能性があったのではないか、といった20世紀のロシア史の変遷について改めて考えさせられました。とはいえ、私は文学が専門ですから、歴史の専門家が本書をどう読むのか興味があり、ロシア史の専門家で、特にロシア革命前後の時代のロシアに詳しい池田さんのお話しを聞いてみたいと思いました。
池田さんは以前、『ロシア革命』(岩波新書)を刊行されましたが、従来のロシア革命研究とは一線を画す形で、二月革命を起点にその後の8ヶ月間に焦点を合わせ、ロシア革命は何を成し遂げられる可能性があり、それがどのように潰れていったのか、その間の過程を見事に描かれました。そこでの池田さんの議論は、サヴィンコフが政治家として活躍していた時代と合致していますので、そういう意味でも池田さんが本書をどう読んだか教えてもらいたいです。
池田 まず、率直に非常に読みやすい印象を受けました。歴史家が書く文章だと、その都度註をつけ憶測で言及しないものですが、文学研究者が書いた本書は、サヴィンコフという主人公を中心に、彼の活躍や挫折を最初から最後までスリリングに描いている。おそらく読者を飽きさせない工夫をこらしたのだと思いますが、その手法が見事に成功している。かといって、史実から乖離するわけでもなく、註や参考文献も巻末にまとめて付されているので、学術性と読みやすさを両立した、興味深い試みの一冊だと思いました。
沼野先生のお話にあった、本書を通じてサヴィンコフをどう捉えるか。これが今回の対談の主要な論点ですけれども、従来は『蒼ざめた馬』から見た「挫折したテロリスト」だと、割とロマンチックな思い入れを持って、日本の、特に60、70年代の読者は読んでいたのではないでしょうか。ところが本書では、もちろん『蒼ざめた馬』的な要素はあるものの、それはあくまで一部です。むしろ『蒼ざめた馬』より後の時代、1917年に何をしたか、あるいは内戦期に何をしたかを非常に丁寧に描き、それによって革命家やテロリストとしての人物像のほかに、法や人権といったものを重視したサヴィンコフ像が浮かび上がり、人物としての全体像を知ることができます。
著者のアレクサンドロフは、この法や人権といった側面を意識的に書いていますし、それは同時に今日のロシアとの対比にもつながるので、ある意味、違う歴史を辿ったかもしれないロシアの姿を、本書を通じて見せようとしたのではないか。それが非常に明確に出ている、とてもいいサヴィンコフ伝だと言えます。
沼野 これまでサヴィンコフについて、文学方面では、翻訳は行われるとしても、専門的な研究はほとんどなされてこなくて、それは歴史研究の上でも同様だと思います。これまで、ロシア史学の専門家たちはサヴィンコフをどのように扱ってきたのでしょうか。
池田 日本の歴史家は総じて、レーニンの共産党、ボリシェヴィキ研究が第一で、それだけだと暴力的すぎるから、オルタナティブとしてメンシェヴィキやエスエルなどに手を伸ばします。ところが、サヴィンコフはそういった枠には当てはまりません。一応エスエルの所属ではあるものの、一匹狼のように活動していたし、やっていることも個人テロだから、それがロシア革命の歴史に何かしらの可能性を示したようにも見えない。そういう観点から、個人テロリストとしてのサヴィンコフに対する関心が薄かったのが現実です。ですから、本書の解説で沼野先生が論じられた、日本のサヴィンコフブームについても、歴史家はフォローできないのです。
沼野 私の場合、人間的関心が先に立つので、そこが歴史家の見方との違いなのでしょう。
歴史には客観的な事実があるものの、その記述が皆一様かというとそうではなく、そこは語り手のナラティブになる側面があります。今、池田さんのお話にあったように、これまでのソ連史は、優れた研究者たちによって盛んにロシア革命を起点にした分析がなされてきましたが、そこで語られるのは、十月革命がいわば歴史法則における一つの究極目的であり、レーニン・ボリシェヴィキ体制というのは疑う余地のない所与の出発点でもあるといった、ボリシェヴィキ中心のナラティブです。今までは、どうしてもそのナラティブから抜け出すことができなかったような気もするのですが、池田さんやアレクサンドロフのように、ロシア革命を従来とは違った観点から見ようといった機運は近年出てきているのでしょうか。
池田 まずボリシェヴィキ・共産党史観というものがあり、その上で共産党だけを見ていてはダメだという指摘は、70年代からありました。その時に言及されるオルタナティブが、メンシェヴィキやエスエルといった左翼政党で、そこを軸にボリシェヴィキ・十月革命に変わる、何かもっと人間の顔をした社会主義の可能性について議論されてきましたが、さらにその外側にいた、議会や法を重視したいわゆるリベラルたちは、反革命だから殺されても仕方なかったとも語られていました。
ところが、近年はそうしたリベラルの側をきちんと見ていく必要性が問われていて、実際、ロシア史における議会や憲法とは何なのかを研究する若手の研究者は増えてきました。拙著でもそうしたリベラルの側面を中心に書きましたので、そこが従来のロシア革命研究とは異なる独自性だったと言えますし、今回のアレクサンドロフの本も、リベラルの側面を強調していましたので、そこに共感しながら読むことができました。
沼野 ここまでのお話で、池田さんはたびたびエスエルという名前を挙げられましたが、そもそもエスエルとは何なのか。一般の方はあまりご存知ないと思いますので、ここからはエスエルについて議論していきたいと思います。エスエルとはどのような党だったのか。解説をお願いできますか。
池田 エスエルは教科書風に言えば、ナロードニキの後を継いだ集団です。
ナロードニキというのは、ロシアの農村で苦しむ民衆を助けなければいけないという自己犠牲的な考えをもった都市の貴族やインテリ、学生らの集団で、19世紀半ばに現れます。ところが彼らの背景にはロシア社会の階層文化意識があり、高邁な精神を農村に向けつつも、自分たちで何か成し遂げられるかとは考えていなかった。やがて20世紀のはじめに、ナロードニキの精神を引き継ぎながら、きちんと組織を作って革命を目指そうとする集団としてエスエルが形成されます。
エスエルというのは、従来「社会革命党」と訳されますが、英語ではSocialist―Revolutionary Partyなので、正確には社会主義者=革命家党です。本書訳者の竹田円さんは54頁でエスエルを「社会主義者革命家党」と訳した上で、略称として社会革命党としているので、最近の動向に即した翻訳だと言えます。
ただ、社会主義者=革命家党を名乗っても、その呼称にほとんど定義はない。社会革命党と訳すことも誤りだし、社会主義者=革命家党と訳しても無定義だから、結局、略称のエスエルのまま呼ぶのが、とにかく革命をやりたいという彼らの気分に合致しているというのが和田春樹先生の見解で、私もその通りだと考えます。
沼野 そのエスエルは、一応の政治綱領を持った政党として、ロシア革命におけるオルタナティブを成したわけで、実際、ボリシェヴィキに代わって政権を取り、国家運営をしていた可能性があったわけじゃないですか。
というのも、十月革命直後に行われた、憲法制定会議を発足させるための選挙で、エスエルの得票が全体の4割を占め、ボリシェヴィキはそのほぼ半分にすぎず、普通に考えればエスエルが第一党として国家運営を担うはずでした。ところが、選挙の翌年にボリシェヴィキが議場を封鎖し、選挙結果を踏みにじる形で権力を掌握します。
もし仮に、ボリシェヴィキがそのような行動をとらなかったら。あるいは議場封鎖が成功しなかったらなどを考えると、エスエルを中心にした国づくりが行われていたわけですが、果たして、エスエルに国を統治するだけの能力があったのか。それについて池田さんはどのような見解をお持ちですか。
池田 レーニンたちと比べると、エスエルにそこまで明確な綱領やプログラムがあったとは言えませんが、だからこそいろいろな人がエスエルに加わったとも言えて、現に17年には党員を増やしました。かといって、何か目標を立てて、団結して議会で勝つ、権力を取るといったことができたかというと、各人がバラバラで、勝手に動いている。サヴィンコフがまさにそうでした。ですから、いずれにしても何かを成し遂げるということはなかったと思います。
付け加えると、エスエルが目指していたものは農民ベースの社会主義ですが、だからといって農民が都市部の政治活動に介入するわけではなく、むしろ都市部の労働者や兵士がエスエルを熱心に支持したことが意味をもちました。ところが、一向に戦争が終わらないため、最初エスエルを支持した人たちも徐々にボリシェヴィキ支持に回っていった。要するに、ちゃんとした支持基盤もない組織だったのです。ただし、ロシア帝国が普通に議会を開き、30、40年かけて一般の労働者や農民にまで選挙権を広げていくといったことをやっていれば、エスエルにもチャンスはあったかもしれません。
その上で、エスエルが中心になって国家運営を行っていたらどうなっていたか。チャヤーノフの『農民ユートピア国旅行記』(平凡社)がまさにそうで、どこかユートピア的な国づくりをしていたでしょう。
沼野 再びサヴィンコフの話に戻ります。彼はそのエスエルに所属していて、革命前には戦闘団を率いてテロを実行していたのですが、戦略的に見たときに、要人テロが成功したところで革命に結びつくかどうかは大いに疑問です。もちろん、テロを実行すること自体、倫理的に大きな問題なのですが。
サヴィンコフ、あるいはそれ以前からのナロードニキ系の人たちの特徴というのは西欧のマルクス主義者と違い、ロシアの農村共同体を理想化する傾向が強く、帝政が転覆すれば、自然に農村中心の良い社会主義国が実現するだろうと信じていた。発想がかなりナイーブで、見通しが甘かったと思いますが、実際のところ、彼らは個人テロの可能性についてどう考えていたのでしょう。
池田 個人テロこそエスエルの大きな特徴ですが、戦略的な意味があったかどうかは別途議論が必要でしょう。ただ、そうせざるを得ないぐらいに、20世紀初頭のロシアは体制による抑圧が厳しかった。それは間違いないです。
議会も憲法もない状況を打破して、少しでも格差をなくすために要人を殺す。それをきっかけにして、ロシア全体に革命の波を起こす。そこに至る発想はわからなくもないですが、だからといって、それで何か変わるものではないということは、アレクサンドル2世暗殺の時からすでにわかっていたことです。ところが、エスエルはセルゲイ大公を殺せばなんとかなると思っていたところがあり、なおかつ、その行動を宗教や個人の倫理観と結びつけて深く考えていたので、要するに個人主義的なロマンチスト集団だとも言える。
かたやボリシェヴィキは、階級対階級の発想に基づく、労働者を大量に動員した大衆テロを支持していました。たくさん捕まえて、大量に殺さなければダメなのだ、と。ですから、エスエルのカリャーエフのように、セルゲイ大公の乗った馬車に子どもが同乗していたから暗殺を取りやめて、それが良かったかどうかといった逡巡は、ボリシェヴィキの行動パターンには入ってこないのです。
沼野 セルゲイ大公の暗殺は、サヴィンコフが自伝で詳しく書いたことで有名になったエピソードです。暗殺を指揮したのはサヴィンコフ、実行犯は古くからの友人で、〝詩人〟とあだ名されたカリャーエフ。非常に真面目で、倫理的にものを突き詰めて考えるタイプの人物で、犯行直前に馬車には子どもを含めた大公の家族が乗っていることを知り、自分たちの計画とは直接関係ない人たちを巻き添えにしていいものか逡巡し、結局爆弾を投げられませんでした。
実は、日本では大佛次郎がかなり早い時期からこのエピソードをもとにしたノンフィクション小説「詩人」を書いています。また、後年にはカミュがこのエピソードをモチーフにした戯曲『正義の人びと』を書き、そこで問われたテロの倫理観を突き詰めています。
池田 私が沼野先生にお尋ねしたいのは、日本のサヴィンコフ受容におけるここでの倫理観の問題についてです。馬車に乗った子どもをターゲットと一緒に殺していいのかどうか。本書の沼野先生の解説や京都大学大学院の田村太さんの平野謙論を読むと、サヴィンコフブームのときというのは、あくまで挫折したテロリストの孤独といった論点が中心で、子どもも一緒に殺すのはいいのかどうかといった倫理観の話はあまりされてこなかったように思ったのですが、実際はどうだったのでしょうか。
沼野 池田さんがおっしゃるように、日本での受容は倫理の問題よりも、挫折した革命的ロマン主義としての見方が中心でした。特に1920年代から30年代の日本の左翼はその傾向があったと思います。多分にロシアの革命運動からインスピレーションを受けていた日本の社会主義者たちは、1910年の大逆事件で徹底的に弾圧されて多くの社会主義者が処刑され、その後どこへ向かえばいいかわからなくなってしまった。理想に燃えて戦った挙げ句、挫折していったロシアの革命家たちに対する共感の意識が強かったので、テロの是非をめぐる倫理観の問題はあまり問われてこなかったのだと思います。
ただし、カリャーエフのエピソードは、サヴィンコフをはじめとするエスエルのテロリストたちが人間味と高い倫理性を兼ね備えた人たちだったことを示す例としてよく引き合いに出されてきました。確かに話自体はとても面白いのですが、犯行直前にテロ実行を取りやめたことなんてたいしたことではないと考える人もいるかもしれません。しかし、実際は犯行に至るまでに周到に準備をし、多くの人間が動いている。それを実行直前でやめてしまったら、計画が露見し関係者全員捕まってしまうおそれがあるし、捕まったら当然死刑です。仲間たちの生命の危機を顧みなかったカリャーエフの行動は、組織論の観点から見たら愚かなものだったと評価されてもおかしくない。そういったことも含めて、この逸話は非常に劇的な要素を有しています。
私は、このエピソードは今の時代にあらためて見直される必要があるのではないかと考えています。現在、世界各地で行われるテロリズムは、無差別に誰でもいいからできるだけたくさんの人を殺すことを目的としている。また、ガザでは関係ない子どもたちまで空爆で殺してしまう、いわば国家テロと言ってもいいようなことも行われている。そうした現代において、エスエルの人たちの倫理観を見直す価値は十分あると思います。
沼野 池田さんの『ロシア革命』を読むと、二月革命から十月革命に至るまで、あるいは十月革命以降にしても、ここが違っていればその後の歴史が大きく変わったであろう、決定的なターニングポイントがいくつもあったことがわかります。
サヴィンコフが直接関わったものでいえば、軍最高司令官のコルニーロフによる反乱が挙げられます。そこでサヴィンコフがコルニーロフと手を結び、ロシア臨時政府の司法大臣を務めたケレンスキーを合わせた三頭合意の可能性が現実味を帯びました。それが実現していれば今とは違うロシア史を歩むことになったはずですが、その可能性はあったのでしょうか。
池田 あったと思います。ロシア革命の中で、どこがどうなっていればレーニン・共産党独裁にならなかったか、その一つの転機が17年8月のコルニーロフの反乱です。加えて、その前月には七月事件という、兵士たちの武装デモを臨時政府が潰した事件があり、ボリシェヴィキはそれにかなり巻きこまれた。そこでサヴィンコフ、コルニーロフらが一丸となり、もっと真剣にボリシェヴィキを潰す働きかけをしていれば状況は変わっていたかもしれません。
不思議なのは、サヴィンコフはこの時期、割とコルニーロフの肩を持ち、一方のケレンスキーに対しては強気に出ていたのに、最終的にはコルニーロフから離れて、ケレンスキーの側、つまり法の側の肩を持ったことです。
そう考えると、サヴィンコフの中でどこか法の遵守という自身のこだわりが残っていた。それもあって、共産党を軍事的に潰すという方向に動けなかったとも言えます。ですから、どちらにしてもコルニーロフの挙兵はうまくいかなかったのかもしれません。
本書においても、著者のアレクサンドロフは、順調にいけばサヴィンコフが権力の座についていたかもしれない場面をたびたび描いています。仮にケレンスキー、コルニーロフ、サヴィンコフの三頭合意が実現していれば、彼は政治上のナンバーワンになっていたし、コルニーロフ側もそれを見越したクーデタを目論んでいたのだけれど、そこに最終的にコミットしなかったのは、サヴィンコフの個人主義が足を引っ張ったからでしょう。
沼野 サヴィンコフの中には、自分とだいぶ考えの違うコルニーロフとある程度折り合いをつけつつ、政略的に手を結ぼうという意図が明確にあったと思います。けれども、最終的には池田さんもおっしゃったように自身の価値観の原則を捨て去ることができなかった。自由や民主主義、法や人権といった、近代社会で最重要視されるものを終始、馬鹿正直に守ろうとしたわけですが、このあたりの感覚は今の我々にしてみるとむしろ理解しやすいかもしれません。
ただこの時代の、より大きな力が働いていたロシアの中で、そういった姿勢を貫いたところで無力だった彼の立ち位置というものを、本書を通じて改めて考えさせられました。
池田 サヴィンコフとコルニーロフの共闘に関して、考えの合わない相手と仕方なく連帯したというよりも、彼自身、むしろ楽しんでやっていたのではないでしょうか。彼は大変オシャレな人で、かっこいい制服を着て耳目を集めたことを喜んでいます。そうした名誉欲やエゴイズムのような人間的な弱さという面もアレクサンドロフは描いていますよね。
ところで、今、先生がおっしゃった馬鹿正直という言葉は、ナロードニキの先輩格のフィグネルが、エスエルの人たちを指して馬鹿正直だと評していることにもつながっているので、とても印象的でした。
沼野 二重スパイで有名なアゼーフのことを、サヴィンコフは最後まで疑わずに、こんな素晴らしい同志がそんなひどいことをするわけないと信じこんでいた。このエピソードも彼の馬鹿正直さを象徴するエピソードです。
馬鹿正直という言葉は、サヴィンコフたちの性格付けとして合致していると思います。策略を巡らせながら立ち回ろうとする狡猾さがある反面、理想を貫きすぎてしまった。結果、それ以上先に進めなくなったのがエスエルであり、サヴィンコフだったのではないでしょうか。
沼野 私が本書を読んで「なるほどな」と思ったのは、サヴィンコフのポーランドという帝政ロシアに抑圧された地域、ないしは少数スラブ民族に対して共感のようなものを持っていたという点です。そもそも、彼はポーランドのワルシャワ出身でしたから、そういった出自の部分でも影響を受けていたのだ、と。
ポーランドは長いこと、ロシア、プロイセン、オーストリアの3ヵ国による分割統治がなされていて、その大部分がロシアの支配下にありました。そのため、ロシアとポーランドの間には激しい確執があり、ポーランドは19世紀に2度武装蜂起します。ただし、両国には圧倒的な戦力差があり、最終的にロシア軍によって鎮圧されてしまうのですが、ポーランド人たちもしぶとく戦った。また、抵抗するポーランドを見て、西欧諸国からポーランドを支援の声も上がったので、まさに今のロシア・ウクライナ情勢と似ています。それだけ19世紀ロシアにおけるポーランド問題は重要事でした。
ところが、ロシア人の側は、かなりリベラルな人でも大ロシア中心主義的な見方をしてしまうところがあります。プーシキンのような極めてリベラルなロシアの国民的詩人でさえ、ポーランド蜂起に対して支援の声をあげた西欧に向かって、「これはスラブ人同士の、家族間の争いなのだ。あなたたちは関係ないのだから口出しするな」という趣旨の政治詩を書いたほどです。ちなみにこの詩は最近ロシアのラヴロフ外相がウクライナ情勢をめぐって、ある記者会見で見事に暗誦したので、ロシア人はさすがに文学的教養が高いなあ、と妙な感心をしてしまいました。
そういった少数スラブ民族に対して、大ロシア的な態度をとるロシア人が大半のなか、サヴィンコフがポーランドに対して抱いていたセンシティブな感情というのは、きわめて例外的なものだったと言わざるを得ません。
池田 ポーランドとサヴィンコフの関わりは本書でもしっかり書かれていて、私も勉強になりました。特にロシア国内で内戦が繰り広げられる19、20年の頃には、サヴィンコフはポーランドの指導者ピウスツキと組んで、ポーランド国内で反ボリシェヴィキ部隊を作ろうと画策し、現にかなり実効性のある、しっかりした軍事組織を構築しました。途中、ピウスツキとの政治的関係がうまくいかなくなり頓挫しましたが、それほどサヴィンコフとポーランドの関係は深いものがあった。
また、沼野先生がおっしゃったように、サヴィンコフはポーランドやウクライナ、フィンランドといった、ロシア帝国が崩壊して生まれた新しい国や、これから国になろうとしている地域を尊重していて、これは当時としては本当に珍しいことです。なぜなら、白軍の指導者であるデニーキンやコルチャークらは、ポーランドやフィンランドの独立を絶対に認めなかった。そのことも彼らがうまくいかなかった要因の一つとして挙げられます。
そういった中で、サヴィンコフだけは例外的に、フィンランド、ポーランド、ウクライナの独立を支持していた。ここが彼の開明的なところだったのだろうと思います。
このように、ロシア革命の後の世界というものを、モスクワやペテルブルク、レニングラードにとどまらず、ポーランドやウクライナ、あるいはイギリス、フランスにまで視点を広げて、ダイナミックに見ているのが、本書のもう一つの特徴だといえます。実際、イギリスのロイド・ジョージは自身の回想で、サヴィンコフが一番有能だと書いているし、チャーチルもサヴィンコフに惚れ込んでいました。サヴィンコフがロシア革命期の国際社会における最重要人物の一人として扱われていたことが、本書からあらためてよく見えてきました。
沼野 今の話を聞いて改めて思ったのは、ロシア革命史というのは、ロシア国内にとどまらず、世界史の文脈、少なくとも欧米の歴史の文脈を含めて見ていかないといけない部分が多分にあるということです。革命後の内戦にしても、一見、国内問題のようであって、実は日本も干渉軍を出したくらいで、世界各国が関係していた。つまり、一種のミニ世界戦争の様相を呈していました。
池田 おっしゃる通りで、第一次世界大戦の延長戦がロシアで繰り広げられていたと言えます。そういった歴史的な記述も本書は大変読みやすく書いていて、次、どうなるんだろうと常に期待を持たせてくれます。
彼は晩年、ソヴィエト・ロシアの謀略にかかり、逮捕され、裁判にかけられます。そこで彼はこれまでの態度を一変させ、共産党政権を讃えだし、最終的に謎の自殺を遂げた。本書ではこのあたりの過程も丁寧に書いていますので、ここだけ読んでも面白いと思います。
沼野 そこが最大の謎ですよね。果たして本当に自殺だったのか。謀殺説の可能性もなきにしもあらず、です。
なぜ、最後にサヴィンコフは掌を返したのか。アレクサンドロフは、あくまでサヴィンコフは一貫した主義主張のもと、最後まで命を懸けて抵抗したのだと解釈した上で、自身が描いたサヴィンコフの物語を締めくくりました。
このあたりの真相が記された秘密警察の未公開資料はまだあるはずなので、そういったものが公開されて、ようやくサヴィンコフをめぐる謎の全てが解き明かされるようになるのだと思います。(おわり)
★ウラジーミル・アレクサンドロフ=イェール大学名誉教授・ロシア文学・文化。著書に『かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた』など。
★ぬまの・みつよし=東京大学名誉教授・ロシア/ポーランド文学。著書に『徹夜の塊 亡命文学論』『徹夜の塊 ユートピア文学論』など。
★いけだ・よしろう=東京大学教授・現代ロシア史。著書に『ロシアとは何ものか』など。
書籍
書籍名 | ロシアの鎖を断ち切るために |
ISBN13 | 9784867930953 |
ISBN10 | 4867930954 |