2025/07/18号 4面

福祉権運動のアメリカ

土屋和代著『福祉権運動のアメリカ』(前嶋和弘)
福祉権運動のアメリカ 土屋 和代著 前嶋 和弘  本書はアメリカにおける福祉権と人種やジェンダーをめぐる諸問題に迫っている。  中心になるのが、貧しい黒人のシングルマザーたちである。シングルマザーたちを束ねたのが、全米福祉権団体(NWRO)という組織であり、「福祉権」という思想を打ち出していった。  第二次世界大戦後、人類史の中で最も豊かになったはずのアメリカ社会の中には、貧困と不平等が渦巻いていた。この不条理の中、黒人と女性が自由を求めて戦う対象が福祉権という「生存権」の獲得であった。  「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」という生存権が日本国憲法の第25条に規定されている日本と異なり、18世紀末に起草されたこともあって、合衆国憲法には生存権の概念はない。アメリカで欠如している「生存権」を制定時で関与したGHQが日本国憲法に入れたのは、アメリカのリベラリズムの理想を日本で現実化させたものであるともいえる。  ただし、本国・アメリカでは生存権そして、福祉権に対する見方はなかなか厳しいものだった。1868年に批准された憲法修正第14条で定められた「法の下の平等」から生まれた公民権規定を解釈して、低所得者向けの「メディケイド」などの医療扶助制度も定着はしている。しかし、福祉的な措置は法解釈によって揺れてしまう。  それには理由がある。アメリカという国家が多様であればあるほど、貧困は格差や階級問題であると同時に、人種問題であり、ジェンダー問題、さらには宗教をめぐる問題になるためだ。  福祉権の拡大は常に逆風だったが、公民権運動の中心的なグループの一つ、人種平等会議(CORE)の幹部だったジョージ・ワイリーらの活躍で全米福祉権団体(NWRO)が1967年に設立され、状況は変わっていく。  福祉という「経済的正義」が正当性を帯びたのは、貧しい児童の多くが学習に困難を伴うのは、子供たちの置かれている貧困状態が原因であるとする考えによる。空腹や学用品や服がない状態では学習どころではない。公民権運動は福祉の必要性を求める生存権運動そのものだったのだ。  運動の結果、1935年から既に開始されていた、シングル家族への扶助「要扶養児童家族扶助(AFDC)」は1960年代から70年代にかけて政策そのものが拡大していった。  さらに、貧困層の黒人女性を対象にした不妊手術の推進という度し難い状況もあった。「リプロダクティブ・ジャスティス」という性と生殖をめぐる正義の議論が沸き起こってきたのは必然だ。  それでも時代の向かい風は福祉にとってさらに大きくなる。特に、1980年代以降のレーガン以降の共和党が進めた「小さな政府」は致命的だった。「自己責任」が強調され、福祉そのものは「負債」とみなされていく。AFDCに対しても「福祉依存」「無駄遣い」などの言葉で否定されていった。  「貧困≒悪、犯罪の温床」といった議論も保守層に広がっていく。「犯罪との闘い」の中で、「福祉に対する戦い」が進められていった。社会保障給付を支給する際に、その代わりに受給者に就労を義務付ける「ワークフェア」という議論も進んでいく。福祉(ウェルフェア)は大きく後退していった。  そして、94年の中間選挙で共和党が大躍進し、42年ぶりに上下両院で多数派となった「ギングリッチ革命」は福祉権にとって、決定打だった。当時のクリントン大統領(民主党)は1996年年頭の一般教書演説で「私たちが知っている福祉は終わった」とまで宣言せざるを得なくなった。  ついに同年8月、「個人責任・就労機会調整(PRWORA)」が成立し、ついにAFDCが廃止となってしまった。それに代わったのが、「貧困家庭への一時扶助(TANF)」であり、福祉の受給期間の限定や、職業教育・訓練への参加が義務化された。これは文字通り「一時的な扶助」でしかない「ワークフェア」である。  それでは、アメリカでの福祉を求める動きは消えたのか。著者はロードアイランドやウィスコンシン、ミシガンなどの州のレベルでの活動に救いを求める。このうち、ウィスコンシン州の団体の名前は「ウェルフェア・ウォリアーズ(福祉を求める戦士たち)」で、福祉権運動の目指していたラジカルさを代弁しているようで示唆的だ。  アメリカ社会の貧困と不平等が渦巻いていた状況は今も変わらない。今のアメリカは、政治的には未曾有の分断と未曾有の拮抗状態が同時に起こっている。福祉を希求する声は全く消えていないし、今後のアメリカのリベラリズムを開拓する動きがここから見えていくかもしれない。例えば、本書で「ワークフェアの対極」とされているベーシックインカムをめぐる主張もここ数年、リベラル派の一部ではあるが再燃しつつある。  その意味で本書が描いた福祉権の獲得とその挫折の歴史を振り返ることは、今後のアメリカを読み解くうえでも極めて重要だ。(まえしま・かずひろ=上智大学教授・現代アメリカ政治外交)  ★つちや・かずよ=東京大学大学院教授・アメリカ現代史・人種・エスニシティ研究・ジェンダー研究。神奈川大学准教授等を経て現職。著書にReinventing Citizenship(第20回清水博賞受賞)、共編に『インターセクショナリティ』、共訳書に『アメリカ黒人女性史』など。

書籍

書籍名 福祉権運動のアメリカ
ISBN13 978-4-00-061700-0