2025/03/07号 3面

論潮・3月

論潮 3月 高木駿  在外研究で札幌に来て一ヶ月以上が経ちました。気温がずっとマイナスなのにも、雪の上を歩くのにも、スープカレーにも慣れて、充実した毎日を過ごしています。ただ、一つだけ、いつ見てもギョッとするものがあります。駅の地下や公共施設、空港に展示されているアイヌの衣装です。立ち止まった人が「すごいね、これ!」、「Beautiful!!」、「很漂亮!」と声を漏らすほど、たしかに美しく、魅力のあるものです。でも、僕には、吊るされたそれは、まるでなめされた毛皮のようで、グロテスクなものに感じられます。  もしかすると意識していない人もいるかもしれませんが、北海道は、開拓という名のもとに先住民であるアイヌを虐殺、排除、抑圧してきた土地でもあります。現在国内とされる地域の中で、沖縄とならんで、日本の植民地主義が色濃く反映された土地です。そのため、アイヌはレイシズムの対象にされ、自民党の杉田水脈などの言動に見られるように、いまもなお差別されつづけています。アイヌはまた、「二級市民」どころか、モノとして扱われることさえありました。北海道大学をはじめとした大学組織が、アイヌの墓をあばき、盗掘した遺骨を研究に利用したのです。こうした事情を知っていたので、僕には、吊るされた衣装が、収奪あるいは狩猟の成果を見せびらかしているように思え、どうしようもなくグロテスクに見えたのです。  その反面で、二〇二〇年に開業した白老町の「ウポポイ(民族共生象徴空間)」に代表されるように、北海道はアイヌ文化を推す雰囲気に満ちています。僕自身、ウポポイを訪れたときには、その雰囲気に押され、工芸品を嬉々として買ってしまいました。文化というポジティブなものに魅了され、アイヌの真実が覆い隠されてしまったとき、「〔日本の〕植民地主義の責任をみずに済ませているのではなかろうか」(石原真衣「〈サイレントアイヌ〉とはなにか 植民地主義/レイシズムの忘却と痛む身体」、『世界』)という問いかけは真に響くものになります。  また、こうしたことは北海道に限った話ではありません。「米国と日本という二つの『帝国』による植民地的状況がいまもなお続く沖縄」(下地ローレンス吉孝「私はあなたの『マイノリティ』を生きられない 私自身のためのクィア・アメラジアン宣言」同)でも、その真実は、観光や文化といったポジティブなものによって隠されています。同じことは、日本が侵略行為を行った海外についても言えます。例えば、韓国です。韓国と言えば、韓国料理はもちろん、Kポップや韓国ドラマも日本ですでにメジャーになり、やはり「美味しい」、「華やか」といったポジティブな印象が持たれています。しかし、その裏面には、日本軍性奴隷制問題(日本軍「慰安婦」問題)などの果たされない戦争責任と、在日の人々に対するレイシズムがあります。  植民地主義あるいは帝国主義の責任を見ないですませたり、果たしていなかったりするのは、なにも日本(人)だけではありません。新しい形での帝国主義を展開してきたアメリカも加えた欧米諸国も、植民地支配の不法性を前提にした謝罪や賠償には応じられない姿勢を取っていて、日本と同様に責任を果たしてなどいません。私たちは、植民地主義について責任を負うべき立場の国々が「一度も公式に、全面的な責任を認めていない世界を生きている」(林裕哲「植民地主義戦争としての『人道的介入』 『保護する責任』、あるいは『文明化の使命』」、『現代思想』)のです。  このように植民地主義や帝国主義の責任に対して、いわば「なあなあ」な態度を取り続けた結果、つまり、誰もちゃんと責任を取ろうとはしなかった結果起きたのが、二〇二三年十月から今もなお続いているイスラエルによるジェノサイドとガザ侵攻だと僕は思うのです。約八十年ものあいだイスラエルはパレスチナに勝手に入植し、その土地の人々を排除・殺害・占領し、自分たちの土地にしてきました。その一つの総決算が今回のジェノサイドです。もし日本や欧米諸国が植民地主義や帝国主義への責任を果たし、それらの主義の不適切さを公式に認めていたならば、これまでのイスラエルの植民地主義的政策も、その帰結としての今回の暴挙も国際的に防止できたのかもしれません。他方で、パレスチナ分割を決議し、イスラエル建国に法的正当性を与えた国連や、昨年ネタニヤフ等に逮捕状を請求するまでイスラエルを裁くことに消極的であったICC(国際刑事裁判所)にも責任があることを忘れてはなりません(金城美幸「パレスチナ人の法的闘争を読み解く 国連と国際法を通した連帯のために」同)。  ここまでの話、なんか説教くさいですね。しかも、日本に属している僕が言うと、自分を棚に上げている感じがして、「どの口が言うんだ」といった印象を受けるのではないでしょうか。もっと言えば、「責任を取るべきだ」と言われると、「過去を反省しろ」のように、過去志向的かつネガティブなことを強制されてるような気がして、なんだか推せませんよね。  しかし、責任を取ることに未来志向的な性格があるとしたら、ポジティブな結果が得られるとしたらどうでしょうか。D・デネットという哲学者によると、自由によって責任が生じるのではなく(自由に選んだ結果に責任が問われる)、私たちは責任を取ることによって自由になります。自分がコントロールできなかった(失敗した)ことに対する責任を果たすことで、未来において同様の事態にならないように自己コントロール力を高め、自由を増加させられるからです。過去の責任を取ることは、未来のために自分を鍛え、未来の自分をより自由で、よいものにしてくれるのです。自分のことをコントロールできる人には信頼も寄せられます。その信頼は未来の自分により多くの自由や裁量を与えてくれます。こうした考え方は、たしかに自己中心的でマッチョなものでもありますが、責任を取るためのポジティブなインセンティブにはなるのではないでしょうか。そしてこれは、私たち個人にもそうですが、国家にはなおさら当てはまります。自己コントロール力を上げ、信頼を得て、自分のできること(自由、裁量)を増やすことは国家にとってこそ魅力的だからです。  責任の取り方は未来にどんなあなたになりたいのかで変わってきますが、そのための第一歩は明確です。「まずは彼女彼らの声を聴き取る努力をするべきだ。これを読む人は、あまりにも単純な訴えに拍子抜けされるかもしれない。だがたったこれだけのことを言うためにも多くの言葉を費やさなければならないほどに、被植民者たちの声を聴けないというのは支配者たちに共通の、容易には取り去り難い、一つの特徴なのである。」(須納瀬淳「いかにして被植民者は『交渉相手』となりえるか? リマ・ハサン、あるいはパレスチナを欧州の課題にするということについて」、『現代思想』)。(たかぎ・しゅん=北九州市立大学准教授・哲学・美学・ジェンダー)