2025/09/12号 7面

百人一瞬 Crossover Moments In mylife 78・橋本悟(小林康夫)

百人一瞬 小林康夫 第78回 橋本 悟(一九八〇―    )  先月、最終日間際の東京都現代美術館「岡崎乾二郎展」を観に行った。そしたら会場で、アメリカにいるはずの橋本君とばったり、びっくり。彼は、わたしの東大・表象文化論の教え子の一人だが、(わたしの指導下ではなく)ブルトン・バタイユ・アルトーというフランス現代文化のもっとも突出した過激派三人を論じた修士論文を書いたあとに方向転換して、ハーヴァード大学へ留学、もちろん時々帰国することもあったが、基本的には、シカゴ大学でポスドク、メリーランド州立大学で講師とキャリアを積んで、二〇一九年からはジョンズ・ホプキンズ大学の比較思想文学学科の助教授として教鞭をとっているのだが、夏休みで一時帰国、後にはご家族も合流して日本旅行を楽しむのだ、と。  美術館では瞬間的立ち話だけで別れたのだったが、しばらくしたら自宅に四〇〇頁あまりの部厚い英語の本一冊が届いた。一昨年にCOLUMBIA UNIVERSITY PRESS から刊行されたSATORU HASHIMOTO著AFTERLIVES OF LETTERS、副題がThe Transnational origins of modern literature in China, Japan, and Koreaとなっている。  こうなれば、どうしても彼がアメリカに帰る前に会って話しを聞かなくては……と急遽、お盆あけに青山でランチをともにすることにした。  橋本君によれば、この本は、ハーヴァード大学に提出した博士論文がベースとなっていて、東アジア文化圏における近代化の運動を、単なる西欧文化の導入としてだけではなく、基層文化としてそれ以前からある「文」のAfterlives(死後の生)として理解し直そうとするものだ、と。特に焦点となっているのが、魯迅(中国)、森鷗外(日本)、李光洙(韓国)の三人。わたし流に言うなら、東アジアの西欧化・近代化の歴史の重層性を、日中韓の「三点測量」という広い視野の下で再考する仕事。そのためには、当然、中国語、韓国語ができなければならないが、そのハードルもちゃんとクリアーしているらしい。二十代の後半でアメリカに渡って十数年、どんなに厳しい「学び」を自分に課したか、それがここに一冊の本となって花開いたことに、(多少は似たような経験をしている)昔の教師であるわたしは「Bravo!」と叫びたい。  となったら、橋本君、学生の時にもわたしから「Bravo!」をもらったと言う。それは、彼が学部生時代に、わたしが行っていたアート・ギャラリーなどをめぐる学生の自主ゼミに参加して、そこでピナ・バウシュ(本連載第2回)についてレポート書いたら、わたしから「Bravo!」が出た、と。そして、そのゼミでは、わたしはつねに「アートは現場だ!」と叫んでいた、とも。  だが、同時に、橋本君は言った、二〇〇三年だったか、わたしがそのとき一度だけ審査員をつとめていた「美術手帖」の「第十二回芸術評論賞」に、ジャコメッティを論じた論文で応募したら「オトされた」、と。  とすると、フランス的な表象文化論の路線から、東アジアの「文」の基層の研究へと、彼の「知」の切先が転換した因のひとつには、わたしの存在があったのかもしれない……クロスオーヴァーはなかなか危険でもあるのだ。  青山のインド料理店でカレーを食べながら、わたしは橋本君に言った、「そうだね、いまこれからこそ、君はアートについておもしろいことを書いたり言ったりするようになるのかもしれないね、だってアートはいつも回帰してくるから」、と。(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)