関わりつづける医療
井口 真紀子著
西村 ユミ
本書は、在宅医である著者が、同じく在宅医である26名の医師たちにインタビューし、彼らの内面に関心を寄せてまとめた博士論文を書籍化したものである。著者は、本書のスタイルについて、理系ではなく人文社会科学系の見方によって著されていると繰り返す。それは、著者が出会った「死生学」という人文社会科学が、自身が在宅で診療をする中で抱えた葛藤に、多角的な視点や方法論を示してくれたためであろう。人文社会科学の考え方や理論は、各章で引用され、一方で本書のテーマを焦点化し、他方でそのテーマの議論を通して、批判的に捉えなおされる。
例えば第1章「なぜ在宅医の死生観に注目するのか」では、「病院の世紀」の前後で、医師が患者の家へ出向き診療をする在宅医療のあり方が別ものであることが、歴史的経緯や医療制度のみならずギデンズの理論を引用して述べられる。そして、現在的在宅医療のカタチが、死因の変化や病院死亡率が在宅死亡率を上回ったこと、人々の生活から死が遠のいていること等を背景としていることが論じられる。それは「ケア志向の医療」として、生活となじむことにおいてこそ成り立つ。
特に死については、多様な知見をもとに「医師の死生観の分析枠組み」の3領域――医学的合理的で管理可能な世界、共同性が前提の生活世界、他者性が前提の世界――が示され、この領域の間の「界面」を在宅医たちがいかに超えるのかが次の章から論じられる。
第3~5章では、医師の語りを挟みつつ、人文社会科学の理論をもとに各テーマが論じられる。例えば第3章では、パーソンズの医療専門職論が取り上げられ、医師役割が議論される。が、既存の理論では説明できないことが在宅医療を担う医師たちの経験にはある。ある医師は、終末期患者が入院すると決め、その調整をした後に「やめとくわ」と言う、その方針の揺れ動きに葛藤する。が、診療所の他のスタッフと相談していくうちに医師は、「迷いを一緒に迷う」という姿勢へと変容を遂げる。終末期の点滴に関しても、医学的な正しさから一歩踏み出し、「副作用がでない範囲で少しだけ点滴をしてみる」医師がいる。医学的合理性には、患者と関係する多くの人たちの悩みが含まれていない。在宅医たちはそれに気づき、人生の最期に関わる者同士で「それなり」に納得しながら、粘り強く時間をかけて関わっていく。死生観の「界面」の越境である。
次いで意思決定が議論される。そのモデルであるACPでは、ともすると話し合いの場で同調圧力がかかり、死への誘導が起こりかねない。語り手の医師たちは、独立して自律した主体同士の対話に基づく意思決定に懐疑的であった。むしろ、言葉にならない「日頃のやり取り」の中で患者が「ポロっと言う」ことに関心を向ける。そして、「答えがないという答え」「言葉にならない苦悩」に心を寄せる。
第5章では多くのページを医師の語りが占める。ある医師は、同じく医師である父親のがんの発覚と手術での執刀、父の看取りを経験し、その過程での動揺や絶望を語った。患者の家族として父親の主治医の言葉も聞いた。父亡き後には、父の後を継いで地元の医師になり、気づけば父のような「患者のことを覚えている医師」になっていた。この医師は、生まれた土地で開業し、小さな頃から知っている「おじさんやおばさん」や、産まれてきた子どもを診て一緒に年をとっていく。こうした中で、ごく稀に起こる「めぐみ」のような相互承認を経験する。
気づくと私は、シンプルゆえに懐疑的であった「医師の死生観の分析枠組み」に納得させられていた。それは、この枠組みが医師の語りによって多層化し、「関わりつづける」プロセスの中で、死者をも忘れない責任の感覚を埋め込み変容したからかもしれない。もはや語り手が医師であることすら薄らいできた。語り手の悩みや葛藤が著者の経験でもあったように、私たちが悩むこととも地続きであるためだろう。著者が自身の経験と重ねながら著した本書には、そうしたからくりがある。本書は、読み手自身の死生観をも問うてくる。(にしむら・ゆみ=東京都立大学教授・看護学・現象学)
★いぐち・まきこ=医療法人社団鉄祐会祐ホームクリニック大崎院長・上智大学グリーフケア研究所客員研究員・東京慈恵医科大学非常勤講師・在宅医療・死生学。家庭医療専門医/指導医、在宅医療専門医/指導医の資格を持つ。主な論文に「死の悲しみをわかちあう」「医師の変容可能性」など。
書籍
書籍名 | 関わりつづける医療 |
ISBN13 | 9784326750610 |
ISBN10 | 4326750618 |