『水滸伝』と金聖嘆
「批評=解剖学」を作動させている真の基底、「愛」の露呈
丹生谷 貴志
金聖嘆(Jin Shengtan)、江戸中期以降の文人筋に知らぬ者なき名、白話小説『水滸伝』に大規模な評釈を加えた批評家として(良くも悪くも)名高い。17世紀江蘇省の産(後、刑死)、西欧区分を敢えて導けば古典主義時代初期、例えばデカルト或いは「ルーダンの悪魔」と同代の人。
江戸期、『水滸伝』は読む読まぬにかかわらず題名概要、巷間知らぬ者ない「小説」となる。「小説」なる語は中国由来、それを曲亭馬琴を核とした江戸末期の物書きが自身の作物の呼称(概念)として用い定着したのは周知のこと、馬琴らがその語の化身としたのが『水滸伝』。「小説」なる語は『水滸伝』を鑑とする。そこで、件の金聖嘆にとって『水滸伝』とは何だったのかに注視が置かれる。「金聖嘆の水滸伝」との対峙こそ馬琴の「日本小説」初の「批評則」=「小説文法」の基底となるからだ。……渡部氏前著は、「小説」呼称を「西欧世紀末文芸roman/novel」の訳語へと拙速に移動させてしまった紅葉らに対し「小説」概念の発端として馬琴を置き「日本十九世紀文学」なる枠を新設、さらに馬琴=批評家という視点から「日本小説批評の起源」の再検を提起する試みだった。今は、「聖嘆と水滸伝」が前著の深化的補遺として再度置かれる。
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聖嘆の膨大な『水滸伝』評釈は本文の添削削除を厭わず、ついには伝本の後半三十余章をそっくり腰斬するという挙に至る、その異常な評釈行為の方法的根拠として聖嘆は「文法十五則」なる「小説文法」を提示する。それはまずは「小説の書法」に関わる技術論、さらに「類似・隣接・照応・反復・反転等々」といった形式的規則に関わり……渡部氏前著はそれを「時を超えて奇跡的にフォルマリスティックな小説批評の実践」と捉え、紅葉以降日本近代批評の主情主義・主題主義が看過し、ひいては「小説という散文」への視線を偏向的に封鎖してしまった傾向に対置することが主眼だった。本書でもその前提は変わらないが、重力が移動する。「本書は『批評、「解剖学」と「愛」』としてもよかった」と氏は率然と書く。重力はそこにある。
……話を単純化すれば、「フォルマリズム的批評」のもたらす「小説視線の解放」は目覚ましいが、方法化された批評技法には避け難い欠点がある。一度装置やグリッドが装備されてしまえば、以降、適当に聡明なら誰でもそれを駆使し得てしまうということだ。「亜流論」と題された章はそのことを提起する。『水滸伝』のスピン・オフ『金瓶梅』を聖嘆に学んだ文法で評釈したと自称する張竹坡、或いはヘンリー・ジェイムズの方法論を継承し展開したと自称するパーシー・ラポックなる男が召喚され、彼らの身振りが、対象化された「作品」を装備された方法装置、予め想定されたグリッドに沿って「解体」するもの以上ではない、と。言わば「食肉解体」めいたものであって「解剖学」とは似て非なるものである、と?能天気な張竹坡に比して、解体された「肉」の匂いに軽く戸惑うラポックだとしても、ことは同じ。文法批評の亜流なのだ。……しかし、「本物」と「亜流」の差異はどこにあるのか? 渡部氏が例示するのは、聖嘆が不意に示す奇妙な吃音、奇妙な絶句である。いつもなら幾重にも「批/評」を加えただろうと見える『水滸伝』中の或る一場に、しかし聖嘆はただ「ほんとうに分からないのだ」「夕暮れにこの一節を思うと震えるばかりで」と奇妙な添え書きをするだけなのだ。その絶句に渡部氏は「何故?」とは問はず、聖嘆が真の「批評家」であることの徴を認める。それこそが聖嘆の「批評=解剖学」を作動させている真の基底、「愛」の露呈なのだ、と?……「納得した!」、では書評にならない。注視しよう。
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金聖嘆は『水滸伝』を「第五才子書」と宣言する。壮子・離騒・史記・杜詩の四書に続く第五の意、「才子書」は殆ど「天人による聖文」の意に近い。書痴の狂った偏愛などと憫笑せぬようにしよう。聖嘆は17世紀初頭の人、その言を文字通りにとらねばならない。彼にとって『水滸伝』自体が「百十の星の精霊」とともに伏魔殿の封印の破れから吹き出し積もった「散/文」、「神聖文字群」の少しばかり歪んだ「鏡像」として紙上黒く、机上に置かれたのだ、と。
……「西欧」の事情ながらこの時期を巡って次のような言がある。
「この時期まで散文は読まれようと読まれまいと存在するものとしてあったが、以降、読まれ書き直し続けなければ存在しないものへと変移する」(M・フーコー)
奇妙な指摘だが、手短に言えばこの時、「散文」の位置が変わるのだ。つまり、「世界という散文」から「書物の散文」へ。西欧的構図を早口で言えば、神は「声」によって世界創造を為す、「神の声」は発話と同時に物質と化し世界は成される。物質と化した「声」、つまりは「文字」。従って「世界」は無際限の暗号めいた文字群=神聖散文として存在する。「散文としての世界(物質=神聖散文)」。そこに、世界を委託されたものとして「人間」が(自身も文字として)置かれる。人間は「世界=散文」を読解する「読書人」として生き始める訳だ。しかし物質に薫習された「神の声」はしだいに押し黙り(原罪の余波?)、人間は遠ざかってしまった「散文としての世界」の鏡像を「自身の文字で書き=読むこと」へと営みをシフトせざるを得なくなる。「世界」の鏡像を自ら書き、それを再読し批評し、終わりなく書き・読み直す、という悪循環――世界が物質=神聖散文としてあった本体への同化を渇望する悪循環――を生きねばならぬ者となる。
……金聖嘆をこの変移の時分の者と想像してみる。「世界=散文」は遠去かり、手元にはその鏡像だけが置かれてある、そんな時分。『水滸伝』は「世界=散文」がなお現前した時期にゆっくりと伏魔殿上空の黒煙から落ちて来た書、だからそれは「世界=散文」から剝がれ落ちて来た超鏡像(第五才子書!)の如き散文として聖嘆の手元に置かれた、と。これは前著で渡部氏が(軽い眩暈の中で?)立ち止まった「『古事記』を前にした本居宣長」と遠く似た事態でもあるだろう。……終わりのない再読=「批/評」による「解剖」の刻が始まる。かつて先人が「世界という散文」を直接読んだのに似た身振りで「鏡像=散文の書」を読むこと、「鏡像」が「本体」と不意に融着するかもしれない界を眼で触診するように、散文の網目の不可測な王手の連環を読み続けるような「解剖学=批評」が、「物質=文字=散文=声」であった「本体」への狂おしい「愛」において起動する。
(……そして、だから、聖嘆の不意の吃音は、紙上の鏡像=文字群が予兆もなく不意に「世界=散文」と融解するかのように視線の前に揺れるのを「目にした」からだと想像すること……何かしれないのっそりと巨大なものの背が濁った湖水の水面に不意に現れ揺れ不思議な臭気を残して過ぎるのを見てしまったかのように?)
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今や「散文としての世界」の押し黙りは久しく、愛の焦がれも涸れた湖水、底の湿気まで蒸発し、聖嘆の身振り、『水滸伝』や『古事記』、その批評ともどももはや文字通り孤独な「読書人」の「書斎のファンタスム」に属する? しかし「世界=散文の押し黙り」はもとより「読まれなくとも存在するもの」の属性、それの最終蒸発は「神」に任せて、「人間=読書人」の属性は今もそれとして継続し、例えば物理学の動作は「世界=散文」に向けての終わりのない「解剖学的読解」の純朴な継続として「鏡像」を産み続けているのだし、「小説/批評」の疎外? その「鏡像生成」の人事左遷にいちいち驚く必要もない。左遷先が無人境だとしても「読まれなくとも存在するもの」はいっそそこで肌を見せてくれるとも言え、だから「鏡像」は文字というドローン群を起動、地表に落とすその微小な影が広野を不意に「散文としての世界」そっくりにする刻を視る。そこでの評釈はいつもながら「また見つかった 何が? 永遠が……私は物質=文字になってしまいたいのだ!」とでも書かれる。
……と、以上は本書をめぐる勝手な白想……言葉遊びついでに……「水滸伝」を分解すれば「水・氵・言・午・伝」、つまり、「ヘルメスは真昼の言葉を伝える」、よろしく。(にぶや・たかし=文芸評論家)
★わたなべ・なおみ=文芸評論家。著書に『幻影の杼機 泉鏡花論』『谷崎潤一郎 擬態の誘惑』『中上健次論 愛しさについて』『日本小説技術史』『小説技術論』など。一九五二年生。
書籍
書籍名 | 『水滸伝』と金聖嘆 |