周司あきら インタビュー
<泥まみれの「男」をすべて被る>
『ラディカル・マスキュリズム 男とは何か』(大月書店)刊行を機に
作家の周司あきらさんが、『ラディカル・マスキュリズム 男とは何か』(大月書店)を上梓した。私たちが素通りしてしまう「男とは何か」に正面から向き合う一冊だ。刊行を機に、周司さんにお話を伺った。(編集部)
――本書執筆の動機をお聞かせください。
周司 男性が自分の性を問い直す運動としては、フェミニズムのリアクションとしての男性学があります。#Metooなどへの反応として書籍や講座も増えているように思います。ですが、そうした時に論じられる「男」や「男らしさ」は、なんだか扱いやすい部分だけしか語られていないような印象があったんです。「善い男になろう」みたいなアプローチと言いますか。
そこでは、本書で言うところの旧来のマスキュリズム、つまりバックラッシュと重なるような男性の権利運動や、ミサンドリーと呼ばれるような男性嫌悪の話が語り落とされている。男性にとって、或いは男性学の研究者やそれに関心を持つ人にとって、あまり触れたくない領域なんだと思います。
私はむしろそちらに関心がありました。男であることには、男らしさを調整して善い男らしさに取り換えるといった話に留まらない、もっと深く汚い部分も含まれるのではないかと。それを正面から扱う本を書きたいと、二年前から構想をしていたんです。
――第一章では、「男らしさ」と「男であること」を区別し、後者が顧みられてこなかったという主張をされています。
周司 はい。この社会では、男性の体が一つの標準だとされていて、医療や交通機関のサイズ、遊具までもが男性の体や趣味や行動様式に合わせて作られています。
しかしそういうものを取っ払ったときに、男性の体について具体的に語られているのかと言えば、そんなことはないと思うんです。比喩的に言えば、ペニス本体ではなくファルス的な偶像しか語られていない。つまり、男らしさについてばかり語られて、男であることが顧みられていない。
「男であること」がどういうことなのかという問いはしかし、やはり一言で答えられるものではありません。それは体のことであったり、男であることが性差別の中でどの位置に置かれているかという話であったり、男性的なものをめぐる嫌悪感や空気であったり、或いは男性集団の一員としていられるかだったり、そうしたことに現れている。これらのことを、私なりに要素を分けたうえで検討していきました。
――本書の重要な洞察の一つが、第六章で展開されている、ミサンドリー(男性嫌悪)の読解だと思います。本書でのミサンドリーは、男性が男性自身を憎むところに現れるものですね。
周司 そのことを着想したのは、私自身の経験によるところが大きいです。私は人生の中で生きる性別を変え、後から男性として生き直すことをしてきたトランスジェンダーの男性と言われる立場です。しかし、元々ものすごく強いミサンドリーを持っていました。
性別移行というのは死ぬほど辛い経験であるにもかかわらず、その移行した先が、全然なりたくない「男性」であることにすごい葛藤があった。でも性別を変えなければ生きていけない。たぶん男性としてやっていくのが生きていくのに必要な手段なのだけれど、男性に対しての嫌悪を抱えてもいる。
そうした状況に置かれていたので、ミサンドリーはなかったことにはできませんでした。ところが、自分の抱える悩みの切実さの割には、ジェンダー論の中でミサンドリーはまっとうに語られる機会が少ない。だからこの本では最初にこれを入れたいと考えました。
――語られるべきはどんなミサンドリーなのでしょうか。
周司 本書ではミサンドリーの内実をいくつかに分けています。それを見るためには、トランスジェンダーの男性が性別移行の過程で直面するミサンドリーに目を向けるのが有効です。
そこには二種類あると考えられます。一つは女性やフェミニストが抱くような、男社会や性差別的な男性に反発するような男嫌い。これは納得しやすいものですよね。それに対して二つ目は、社会全体がうっすら男性を嫌悪している風潮。特に男性自身が男性であることを受け入れられない、自己嫌悪の面が強いミサンドリーを含みます。
前者のミサンドリーについては、性差別の影響があるでしょう。女性から男性に移行するということが、加害者側に行くことのような感じがしたのです。実際に男性が何かしら嫌なことを相手にしていなくても、構造の上で誰かを踏んでいるんだな、街を安全に歩けてしまうだけでも特権があるな、と自覚してしまう。それは全然心地よくない。
そして後者のミサンドリーは、男性として肯定的に生きていく未来が描けないことに現れています。男性的な体をもったり、男性的なコミュニケーション様式・生活実態をもって生きていったりすることの具体相が、実際にそうなってみるまで想像できない。これほど男性がいるし語られているはずなのに、何かが語られていない気がする。ロールモデルがいない。そういう感覚があります。
本書で難しかったのは、後者の、社会に根差すミサンドリーを描き出すことでした。ミソジニー、女性蔑視というのは、制度として社会に組み込まれているのが見えるわけです。しかし、ミサンドリーはそれとは異なり、男性集団への抑圧として現れているわけではない。むしろ空気や文化になじんだ男嫌いに見えるのです。
とはいえ本書を書きながら不思議だったのは、ミソジニーとミサンドリーが連続しているように感じられたことでした。トランスジェンダーの性別移行や同性愛の観点からみるとその両者が繫がって見える、というのは、改めて発見したことですね。
――その連続性を整理してみます。私たちは男性性を素晴らしい男性性と、忌避すべき男性性とに分けている。その上で、前者が乏しいことへの嫌悪や蔑視が、弱者男性/ミソジニーになる。それに対して、後者が多いと感じるのがホモフォビアやふつうの男性性嫌悪。とすると、ミソジニーとミサンドリーの連続というのは、ミサンドリーと同じ仕組みがミソジニーを結果する、ということなのではないでしょうか。
周司 なるほど、そういう整理もできますね。本書では、たとえば弱者男性論の場合、それはミソジニーに由来するというより、ミサンドリーがまず大元にあるのではないか、という話をしました。ミサンドリー概念を使うことで、混みいった問題がクリアになるのではないかと。
本筋から逸れますが、弱者男性論に含まれる個々の「弱者」要素には、性別と結びつけられる必要のないものも多いです。たとえば貧困に苦しんでいる男性であれば、本来は貧困問題にコミットすればいい。男性であるから苦しい、ということにこだわらなければ、同じく貧しい女性と共闘して労働運動にすることができるはずです。
弱者男性論のメイントピックは労働と非モテの問題に偏りがちですが、このうち前者は資本主義が傾いていることに由来します。勝ち抜きできなければ負けは負け、既に持っている人に富が集約されるという仕組みの中で、労働運動としての一体感が出せなくなっているのでしょう。
20世紀であれば、今なら弱者男性論にコミットする人も、労働運動で別の男らしさを誇示することができたはずですよね。左翼的な男性性のような。しかし今やそのような集合体を作るエネルギーがないし、仕組みがそういうことをさせてくれない。日々労働でくたくたで、連帯することができないんです。
――男性の「生きづらさ」を訴える言説にはフェミニストからの批判もあります。本書はそれにコミットしない形で、男性の抱える辛さを捉え返している。
周司 そうですね。私は五月に出版した『男性学入門』(光文社)において、男性が履いているとされる「下駄」、つまり特権を三種類に分類しました。①男性が主体的に脱ぎ捨てるべき下駄、②周囲の人々が無理やり男性に履かせている下駄、③男性が脱ぎ捨てる必要のない下駄。このうち二番目の下駄は、個々の男性からしたら、むしろ嫌だと感じているものも含みます。
たとえばこんな話を聞いたことがあります。男性の進学進路は女性以上に狭められていて、希望しても文系に行けないというエピソードです。当人は困っているんだけれど、構造的に見るなら、男性が進路をコントロールされて向かわされている先は、より稼げて制度的な特権を享受しやすい方向です。当人からしたらそんな下駄はいらない。でも履かされて、結果誰かを踏むために使われてしまう。それはもう個々人の問題ではありません。周囲の人が改めなければならない問題です。男性の生きづらさには、特権のコストとして単純に帳消しにはできない、水準の違いがあるのだと思います。
――あとがきには、本書が「泥まみれの「男」をすべて被る」試みだったという記述があります。執筆には、ご自身のアイデンティティ特有の困難もあったのではないでしょうか。
周司 ややこしい話かもしれませんが、私自身は男性としてのアイデンティティを持っているわけではありません。性別移行を必要として現在男性的な境遇で生きているというのは結果論なので。このあたりは他のトランス男性とも、多くのシス男性とも違う感覚なのでしょう。
でも、このように男に対して直接のこだわりを持っていなくとも、一般的に私は男扱いされる。たぶん歳を取ったら、おじさんおじいさんみたいな形になって死んでいきます。なので、そういう未来を引き受けるのであったら、男であることについて考えなければ自分自身の未来もよくならない。そのような思いがありました。
――自分の性を引き受け直すというモチーフは、第六章にも表れています。
周司 私がそう考えたのは、男という存在がなんだかつまらなくさせられているような感覚があるからです。その原因を、私はミサンドリーと名指しました。
自分自身は、性別がある程度男性側に適合したことで、すごく生きやすくなった実感があります。ですが、世間を見渡してみると、男性は自分が男性であることを全然楽しそうに捉えていない。何かもっと欲しがっていて、女性を羨んでいる。それがすごく不思議でした。私は女性的な境遇で生きていた時代、それがいいとは全く思っていなかったからです。
「男性であることが嫌だ」と思うにしても、たとえば肌や体が汚いとか、射精が汚いとか、身体的な悩みなら、単に大変だな、それが汚いな、と思うだけで済むはず。男性である自分が嫌だ、男性である自分が汚いというところまでつながらなくてもいいはずなんです。ところがそれがなぜか、男性であることの自己否定にまでスライドしていってしまう。
――それは女性との対比において生じてくることだと感じました。男性は汚い射精をするけれど、女性は射精をしない。だとすれば汚いのは「男性」なんだ、というような。
周司 なるほど。そうだとしたらこの問題は、私が後から男性として生き出したことや、パンセクシャルで男性も性的な対象であることとも関わっているかもしれません。
昔、私が男性ホルモンの投与によって体臭の変化を経験したときでした。女性的なにおいから、汗臭いとか男臭いとか言われるようなにおいに変わります。それを自分では嫌なにおいだなと思っていました。ですが、ゲイの男性と知り合って肉体的に近接した時に、「すごくいいにおいだよ」と言われたんです。これをいいにおいって言う人もいるんだなと驚きました。
つまるところ、男性に特有とされる体の変化があったところで、それをネガティブに理解するとしても、単にそれが臭いとか汚いとかだけで留めておけばよい。あるいは逆にこの男性のように、ポジティブな方に受け止めることも可能なはずだと思うのです。
トランスの男性からすると、男性の体はなりたい存在だったので、それ自体は嫌ではない。臭いことは嫌だけど、それが男性の臭い体であることは嫌ではない。臭いことと男性の体であることは切り分けられているんです。だから、自分のどこの部分は許せて、どこが嫌だと感じているのか截然としています。男性であることの否定と紐づけなくてもいい「嫌さ」というのが、いくつもあるような気がするんです。
――シス男性はトランス男性と違って、いくら自己否定しても、ふつう自分が男性であることは揺らぎません。自分の確固とした男性性に甘えているから、安心して男性性を否定できるのではないでしょうか。
周司 それはありそうです。実は本書の最初の方で、シスジェンダーとトランスジェンダーに新しい説明を与えています。それは、両者の違いを「性別というものに一貫性があるかないか」に見るというものでした。
トランスジェンダーの人が性別を変えていくときには、性別と言われるものが一貫せず、いくつもあるように感じられます。戸籍であるとか、体の一部のそれぞれだとか、他者からの扱いだとか、それも実家なのか職場なのか通りすがりの場所なのか。それぞれで性別と呼ばれている要素が異なっているという実感があるんです。
トランス男性は、そのすべてが「男」に揃っている状態ではないところからスタートするので、必然的に、どこがだめでどこがいいのか、ということを切り分けながら生きることになるのでしょう。それに対して、シス男性として生きている人は、大体どこも男性の側で揃ってしまっている。なので、そのうちのどこかが嫌だなと思った時点で、男性であることの全てが一気に受け入れられない方に傾いてしまうのではないかと思います。
――これから男性は、男性らしさや男であることをどのように引き受ければいいのでしょうか。
周司 本書の最後に作家の済東鉄腸さんの言葉を引用しました。彼は自分が男であることを割とポジティブに捉えています。一方で男性学は、男性であることへの嫌悪が前提となっている。彼はこのことに違和感を抱いていらっしゃるんですね。
私はそれに強く共感します。男であることはそんなに居心地悪くない、という方向でどうやって男性運動にコミットしていけばいいのかと考えるなら、私たちは自己否定に走らない仕方で、男性を豊かにするようなやり方を探っていく必要があると思います。
また、フェミニズムとの関係性も引き続き問題となります。第四章では反フェミニズム的な男性の権利運動を取り上げ、それが性差別を助長しないかたちで進んでいく可能性を示唆しました。
また、今後の男性運動の展開に向けては、西井開さんが7年ほど前にお話しされていた「半フェミニズム」という言葉も紹介しました。フェミニズムを全部真に受けすぎるのではなく、半分お借りしつつも、男性たちの問題は自分で語る言葉をもって向き合っていく。フェミニズム半分で自分の問題半分で、という形で男性運動を捉えていくのは有効かもしれません。(おわり)
★しゅうじ・あきら=作家・主夫。トランス男性と男性学の接点を探している。著書に『男性学入門』『トランス男性によるトランスジェンダー男性学』、共著に『埋没した世界』『トランスジェンダー入門』『トランスジェンダーQ&A』など。