進化論はよく誤解される。たとえば、自民党は以前、広報の漫画で憲法改正を訴え、ダーウィンの進化論では「唯一生き残ることが出来るのは変化できる者である」と説明した。そこで言われたのは「時代の変化に対応した改憲こそが進化論にもとづく科学的なものだ」というものだった。これに対してすぐに生物学者らから進化論の誤用だという声があがった。
進化論を使って倫理や道徳を説いてきた人たちも、同様に進化論を誤用してきた。ハーバード・スペンサーや社会ダーウィニスト、無政府主義者クロポトキン。
本書の初版は一九八二年に刊行されたが、当時話題のE・O・ウィルソンの議論が検討されている。彼は「進化論は倫理学に取って代わる」とまで謳う。著者ピーター・シンガーはウィルソンの議論もまた進化論の誤用だと評価している(本書第三章)。
本書が面白いのは、では倫理や道徳を論じるにあたって進化論の正しい使用法は何かを明らかにしている点だ。この点でシンガーの解説は進化論の正しい用法を記したガイドブックとして、今日でも色褪せない内容となっている。
たとえばシンガーは、動物がとる利他的行動の進化を、血縁利他性、互恵的利他性、集団利他性の三つに分けて説明する(第一章)。サルは血縁に限らず他のサルを毛繕いし寄生虫を取り除く。毛繕いされたサルが毛繕いし返すことはめったにない。血縁からも互恵性からも説明できない利他的行動だ。こうした行動を促す遺伝子が突然変異として現れたとしてもその個体の利益にならず淘汰されるだろう。しかし、隔離された集団の中で、この遺伝子をもつサルが増えるとすれば、そうした集団は他の集団よりも繁栄する。これが集団利他性だ。
人間の倫理、たとえば浅い池で溺れている子どもを見て助けようと飛び込む行動も、同様に説明できる(第二章)。また、こうした説明はそれ自体、その行動への動機づけについて何も含意していないことをシンガーは正しく強調している。飛び込む行動に集団としての利益があろうと、それを動機にして飛び込むわけでない。
シンガーはまた、私たちの倫理に関する直観や信念が進化の中での適応にすぎず無根拠であることが暴露されれば、その正当性を崩すのに進化論が使えると主張する(第三章)。今では「進化論的暴露論証」と呼ばれ、倫理学でもっとも注目されている論証だ。
もちろん、進化の適応だとしても正当性をもつものは存在する。たとえば、数学の定理だ(本書第四章)。理性的能力、特に数え上げる能力はヒトの進化の早い時点で現れたが、それが適応だからといって、数学の定理の正当性が崩されることはない。理性を使って定理を正当化することができるからだ。
シンガーは功利主義も同様だと言う(第四章)。私たちは理性を使って、この原理を正当化することができる。理性はエスカレーターのように、自分の利害、自分の家族や共同体の利害、さらには自分の種族の利害を超えて偏りのない見地へと私たちを連れていくからだ。
それに対して私たちの倫理に関する直観や信念は必ずしもそうではない。たとえば、奴隷制を認めるべきだというかつて人々が抱いていた直観や信念は身内びいきという生物学的要因と悪しき慣習という文化的要因の結果でしかない。
一方で、溺れている子どもを助けるべきだという直観や信念は集団利他性だけでなく、功利主義、ひいては理性の連れていく普遍的な見地から正当化することができる。
もっともヒュームならば理性は情念の奴隷、『利己的な遺伝子』の著者ならば理性は遺伝子の奴隷でしかないと言うのではないか。シンガーは認知的不協和や避妊具の使用を例に、理性が情念や遺伝子を飼い慣らす様子を示していく(第五章と第六章)。
シンガーはこのようにして、慣習道徳や利己主義に対して功利主義がいかに優位であるかを明らかにする。二〇一一年版のあとがきでは、最近の道徳心理学の動向を紹介しながら、この優位性をさらに示そうと試みている。(矢島壮平訳)(すぎもと・しゅんすけ=慶應義塾大学教授・倫理学)
★ピーター・シンガー=濠州出身の哲学者・応用倫理学者。動物解放や効果的利他主義を提唱。