2025/07/04号 5面

フェアリー・テイル 上・下

フェアリー・テイル 上・下 スティーヴン・キング著  スティーヴン・キングという名前から、ホラーを想起する方も多いだろう。キングはそのキャリアの初期から、恐怖という表現を通して、人間の様々な面を描いてきた。とはいえ、その作品群は実はきわめて多彩な広がりを見せている。例えば、近作の『ビリー・サマーズ』は殺し屋を主人公にした犯罪小説であると同時に、「文章を書くこと」の意味を掘り下げる物語でもあった。  本作のタイトルは『フェアリー・テイル』、すなわちおとぎ話。キングの語りの幅をあらためて印象づける一冊である。本作はコロナ禍の最中に書かれた。この題名には、当時の沈鬱な空気に抗して、読者を元気にする物語を書くというキングの決意が込められている。物語の持つ力、あるいは夢見る力がみなぎった作品である。  『フェアリー・テイル』は現代アメリカに暮らす少年が異世界を冒険する物語である。もっとも、キングの語りは先を急がない。主人公チャーリーが異世界へと旅立つまでに、実に上巻の半分近くが費やされる。  キングの多くの作品と同じように、この物語もまたアメリカの田舎町から始まる。十七歳のチャーリーは自分の暮らす小さな町について、そして自身の生い立ちについて語る。幼いころの母の死。悲嘆に暮れた父が酒に溺れ、やがて立ち直るまで。そして、同じ町に暮らす偏屈な老人とその愛犬のことを語り、チャーリーが彼らと心を通わせるまでの過程を語る。そうした積み重ねを経て、やがてチャーリーは異世界に足を踏み入れる。旅立つ前の日常の積み重ねは、決して単なる助走ではない。序盤の物語は、異世界での冒険と同じ重みをもって描かれている。読者はその細部に触れることで、異界への旅という飛躍を現実の延長として受け止めることになる。キングならではの語りの密度は、派手な展開を期待する読者にはじれったく映るかもしれない。だが、この密度が物語の重みを生みだすのだ。  チャーリーが踏み込む異世界〈エンピス〉は、神話のような、あるいは寓話めいた空間である。そこには暗雲に覆われた王国があり、影の支配者や、苦難を抱えた住民たちが登場する。  〈エンピス〉を語るにあたって、チャーリーはさまざまな物語に言及する。『ジャックと豆の木』や『オズの魔法使い』といったおとぎ話はもちろん、『吸血鬼ドラキュラ』や『フランケンシュタイン』といったホラーの古典にも触れる。ラヴクラフトのクトゥルー神話に『スター・ウォーズ』や『ゲーム・オブ・スローンズ』、『ハウルの動く城』といった名前も挙がる。チャーリーの冒険と、彼が(そしてキングが)触れた物語とが響き合う。世の中に広く知られた数々のフィクションと、チャーリーの経験が接続される。  物語の構造が、神話学者ジョーゼフ・キャンベルのいう「英雄の旅」に呼応している点にも注目しておきたい。日常からの旅立ち、異界での試練、そして帰還。チャーリーの歩む道筋は、かなり明快にこの構造に沿っている。  そうした仕掛けに支えられて、この小説は物語について語る物語ともいえるものに仕上がっている。困難を乗り越えて希望へと向かうチャーリーの旅。それは、キングが過酷な物語を描くことを通じて、人の内面に迫ろうとしてきた軌跡と重ねることができる。  『フェアリー・テイル』は、読みやすい冒険譚として成立しつつ、同時に物語の力を感じさせてくれる語りの書でもある。暴力や喪失、痛みに遭遇しながらも、最後には希望をつかみとるストーリー。そこには、長年語り続けてきた作家の意志がにじむ。  人々がさまざまな困難に直面している現実。その困難を直接解決するわけではないけれど、人々に何かを提供しうる物語。その可能性を信じているであろうスティーヴン・キングの語りに、じっくりと浸ってみたい。(白石朗訳)(ふるやま・ゆうき=書評家)  ★スティーヴン・キング=アメリカの作家。一九七四年に『キャリー』で作家デビュー。「モダン・ホラー」の巨匠。一九四七年生。

書籍

書籍名 フェアリー・テイル 上・下
ISBN13 9784163919782
ISBN10 4163919783