2025/10/31号 4面

〈私たち〉とは何か

〈私たち〉とは何か トリスタン・ガルシア著 松葉 類  本書は、多様な政治運動を総覧的に参照しながら、「一人称複数」すなわち〈私たち〉を単位とする、かつてない政治的な視座を提示しようとする。この視座は、たんに政治的分析のためのみならず、実践のための新たな態度決定を導くものでもある。平易な語りのなかに、アナキズムから新唯物論、ポストヒューマン論まで幅広い射程をもっており、アイデンティティ・ポリティクスに関心のある読者には必読の書である。  〈私たち〉とは、主体が属すことのできる多元的な集団を意味する。政治的な意味において〈私たち〉は、大小の両極のあいだの大きさをもつ集団である――巨視的に見れば、それは存在者たち一般の集団として万物と一体化しうるであろうし、微視的に見れば、いち主体を形成する諸人格の集合を指しうるであろうが、政治的実践、つまり分断と融和の可能性を考えるためには、〈私たち〉はひとまずこれら両極に至るまでの各集団である。  また、〈私たち〉は別の〈私たち〉と重なりあい、優劣をもちうる。たとえば移民差別を批判する〈私たち〉がいたとしても、それはさらに男性(女性)といった〈私たち〉を内包しているかもしれず、また前者と後者の〈私たち〉のうちどちらを優先するかによってさらに細かい〈私たち〉へと分かれうる。こうした差異化は、階級、年齢、人種にかぎらず、環境保護、軍事的規模、グローバリゼーション、宇宙開発等といった争点の支持(不支持)にまつわる、ありとあらゆる〈私たち〉について起きている。もはや現代における政治は、左派右派といった二項対立、または同心円の包含/排除モデルで考えることが不可能であり、根源的な多様性への分断に曝されているといえる。  ガルシアによれば、この事態を従来の個人主義的視座によって分析することはできない。なぜなら、個としての主体であっても政治的立場を表明する場合には、不可避的に何らかの〈私たち〉の一員でなければならないからである。たとえそれがアナキスト/個人主義/反権威主義であったとしても、特定の名のもとに複数の主体が集められる以上――たとえそれが不本意なレッテルであっても――それは必ず何らかの〈私たち〉である。  著者はさらに、交差性(インターセクショナリティ)の視座をも批判しようとする。それはこの概念が主として「マイノリティ」の価値づけのために用いられているからであり、また、交差点のような比喩を用いるがゆえに、たとえば優先性を含んだ複数のアイデンティティ同士(たとえば「黒人>女性>エコロジスト」と「エコロジスト>女性>黒人」)のあいだの差異や内包関係を見づらくしてしまうからだ。個々のアイデンティティは、交差性の代わりに、〈私たち〉を規定する境界線を重ねて透かし見る「透写紙」モデルを用いて論じられなければならない。さらにこのモデルは、歴史的動性を考慮することによって「〈私たち〉の〈私たち〉に対する戦争」として再構成される。それは〈私たち〉が不可避的に生みだす支配構造が、それ自体を正当化または無効化させつづけるというモデルである。著者は「ポストモダン」について一貫して批判的な立場を採るが、この帰結における近接性についてはいずれ論じられるべきであろう。  本書の美点はおそらく、変容に曝されつつ優先性を含んだ複数のアイデンティティのモデルを明快に描き出した点にある。このモデルは現代におけるカテゴリーの基盤喪失と、その選択の戦略性を論じるうえできわめて有益である。ただ、そこから読者への課題として与えられる実践の可能性については、次のように自問せざるをえない。著者は最後に、大きな目的をもたない「ちょっとずつ」の政治運動を肯定しているように思われるが、それは近視眼的で短絡的な欲望の表出を意味しうるのではないか。基盤なしに選択されるカテゴリー、それらの累積によって自己決定する政治的主体、大いなる理想を廃棄し目先の目的だけを追求する政治運動――こうした政治像が新たな地形図をもたらす動因となりうるのだろうか。これらの問いは、むしろ現代的政治がつねに抱えるものでもある。著者が述べるように、いま私たちはこうした息詰まりを抱えながらも「ちょっとずつ」先へ進むことをつねに余儀なくされている。それぞれ多様な〈私たち〉を透かし見ながら、その都度よりよい社会へ向かうために。(関大聡・伊藤琢麻・福島亮訳)(まつば・るい=立正大学講師・政治哲学・宗教学)  ★トリスタン・ガルシア=哲学者・小説家・パリ国立高等美術学校教授。著書に『激しい生』『7』など。

書籍

書籍名 〈私たち〉とは何か
ISBN13 9784588011887
ISBN10 458801188X