2025/10/03号 3面

美学における居心地の悪さ

美学における居心地の悪さ ジャック・ランシエール著 小林 成彬  ジャック・ランシエールは政治哲学・美学・教育哲学など幅広い分野に批判的に介入しその発言は世界的に注目される哲学者である。本書は彼の著作の中でとくに美学への批判的介入として位置づけられる。美学については、すでに『感性的なもののパルタージュ』でおおかたの理論的布置を示していたランシエールだが、本書では二人の哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールとアラン・バディウの芸術論への批判を通してより立体的にその像を照らし出している。  カントは『判断力批判』の「美の分析論」において、美的判断の自律性を、悟性の法則に従わせる認識の対象でもなく、理性を感覚の無政府状態に従わせる欲望の対象でもない限りにおいて考えていた。重要なのは、「~でも、~でもない」という二者否定による宙吊りにおいて、美的状態すなわち諸能力の自由な戯れが経験されることである。ランシエールによれば、これは、フランス革命の「自由か死か」といった選言的な法的論理に対抗しうるものである。カントの美的判断を引き継いだシラーが強調したのもその点であった。しかしながら、リオタールはカントの「崇高」概念の独自な解釈から、芸術を再び選言的論理に隷属させてしまう。芸術は「自由な戯れ」ではなくなり、〈他者〉の法に従属させられる。もしコンセンサスをずらしていく営為が政治と美学の最も深い次元であるのだとすれば、この「法」の論理は、政治も美学も同時に廃棄してしまうことになるのではないだろうか。以上がランシエールによるリオタール批判の大要である。この論理は本書で何度も繰り返される。例えば、クロード・ランズマン『ショアー』における「表象不可能性」の問題もほぼ同型の論理で批判の俎上にあげられることになる。このようなランシエールの批判は、『イメージの運命』(堀潤之訳、平凡社)ですでに紹介されているので馴染み深い読者も少なくないだろう。  だが、その議論の射程についてはいまだ十分に吟味されているとは言い難い。ランシエールの批判は時代介入的なものでもあり、とくに冷戦終結ののちにいかに世界を構想しうるのかという問題意識を抜きにして論じることはむつかしい。歴史はどのように物語られうるか。とりわけ「革命」はどのように語られうるか。冷戦終結以前には、革命は歴史的時間を切断しうる出来事として「未来」に措定することができただろう。しかし、そうした時代が終焉した時に、いかなる時間の神学が立ち現れてくるのだろうか。ランシエールは、その「切断」が「過去」に転位したのだと批判する。ホロコーストの問題が八〇年代、九〇年代に改めて問題の中心となったのはそのためだとランシエールは考えるのである。このような時間論的視点から見通してみると、バディウへの批判も明快になるのではないか。バディウはたしかに「切断」を「過去」にはおいていないかもしれないが、それを今度は「未来」すなわち「革命」と結びつけ、やはり「崇高の美学が要求する〈他者〉の命令と一致する」ことになるのである(一二三ページ)。したがって、問題は「時間」の配置でもあるのだ。  もう一つ、ランシエールの時局批判について。九〇年代以降、「人権」は犠牲者の絶対的権利へと転位され、他者による人道的介入の行使――のちに「無限の正義」――に連なることになるが、ランシエールはその転位そのものを批判的に読解している。だが、「人道的危機」の状況さえもが「フェイク」と呼ばれる新しい時代的局面に突入している現在においては批判的論理は新たに再発明されねばならない点もあるだろう。「時間の神学」についても同様である。後者については、二〇一八年に出版された『現代――芸術・時間・政治』(未邦訳)が新たな展望を与える好著である。  最後に、本書の翻訳はランシエールの原文の持ち味を十分に活かした素晴らしいものであることを付記しておきたい。(松葉祥一・椎名亮輔訳)(こばやし・なりあき=國學院大學非常勤講師・フランス現代思想)  ★ジャック・ランシエール=フランスの哲学者・美学者。著書に『プロレタリアートの夜』『無知なる教師』『不和あるいは了解なき了解』など。一九四〇年生。

書籍

書籍名 美学における居心地の悪さ
ISBN13 9784900997790
ISBN10 490099779X