2025/05/09号 6面

アンビバレント・ヒップホップ

アンビバレント・ヒップホップ 吉田 雅史著 パンス  20世紀後半に誕生し、いまや世界中に広まっているヒップホップ。ひとつの音楽ジャンルとして形成されてきたそれは、いまや様々な要素を内に含んだものとなっており、シンプルに論じることは大変難しい。よくありがちなのが、ヒップホップを社会的に追いやられた層からの異議申し立て、ある種のカウンター的な文化として形容する言説だ。それはリリック(歌詞)やラッパーの態度などといった側面を言い表してはいるものの、ヒップホップ全体を捉えているとは言い難い。ラップはもとより、ビート、ミュージックビデオ、演者たちを取り巻くシーン、カネの流れ、地域的、文化的な差異とそれにまつわる闘争などなど、多くの要素が絡み合っている。本書ではそれらを丁寧に紐解き、さらに、「ヒップホップの発生地」であるアメリカだけでなく、日本からの視点を織り込み、アメリカとのねじれを中心において展開させている。それゆえ「アンビバレント」と名付けられている。中でも特に興味深かった点について、いくつか記したい。  SNSなどを見ると、ヒップホップについて膨大な意見が発信されている。アーティストはもちろん、リスナーも積極的に語る。ゆえに、SNS上でヒップホップについて持論を述べることは、ちょっと怖い。「ヒップホップ警察」などと呼ばれているが、ある意見に対してそれは違う、と物申す人が、他の音楽ジャンルと比べても多いと感じるし、時には激論になることもある。なぜこうなるのだろう……と以前から思っていたのだが、本書では、ラッパーの言葉を「傾聴」するオーディエンスや、ヒップホップのことで頭がいっぱいな「ヘッズ」たちの「前傾姿勢」について指摘しており、納得がいった。テレビなどでポップミュージックを受動的――「後継姿勢」で受け止めるファンとは異なり、ラップにどんどん前のめりになっていき、活発に主張する人々は独特だが、実は、テレビのリアリティ・ショーも、似たように観客があれこれ議論することを促す性質を持っている。ラッパー自身がキャラクターを主張すると同時に精査され、時にそのキャラクターを引き裂かれるような状態に置かれることは、特に現代のヒップホップに見られる。  そして、ヒップホップをめぐるアメリカと日本のねじれについて。1970年前後、「ロックに日本語は合うのかどうか」といった「日本語ロック論争」なるものが存在した。しかし、その後色々な作品が送り出され、今では「日本語ロック」のくくりで日本のロックを聴く人はほぼいないはずだ(『Jロック』『邦ロック』などの言葉はあるが、これは地域性に着目したものであろう)。しかし、ヒップホップ/ラップに関しては未だ「日本語ラップ」という名前が生きている。その背景には、押韻やフロウなど、英語のラップに前提とされているスタイルを日本語に置き換えることの難しさがある。さらにいかにも「日本の伝統」に寄せてしまうと「ダサく」なってしまうジレンマもある。そんな中、浅田彰が言うところの「J回帰」の90年代以降という時代に、ラッパーたちがいかにして安易なドメスティック志向に陥らず、独自の方法論を編み出していったかが描き出されている。柄谷行人『日本近代文学の起源』における「風景」論を引きつつ、1990年代の日本語ラップにおける「概念」の描写から、2000年代にローカル化していくラッパーたちによって「風景」が発見されたという指摘もユニークだ。  加えて、特に注目したいのは「ビート」へのこだわりだ。ヒップホップを論じるとなるとついリリックなど「言葉」の方に関心が向きがちだが、詩と同じくらい、ビートはヒップホップにとって重要な要素だ。反復されるドラムのリズムパターン、サンプリングされる諸々の音楽の断片に身を任せることについて、図解も含め多く論じられている。その分析は、日本とアメリカのねじれにも通じている。本書で挙げられるヤン富田は、アメリカからの動きよりも少し早くジャズ的なフィーリングをヒップホップに持ち込んだ。そしてDJクラッシュは、ヒップホップのビートへの繊細かつ革新的なアプローチで、海外で熱狂的に受け入れられ、トリップ・ホップなど新しいサウンドを切り開く存在となった。言語の点ではねじれた関係にあった「日本語ラップ」のアーティストが、音においてはむしろヒップホップを未来へと推進していったのは、忘れてはならない側面だ。生演奏ではない打ち込みと反復によって作られたビートは、ヒップホップに限らずここ数十年の音楽を特徴づけている。それら全体を把握するためにも、格好の一冊となっている。(パンス=ライター・DJ・テキストユニットTVOD)  ★よしだ・まさし=批評家・ビートメイカー・MC。共著に『ラップは何を映しているのか』 など。一九七五年生。

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