美術史とその外側
坂本 満著
宮下 規久朗
本書は、今年93歳になる坂本満氏による美術史論集である。氏は、東京国立博物館、東京国立文化財研究所、お茶の水女子大学、国立歴史民俗博物館、聖徳大学、うらわ美術館館長などを歴任してきた美術史界の大御所。戦後日本の美術ブームに乗って刊行された多くの美術全集の解説や翻訳で活躍してきた。評者も学生時代に講義に来た氏の謦咳に接し、多大な学恩を受けてきた。
坂本氏はフランスを中心とした17・18世紀の西洋美術を専門としているが、南蛮美術についての研究でよく知られている。戦国時代から江戸時代初期にかけて、西洋の影響を受けたキリスト教美術や洋風画が流行したが、それを西洋美術史の観点から分析した研究は画期的であった。史上もっともよく売れた美術全集である小学館「原色日本の美術」の一巻『南蛮美術と洋風画』(1970年)から『南蛮屏風集成』(2008年)にいたるまで、氏はこの分野の研究を牽引してきた。また氏は、パリ国立図書館に蔵される膨大な版画を調査し、それを驚くべき視覚的な記憶力によって縦横に引き出し、多くの作品の図像源泉を解明した。
本書は坂本氏のこれまでの研究の総集編といえるものだが、「ですます調」の平易な語り口となっている。その視線は一貫しており、美術史の「外側」、つまり本流や名作でないものにおもしろさを見つけている。廉価な肖像画として流行した影絵、西洋の民衆版画、ルネサンスやバロックという大様式の後に生まれたマニエリスムとロココ、受難伝を立体的に再現した北イタリアのサクロ・モンテ、東西交流から生まれたシノワズリーや南蛮美術、書物の美術、だまし絵、明治期の擬洋風建築、西洋と江戸期の解剖図など、多岐に及ぶ。それらは美術史学の対象として重視されてこなかったが、視覚芸術の歴史を考える上で重要で興味深いものばかりである。
擬洋風建築として有名な松本市の開智学校などのユニークな小学校校舎は、「地元民の想いが生みだし造り出した力強さがあり、同時に楽しさを見つけることができる」とし、「あこがれを形にしていくたくましさと、その結果生まれた独特な形に新鮮さを感じ」ると称賛する。この旧開智学校は2019年に国宝に指定されたが、そのことは評価できるだろうか。
日本には国宝や重要文化財といった格付けがあるが、氏はそれに疑問を呈している。この制度は1950年に制定された「文化財保護法」に基づいている。文化財は「歴史上又は芸術上価値の高いもの」と規定されているが、「歴史的な貴重品がかならずしも芸術性が高いとはかぎらない」のに、同じ国宝や重文というラベルで示されるのは粗雑であり、何よりも「国の権威によって芸術作品に等級をつけること」が問題だという。少しでも美術史に携わった者ならば、こうした等級付けがいかにあてにならず、いい加減なものかということは常識である。にもかかわらずいまだに大きな権威を持っており、最近も大阪、京都、奈良で開催された国宝展に観客が長蛇の列をなしたことからも、一般の人気が高いことは疑いえない。
さらに、「現代芸術の格付けは困難」であるにもかかわらず、団体展や公募展でも「文部大臣賞というものがあり、芸術院という前世紀の遺物も、文化勲章といったものも存在」しており、「国民的合意のうえに中立公平を旨とすべき国家が、私的団体やその代表的人物に賞を与えるようなこと」を批判する。全面的に首肯できることである。
また、「自然とは様式である」というアンリ・ルフェーブルの言葉について、自然を描写するときの美術様式は、地域と時代の視覚認識に近いということを説明する。その興味深い例として自身の体験を語る。氏は大学院生のころレポート作成のため、東京国立文化財研究所で海北友松のモノクロ写真を一週間ほど眺めて暮らしたという。そのとき上野公園で、「ふと見上げた冬木立の枝ぶりが、先刻までにらめっこしていた友松の、ついぞ写生的とも思っていなかったあの墨筆の枝ぶりそのままに見えた」という。その体験によって、画家と同時代の人々は「絵画様式にある程度は近づいた類型的な視覚認識をもっていた」と考えるようになったという。評者にも似た経験があるが、このことは自然描写のみならず、美術様式とは認識様式でもあるというきわめて重要な視点を与えてくれる。
平易でありながら、碩学ならではの豊かな美術体験から紡ぎ出された、美術を楽しむための着眼点や示唆に富んだ良書である。(みやした・きくろう=神戸大学教授・イタリア美術史・日本近代美術史)
★さかもと・みつる=国立歴史民俗博物・お茶の水女子大学名誉教授・東西美術交渉史・西洋版画史。著書に『版画散歩』、共編に『ブック・アートの世界』など。一九三二年生。
書籍
書籍名 | 美術史とその外側 |
ISBN13 | 9784801008656 |
ISBN10 | 4801008658 |