2025/07/11号 8面

文豪と犬と猫 偏愛で読み解く日本文学

対談=宮崎智之×山本莉会『文豪と犬と猫 偏愛で読み解く日本文学』刊行を機に
宮崎智之×山本莉会 <文学は楽しい 犬猫は可愛い そして文豪は寂しい> 『文豪と犬と猫 偏愛で読み解く日本文学』  文芸評論家・エッセイストの宮崎智之氏と、文筆家の山本莉会氏が、『文豪と犬と猫 偏愛で読み解く日本文学』(アプレミディ)を刊行した。犬派・猫派の文豪十二名を、往復書簡の形で読み解く一冊である。刊行を記に著者のお二人に文学と犬と猫への愛を語っていただいた。  本書の売上の一部は、公益社団法人アニマル・ドネーションを通じて動物福祉活動を行う団体に寄付される。(編集部)  宮崎 僕たちは、もともと同じ編集プロダクションの同僚でした。  山本 文学好きで意気投合しました。十五年来の友人ですね。特に文豪エピソード好き。  宮崎 昔から国語便覧を読みふけっていて、僕にとって文豪はアイドルです。  山本 私は芥川龍之介が文学における初恋でした(笑)。そして芥川の文学を読む中で萩原朔太郎や室生犀星との関係を知り、彼らの作品も読むようになり、作品に反映されたエピソードに心をときめかせて、ますます文学にのめり込みました。  宮崎 作家研究では、「家族」「配偶者」「友人」「恋人」などとの関係性の中から作品を読み説くものが多くあります。しかし家族の一員である犬や猫から読み解く作家研究はあまり見たことがない。それで今回、犬と猫から見た本格的な作家・作品論を企画しました。  取り上げる文豪の作品は全部読もう、というハードルを設けて。  山本 犬や猫が出てこないものも、小説だけでなく随筆や書簡なども。  宮崎 それだけ読んで一文豪あたり六千字から七千字。  山本 かなりの手間と時間をかけましたが、発行元の独立系出版社もよく付き合ってくれました。  宮崎 僕と山本さんは、好きな作家が少しずれますよね。僕が川端派で山本さんが谷崎派。  山本 谷崎の強い物語性に魅了されます。  宮崎 僕は谷崎の艶っぽい文学より、川端の削ぎ落された美しさが好きなのです。偶然にも犬派と猫派で、性格には僕が陰で、山本さんは陽。  本書では、僕が犬好きの夏目漱石、志賀直哉、川端康成、幸田文、坂口安吾、遠藤周作を担当しました。  山本 そして私が猫好きの内田百閒、谷崎潤一郎、森茉莉、室生犀星、三島由紀夫、二葉亭四迷を。  宮崎さんは漱石、志賀と進んで、次の川端で正気を失いましたね。  宮崎 ……あれほど好きで読み込んでいた川端が、わからなくなってしまったのです。  川端は、昭和八(一九三三)年に「愛犬家心得」という指南書を書くほどの無類の犬好きです。「血統書ばかりでなく、親犬の習性をよく調べた上で、子犬を買ふ」とか「決して放し飼ひしない」、「犬に人間の模型を強いて求めず、大自然の命の現れとして愛すること」とか。当時と今とでは常識や倫理感の異なるところもありますが、わりと本質的なことを言っていると思います。  作品にも犬が登場するものがたくさんあって、「わが犬の記」という随筆には、とにかくたくさんの犬を「こせついた芸当なぞ教へることなく、溺れることなく、厭きることなく、平等無差別に淡々と愛する」、そして「犬ばかりでなく、いろいろな動物のために設計した家を建て、動物の群のなかに一人住むことは、私のかねがねからの一つの空想である」と書いています。  山本 「愛犬家心得」は少し口うるさいおじさんという印象ですが、「わが犬の記」では子どもみたいに純粋な夢が語られて、川端にはいろいろな顔があるように思いました。  宮崎 文壇のお世話役としての一面もあります。犬を譲ったりもしている。  山本 一方では、幼少期に父母を亡くし、中学で天涯孤独となり……。  宮崎 犬を通して見ると、そうした孤独な川端像が和らぐように思うのです。でもご存知のとおり川端は、一九七二年に七二歳で自死している。作品を読みながら、川端の犬への愛情と同時に、その最期について考えてしまうのです。痩せた躰で、ギョロッとした孤独な眼をした川端が、見つめ返してくる。  山本 川端は弔辞の名人でもありましたね。  宮崎 川端康成全集 の三四巻には川端の書いた弔辞が多数収載されています。横光利一宛のものが有名だけど、安吾への弔辞もいいよね。「すぐれた作家は、すべて、最初の人であり、最後の人である。坂口安吾氏の文學は、坂口氏があつてつくられ、坂口氏がなくて現れない」という文学論から始まり、自分が融通した「坂口氏のコリイを思つてみるだけでもさびしい」と締めている。僕は川端の文学にあてられてしまいました。あれほど犬への思いがあって、文人たちのために素晴らしい弔辞を読んだ川端が、なぜあんなにさびしい最期を迎えねばならなかったのかと。  山本 個人的な意見ですが、宮崎さんは安吾に似ていると思います。  宮崎 安吾に?  山本 友だちだから言いますが、宮崎さんは過去にアルコール依存になって、膵炎を二回やってますよね。  宮崎 断酒して九年になりました。  山本 安吾もアルコールと、当時は合法ですがヒロポンに依存しています。でも一見メチャクチャな生き方に見えるけど、作品を読むと安吾はとても真面目で優しい人だとわかる。宮崎さんも自分が堕ちてでも、どこまでも信じたことを貫くような優しさがある。  宮崎 今年は戦後八〇年ですが、安吾と言ってまず思い浮かぶのは「堕落論」ですよね。昭和二一年四月に「新潮」に発表された、原稿用紙二〇枚程度のごく短い評論です。それが八〇年近く経ってなお読まれている。「堕落論」以上に有名な評論はそれ以後出ていないのではないでしょうか。  周囲は復興を叫んで前へ前へと向かっているときに、安吾は「生きよ 堕ちよ」と言う。それが社会的にセンセーショナルに迎えられたということも一考の価値がある事象です。  戦時中、安吾は疎開せずに東京に居続けましたが、そこには押し付けられた運命を受け入れ、高揚している自分もいたと振り返っています。その言葉の内には、戦後の民主主義批判も含まれていると思う。戦中の軍国主義の倫理が、戦後の民主主義の倫理に転換しても、人は全く変わっていないと。  山本 戦中の方が、秩序が整っていたとも書いていますよね。  宮崎 戦中は空き巣に入られる心配がなかったとか、夫が戦地に行った妻の貞操や、武士道といった道徳規範が尊ばれたと書いています。ただしそれは、本質的に堕落するようにできている人間というものが、堕落しきった先で摑んだ倫理ではない。上から押し付けられた規範だ。戦中には「運命はあったが、堕落はなかった」「堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」と言うんですよね。  山本 私には安吾の言葉はストンと腑に落ちます。私の祖母は満州鉄道に入社して、戦中の満州にいました。そして戦争が終わり、引き上げられなかった。いわゆる中国残留婦人です。祖母が満州に行ったのも本人の意思ではなく、時代意識の中で醸成された美しさや正しさに従った結果だったのだろうと思うんです。  宮崎 僕は六歳になるノーフォク・テリア(日本有史以来最高の美犬!)を溺愛していますが、安吾は妻がきっかけで犬を飼いはじめ、苦労しつつも彼らを愛します。特に、川端の世話でもらい受けたコリー犬を、非常にかわいがる。  随筆にも犬について書いたものがたくさんあるのですが、「秋田犬訪問記」や「ケダモノと武器」「動物の言葉」などで展開される、安吾が考えるいい犬の基準とは、「堕落論」と同じ論理なのです。つまり、人間の命令を聞くような犬でなく、野生的で猛獣な犬らしい犬に親しみを感じると。  全ての作品に通じる安吾の核となる思想が、「堕落論」だった。  しかし「堕落論」をきっかけに、刊行ペースが年間十冊ほどになったと言われています。安吾は真面目なので、それをこなしていく。そして「堕落論」とは違う方向に、どんどん堕ちていく。  山本 ヒロポンに依存し、奇行に走る……。  宮崎 安吾には子どもも生まれ、戸惑いつつもわが子かわいさを書いています。でも残された時は二年ほどしかなかった。  犬を通して文豪に触れたときに、その愛情深さと、同時に孤独や寂しさに踏み入ることができたのは、苦しくもあり、また収穫でもありました。  宮崎 文豪たちの動物との距離感から、それぞれの文学性が見えてくるというところに面白さを感じるのだけど、猫が好きな文豪と犬が好きな文豪とでは、どう違うんでしょうね。  山本 猫派は、猫が自分の管理下にあることを求めていません。  宮崎 確かに猫派には、百閒や森茉莉など、自由な生き方を求めた人が多い気がします。  その点でいうと、三島は犬派っぽいのだけど。  山本 猫派なんですよね。  宮崎 山本さんは、三島がこれまで得意ではなかったけれど、今回嵌ってしまったのですよね。旧跡まで巡って、『豊饒の海』四部作を、短期間に三回も通しで読んだのには、驚きました。  山本 マッチョさと国粋主義的な先入観で避けてしまっていたのですが、作品を読んで、非常に繊細な人であることがわかりました。編集者への書簡に「妄念の持続が傑作をつくる」と書いていますが、まさに三島の小説は妄念で書かれた傑作だったと思います。  そんな三島は、作品の中に猫をあまり描いていないんです。犬はあんなに自在に書いているのに。  宮崎 『豊饒の海』の第一巻『春の雪』の滝のシーンは、印象的ですよね。  山本 滝の上で黒い犬が死んでいる冒頭ですね。『金閣寺』にもみすぼらしい黒い犬が出てきます。でも猫にはそのような役割を負わせない。『春の雪』の創作ノートには痕跡があるのですが、大好きな猫を作品に書いてしまうことが怖かったのか。  宮崎 三島は作品に出すのも躊躇するぐらい、猫という存在を美化していたのでしょうか。  山本 そうですね。  同じく猫を美化した代表的な文豪と言えば谷崎ですが、こちらは猫に飼われているような状態で。振り回されて手に負えない状態におかれることに、喜びを感じていたのかもしれません。  宮崎 谷崎らしい。マゾ気があるというか。  山本 猫に魅了される観点は、女性観に通じているようにも思います。最も猫に重なって感じるのは『痴人の愛』のナオミですが、庇護下に置いていたはずが、最終的には自分が隷属しているという。『猫と庄造と二人のおんな』では、最初はお転婆な子猫だったのが、気づけば妖艶な「邪悪の化身」であり、「悉くの美」が発揚された姿になっている、そこに恍惚としているんです。  宮崎 『猫と庄造と二人のおんな』は三島も話題にしていましたね。  谷崎が口移しで猫に餌をやるのを志賀直哉が見てドン引きしたエピソードとか(笑)。  山本 飼い猫の死後、剝製にしてそばに置き続けたとか。谷崎の偏愛ぶりは突き抜けていますよね。  宮崎 犬派の方は、犬がいかに自分を愛しているかを大事にする人が多い気がします。幸田文は猫も飼っていたけれど、どちらかと言えば露伴譲りの犬好きで、犬をうまく扱えることを自慢する節がある。「あか」という短編では、はじめは全く従わなかった犬と、犬どおしの喧嘩を通して生涯の親友になったと。  山本 猫派で猫をパートナーと考える人は少ないかもしれません。犀星ぐらいかな。彼もまた、幼少から孤独な境遇に置かれた人ですよね。森茉莉は逆で、自分の言うことを聞かない存在であることに、喜びを感じるんです。  宮崎 森茉莉はあんなに面白い人だとは、山本さんの文章を読んで、作品をもっと読んでみたくなりました。  遠藤周作については、その文学も犬性を帯びていることを自分なりに突き止められたので、満足しています。  山本 遠藤の飼い犬だったクロと「あのひと」の眼差しを、宮崎さんは重ね合わせているんですよね。なかなか冒険した評論でした。  宮崎 でも僕が資料を読んだところ、本当にそうとも思えるんですよ。  山本 私自身の感覚と最も近いと思ったのは二葉亭四迷でした。二葉亭は猫も犬も好きで、その飼い方を見ていると、ペットと言うより同等の仲間のように扱っていると感じます。それは人間関係にも通じていて、二葉亭は下級武士の家の出でありながら、後妻は元「女中」なんです。  近代文学は二葉亭と坪内逍遥から始まりますが、二葉亭は近代日本が抱えた課題を背負い込んだ人の一人です。昔ながらの日本の価値観のままではいられない。でも個人的には古き日本を大事に思っている。「新旧思想の対立」の間で宙づりになりながら、悩み続けた人ではないかと思います。  宮崎 二葉亭は翻訳を除くと三作しか小説作品を残していないですよね。でも山本さんも書いていたけれど、『浮雲』は非常に読みやすい作品です。二葉亭は天才だと思うのですが、最後に書いた作品は『平凡』。自分の才能を信じられなかった人なのでしょうね。  山本 「くたばって仕舞え」というペンネームも、自分自身を偽物だと感じてつけたものでしょう。「猫になりたい」と呟くこともあったという二葉亭ですが、『平凡』の中に「人畜の差別を撥無して、渾然として一如となる」という言葉があるんです。この感覚は今の世にもなくてはならないものだと感じています。  宮崎 二葉亭は近代文学の祖でありながら、犬と猫について一番新しいことを言っていますよね。  山本 一〇〇年を経ても、私たちが手に入れることができていない感覚かもしれません。  宮崎 二葉亭を受けた、山本さんの「おわりに」がよかった。我々は犬好き・猫好きの文豪を十二人、交互に取り上げていきましたが、結果的に全ての動物が等しく大切だという思想に辿り着いた。  山本 家の庭に地域猫が遊びにくるのですが、その間、庭は猫のものだと思っているんです。もっと言えば夏の庭は蚊のものです(笑)。人間が一番上に立つのではなく、全ての生物が平等に、共に生きていく感覚を持っていたいと思います。  宮崎 本書が、漱石で始まり、その先達の二葉亭で終わるというのも、いい構成になりましたね。  『吾輩は猫である』は、「猫」というだけで文学の世界では通じるぐらい有名な作品ですが……。  山本 漱石は猫派ではない。  宮崎 三代目まで猫を飼っていますが、野村胡堂が四代目の猫は飼わないのかと尋ねたところ「私は、実は、好きじゃあないのです」と答えている。小説で「名前はまだない」と言ったのと同様に、飼い猫にも名前をつけなかった漱石ですが、「ヘクトー」と自ら名づけた犬を飼っていた。ちなみに、『それから』にはヘクターという犬が登場します。  ただ漱石が英文学研究者から小説家になったきっかけはやはり『吾輩は猫である』ですし、猫も憎からず思っていたのではないかと類推しています。  漱石は大量の手帳と紙片を残しているのですが、その内の「Genius」と題されたノートに、「猫ハ鼠ヲ捕フルノ天才ニシテ」と至極当然のことが書かれた後に、「犬ハ夜ヲ守ルノ天才ナリ」とあるのも、情緒が漱石らしいと思うのですが。  山本 この時代の猫の価値は愛玩だけではなく、鼠避けの実用目的だったりしますよね。寺田寅彦も随筆『ねずみと猫』の中で猫を飼ってから鼠が出なくなったという話を書いています。  一方狂犬病などの厄介がありながらも犬を飼おうとするのは、実用というよりは心の拠り所の意味が大きかったのではないでしょうか。  宮崎 漱石は英国留学で神経衰弱になったとか、人間嫌いという印象が強いですが、案外世話焼きでもありますね。木曜会を開いていたり、内田百閒などの門下も多くいる。また志賀直哉には朝日新聞の連載を任そうとしていました。猫にはそっけなかったけど、病気になって入院したヘクトーを見舞う姿もあった。  そこから作品に戻ってみると、『硝子戸の中』というエッセイでは、突然の訪問者を家に上げて、身の上話を聞いている漱石がいます。普通は見知らぬ人を家に上げたりしませんよね。犬との係わりを通すことで、また違う漱石の顔に気づくことができた気がします。  山本 私は商業ライターとして、いろいろな企業の「中の人」の立場で、この時代に「正しい」とされていることを書き続けてきました。でも十年前に正しかったことが、今も正しいとは言えないことがよくあります。一般的に正しいと思われていることの裏で、その価値観をつらく感じている人もいます。この構図は、祖母を満州に送り込んだ、当時のマスコミと同じかもしれない。  今回の企画のお話をもらって、やっと九九人ではなく一人に向けて書くことができると思ったんです。谷崎の生き方は当時でも大顰蹙を買ったし、今なら大炎上すると思います。でもこの生き方を否定するのは違う。ヒロポンに依存する安吾のことも、否定せずにいられるのが、文学だと思うんです。  宮崎 文学の射程は広いですよね。表層ではなく、その根本に何があるのかを、今回は犬と猫を通じ、山本さんとの往復書簡で、見つめ直すことができました。  山本 私が育ったのは大阪の下町ですが、本屋は潰れてしまってありません。この本を誰に届けるのかと考えたとき、頭にあったのはその地域の人たちでした。  文学マニアに響くように、そして文学に深く係わっていない人たちにも面白く読んでもらいたいと。  宮崎 世界にも届けたいですよね。  僕がつけたキャッチコピーは「文学は楽しい。犬猫は可愛い。そして文豪は寂しい」。  山本 この文学の楽しさが、たくさんの人に届くことを願っています。(おわり)

書籍

書籍名 文豪と犬と猫 偏愛で読み解く日本文学
ISBN13 9784910525051
ISBN10 491052505X