映画時評 9月
伊藤 洋司
スコットランドの海岸地帯を一台の自動車が走り、主人公のクリスがそこから降りて家に入って行く。ここまでの五つのショットはあえて緩めに撮られているが、その理由を観客がこの時点で理解するのは難しい。ともかく、クレジットタイトルの中断とともに、彼が婚約者と会話を始めると描写の調子が変わる。すぐにアバディーン港の場面に移り、クレジットタイトルが再開する。クリスは、今度はタクシーで港に乗り付け、いつ料金を支払ったのかと思うような素早さで車から降りると、そのアクションでカメラが寄る。次のショットでは、彼はもうタラップを早足でのぼってタロス号に乗り込む。タイトルはまだ少し続くが、物語は本格的に始動している。
『ラスト・ブレス』で、監督のアレックス・パーキンソンは深海の闇の撮影などで工夫を凝らすものの、絵画のような構図や照明には全く興味を示さない。多くの場面が狭い空間や暗い深海で展開するなか、映画はひたすら物語を効率よく語るためのショットをテンポよく積み重ねていく。これが素晴らしい。タロス号の出航の目的は北海の海底に設置されたガスのパイプラインの補修だ。ダンカンとデイヴが登場し、二人はクリスと一緒に作業をすることになる。クリスとその婚約者の状況が簡潔に語られたように、この二人の先輩の人物設定も無駄なく的確に語られる。ダンカンはベテランでクリスに敬愛され、デイヴは変わり者に見えるが、プロ意識が強く確かな技量を持つ。若手のクリスを支えるこの二人の性格が映画の物語をより味わい深くする。
深海での補修作業は単にすぐ潜って行なえばいいというものではない。三人は加圧のため気密室に長時間入った後、潜水ベルというさらに小さなカプセルのなかに入って北海の奥深くに降ろされていく。だが、そこから出て実際に海底で作業をするのは二人だけで、ダンカンはカプセルに残り、作業の状況を確認する役目を担う。一般の観客は知らないこうした複雑な工程を、映画は手際よく見せていく。クリスに事故が起こってからの救助の過程はさらに複雑だが、海上の船内に残った乗組員も含め、あらゆる人々がそれぞれの役割を正確に果たして救助にあたる様子を、映画は説明過多にならず、激しい描写に訴えることもせずに、ひとつひとつ的確に描いていく。こうした描写がこの映画の力である。
クリスが奇跡的に意識を取り戻した後は、当然、描写は簡略化される。その取捨選択が秀逸だ。気密室での減圧期間で、デイヴはクリスと話した後、自分の娘の写真を見る。気密室を出た後、ダンカンは口実を見つけて、もう二度と入らないだろう気密室に一人で引き返す。こうした描写が物語に厚みを与える一方で、クリスが港で下船するといったありきたりの流れは省略される。クリスはタクシーで婚約者が待つ家に帰る。ここで再会が家のなかではなく、外の広々とした空間で行なわれることに注意しよう。クリスは狭い密閉した空間に閉じ込められていた。そんな彼の婚約者との再会が家のなかである筈がない。海鳥の鳴き声が聞こえ、風が女性の長髪を揺らす。男女は単に見つめ合うのではなく、繊細に瞳を動かす。その仕草のひとつひとつを捉えるカメラと切り返しの編集が、愛し合う男女の幸せな再会以上のことを語っている。
今月は他に、『ブラックドッグ』『ひとつの机、ふたつの制服』などが面白かった。また未公開だが、アレックス・パーキンソンの『ルーシー、人間チンパンジー』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)