2025/09/26号 1面

セキュリティの共和国

対談=新田 啓子 × 大串 尚代<命を奪わない戦略文化を求めて>新田啓子著『セキュリティの共和国』(講談社)刊行を機に
対談=新田 啓子 × 大串 尚代 <命を奪わない戦略文化を求めて> 新田啓子著『セキュリティの共和国』(講談社)刊行を機に  新田啓子さん(立教大学文学部教授)が『セキュリティの共和国 戦略文化とアメリカ文学』(講談社)を上梓した。ポー、メルヴィル、トウェイン、ヘンリー・ジェイムズなどの文学作品を手がかりに、アメリカという国家の「セキュリティ」や「戦略文化」を読み解いていく。刊行を機に、大串尚代さん(慶應義塾大学文学部教授)と対談をお願いした。(編集部)  大串 新田さんの新刊『セキュリティの共和国』は、18世紀末から20世紀初頭のアメリカ文学作品を読み解きながら、民主主義とセキュリティという問題を考えていく一冊です。本書は、チャールズ・ブロックデン・ブラウン『エドガー・ハントリー、あるいは夢遊病者の手記』、エドガー・アラン・ポー『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』にはじまり、ハーマン・メルヴィル『ピエール、あるいは曖昧性』、マーク・トウェイン『まぬけウィルソン』『それはどっちだったか』、ヘンリー・ジェイムズ『カサマシマ公爵夫人』、エミリ・ディキンスンの詩、イーディス・ウォートン『歓楽の家』などの作品分析を通して、アメリカという国家にとってのセキュリティ(安全保障)の意義と、それを支える戦略文化が明らかにされています。そもそも、新田さんがセキュリティに着目した背景は何だったのでしょうか。  新田 私は以前から暴力という現象に関心があり、研究テーマに選んできました。本書も、その系譜に連なる内容になっています。文学に限らず、アメリカ研究において暴力はメジャーな主題です。アメリカは、先住民の殲滅や英国からの独立戦争を経て成立し、人種奴隷制経済から繁栄を得てきました。奴隷制を廃止するには南北戦争が必要で、それ以後も、移民排斥運動、世界大戦、冷戦を背景とした軍事介入があり、他に比肩する者のない強力なアメリカがつくられました。さらに21世紀になった直後の9・11。ここから「対テロ戦争」が起き、ホームランド・セキュリティの名目のもと、イスラーム教徒等、誰かの自由を蹂躙する暴力を、国家と市民の両方がよしとする風潮が巧妙に浸透していきました。  しかしアメリカは、決して無法な国家ではありません。むしろ近代民主主義国家としては世界最古で、その制度も高度に整っています。なのになぜ、この国には公私にわたる暴力がこのように蔓延してきたのか。民主主義が機能不全を起こしているという見方も可能ですが、個人の自由と普遍的権利を承認する制度そのものが、逆に暴力の火種を内包していると私は考えています。  他方、現代人は暴力を批判する一方で、場合によってはそれをやすやすと容認します。「正義の暴力」があるというイメージに繫がる正戦観念や死刑制度がその例です。文明的な制度に基づく近代法治国家は、許される暴力を管理してきましたが、それは例外的に、特定の暴力を容認する身振りなのです。アメリカに限りませんが、「自衛」はその最大の例でしょう。普段は平和的で秩序を守ろうとする人間に、自らの安全を守るという目的が暴力のスイッチを押させ、暴力に正当性を与える瞬間があるのではないか? この問題意識が本書の出発点にはありました。  大串 自衛と暴力が表裏一体であるがゆえに、民主主義という制度そのものは常にセキュリティを必要とする。言い換えれば、民主主義は常に不安要素を内包して成立する。これは新田さんが本書で繰り返し指摘していることですね。  この本の読みどころは、あらかじめ暴力を取り込んで成立する安全保障の論理を、アメリカの作家たちがどのように凝視していたのかを分析するところだと思います。ただ、未読の方はセキュリティや民主主義と文学がどう結びつくのか、不思議に思われるかもしれません。このテーマを選ばれた、そして挑戦されたのはどのようなことからでしょうか。  新田 文学に軸を置いてアメリカの戦略文化に着目したのは、このテーマを文学でやらないでどうすると思ったからです。先ほどアメリカ史の中で連綿と続いてきた暴力の歴史に触れましたが、これを歴史や政治学の領域で探究すると、国家や制度が抱える問題が語られることになるでしょう。けれども、残忍で好戦的な国家を生むのは、一部の政治的エリートや政府だけではありません。第2次トランプ政権が誕生した時、私はこれを身に染みて実感しました。民主主義国家は選挙を行いますが、そこで表れる民意がイノセントなはずがありません。個人が何かを怖いと思う感情が本当に情動的なものなのか、言説の中で構築された憎悪への反応なのか。明確に分けることはおそらくできず、両方を往還しつつ「民意」が形成されていく。  この感覚に従って他者を攻撃した際、言い訳として出てくるのが「私は自分を守りたかった」です。自衛とは戦略文化に裏打ちされた行為でしょうが、それを分析するには、言葉の表層を「良い、悪い」と評価するに留まらず、そのコンテクストや潜在的事情、要は文学が関心を抱くものを精査する必要があります。  大串 民主主義国家でありながら暴力を前提としているアメリカの矛盾を、安全保障やセキュリティの枠組みで捉えてみる。すると、どのような物語をアメリカが提示してきたのかが見えてきます。本書は物語を読み解くことで、アメリカのセキュリティのナラティブを巧みに論じていらっしゃいますが、その手掛かりとして、もともとは政治学の用語である「戦略文化」の概念を用いられていますね。  新田 戦略文化という分析概念を使ったのは、人が暴力をよしとする時、そこには文化的な要因が密接に関連すると措くこのコンセプトが優れていると感じたからです。本書でも触れましたが、まだ「戦略文化」の言葉がない時代に、この概念を最初に掘り下げたのは、ルース・ベネディクトだと思っています。ベネディクトは『菊と刀』で、「どの文化的伝統の中にも戦争の定法がある」と述べている。菊作りに丹精し、美や芸術を愛する日本人が、突如として刀(武力)に訴えるのはなぜなのか。ベネディクトは、ここに恥という情動が関与していると指摘しました。  文化人類学者はこの論に批判的なことが多いですが、国家や人が暴力を正当化する行動の裏に文化が関係していることは間違いないでしょう。  大串 本書ではベネディクトの議論に批判があることを踏まえつつも、そこで言及される暴力のあり方に着目されていました。これに限らず、新田さんは本書において、どの議論も大変緻密に批評の準拠枠を設定し、議論を進められている印象を受けました。「序章」の前には「はじめに」を置いて大枠を確認し、さらに9章では政治学の先行研究を踏まえて戦略文化を論じていく。それが文学研究に見事に反映されています。  新田 ありがたいお言葉ですが、それは立論が難しかったからでもあります。9章では、戦略文化について政治学者が行ってきた議論を復習していますが、これは私の中でもわからない点があったから。政治学の概念である戦略文化を文学にただ当てはめても仕方がないので、文学から摑み出せる文化的含蓄とはなんなのか、執筆中にも問い続けました。政治学のいう戦略文化の下部構造を明確に示したかったと言いますか。  ちなみに戦略とは、戦争に勝つための個別の作戦を超えた人間行動の構造です。同様に、私たちが安全の感覚を得、それを達成する手段も、生の構造の一端でしょう。安全保障、治安維持の文脈では、暴力に訴える可能性が含まれています。戦略文化の知を利用して作品を分析することで、アメリカ人を暴力に駆り立てる構造的要件や動機が見えてきます。  大串 物語の中には、作者でさえ無意識に書いてしまう何かがあります。それを読み解くには、新田さんが実践されているように、アメリカが内包する、一見矛盾する何かををそのまま捉えながら分析していく必要があるように思えます。  大串 本書で最初に取り上げられるのは、ブラウンの『エドガー・ハントリー』です。アメリカ初の職業作家で、アメリカン・ゴシックの創始者でもあるブラウンがこの作品を執筆したのは1799年。主人公エドガーは夢遊病によって、自分さえ知らない間に先住民であるインディアンの殺戮に駆り立てられます。物語の因果として描かれるのは、アメリカの植民地主義や安全のために戦闘を担うことになる「個人」の事情です。特定の状況下であれば個人の武力行使を許す戦略文化について、新田さんはまず、ナショナリスティックな意識とは無縁でいられない建国時期の小説から明らかにしようと試みておられます。  各作品の分析が面白いのはもちろんですが、本書を読んで、文学だからこそ表れる、描けるものがあると再認識しました。文学は虚構に過ぎないという指摘もありますが、虚構だからこそ、社会や国家の矛盾を暴くことができる。もちろん、作品が描いている問題の答えを見つけ出すのは容易ではありません。読んでも読んでも、答えは分からない。でも、考え続けることが大切であり、人文学研究の意義でもあります。新田さんの論がまさにその証左です。  新田 おっしゃる通りです。虚構の重要性を明示しなければなりません。虚構とは、現世界に生きる作家という人間が虚心坦懐に再現した蓋然的世界であり、絵空事とは異質です。昨今ジャーナリズムでは、知っているのに書かないでおく、書いてはいけない事実を作るということが問題となっています。  他方、優れた作家は、そういう書き方をしていては、作品の出来を棒に振るので、噓をつかない。ウィリアム・フォークナーの黒人像がよく書けているのは、作品世界の完璧を期すために、作家が普段言わないことも書き込んでいるからです。ストーリーを軸に広がるそうした小説テクストは、人類の足跡を客観的に見直すとともに、未来を考えるための重要な素材です。そして、この素材を扱う際に必要なのが「物語を読むためのリテラシー」です。  大串 新田さんは物語を読むことについて、本書10頁で次のように述べています。  「失われたものを再現し、忘却を想起に転換できる、あるいは逆にもっともらしい噓偽りを事実のように提示しもする虚構の性質、ないしは挙動に精通し、物語への耐性や、時にはそれに抗う力を養うことなくしては、生き延びることが不可能なのが混迷の時代というものだろう」  ポスト・トゥルースの時代である現在、自分たちの都合に沿って作り変えた歴史や物語があふれています。その意味で現代は、虚構さえも選び取っていく時代なんですね。その中で生き延びるためには「物語を読む」能力が必須で、このスキルは文学を読むことでしか鍛えられない。自分の読みたいところだけ、都合のいいところだけを読むだけでは、作品に書かれている内容を把握できません。作家が提示するすべての情報を頭に入れ、物語をどう読んだのか自分自身で判断して、初めて「読んだ」ことになります。  新田 リテラシーを身に付ける一番の練習は、虚構を読むことです。たとえば、小説には信用できない語り手がいる。学生に文学を教える時は、語り手も信頼できないのだから、小説のプロット以上に物語を読みなさいと言いますよね。それでも人を騙す物語は数々あって、そういう作品には私も舌を巻く。  文学として、言葉の機能を知り尽くして構築された物語と、ポスト・トゥルースという、客観性さえ捨てたことを自ら曝し、自己正当化する開き直りが前面に出た物語では、質もレベルも違います。本書で論じたメルヴィル『ピエール、あるいは曖昧性』(以下『ピエール』)などは、構造自体が非常に複雑です。こうした作品に触れていると、明らかにこちらを騙そうとしてくるような、くだらない物語にはすぐ気付けるようになるはずですね。  少なくとも研究者が騙されないのは、やっぱり物語に対する警戒心があるからでしょう。枠物語のように、作品の構造ごと内容の真偽を留保する仕掛けもあります。そういう技法への分析的な読書を経験していると、物事を読むスキルが身に付きます。現実で作為に満ちた情報を目にした時も、読みのリテラシーが備わっていれば簡単に眼前の情報に流されることはない。これを教える点で、文学は十分に実学だと思っています。文学は、世界の本質に迫るものですが、言葉の挙動を実践的に教える面もある。昨今、学生を取り巻くリスクの多くは、文学教育で防げます。  大串 物語を構成するあらゆる情報を知る前に読みを決めてしまうと、作者の仕掛けに騙されたり、足元をすくわれたりしてしまう。新田さんが作中で指摘するように、そうした不用意さは間違いなく、現実世界における生存の危機に繫がります。たくさんの物語を読んで耐性をつけてもいいし、逆に抗ったり挑戦したっていい。とにかく、読みのリテラシーを身に着けておかなければ、陰謀論のような文脈に対して違和感を覚えるどころか、警戒することもできなくなります。  リテラシーを鍛えることは、ただ面白いだけの――いわばつるんとした――作品ではできないのではないかという気がしています。どこかざらざらした引っかかりを覚えるような作品、本書の第2部すべてを使って読み解かれるメルヴィル『ピエール』などはまさにうってつけでしょう。謎の女性イザベルと出会ったことで、父が残した莫大な遺産を相続する予定だったピエールの人生が一変する。イザベルは亡き父親と移民女性の間に生まれた女性、つまりピエールの「姉」とされていますが、本当に血が繫がっているのかは分からない。しかしイザベルに惹かれたピエールは、家族を裏切ってでも彼女を救おうとして、最後は殺人者となり、イザベルとともに獄中死します。  新田さんはこの物語のプロットと登場人物に、アメリカ繁栄の陰で犠牲にされた人々や、押さえ込まれた物語が噴出するさまを読み取られています。  大串 本書において、暴力は外側から来る脅威としてだけでなく、自分の内部にある不安や恐怖といったものが、民主主義国家のシステムが内包しているものと並置して論じられています。前半では「暴力のスイッチ」を誘発するものは何か、後半ではどうすればそのスイッチを押さないでいられるかという問題に着目しています。  本書第4部ではまず、ヘンリー・ジェイムズ『カサマシマ公爵夫人』が考察されます。敵味方の二元論に収斂しがちなテロリズムの分析だけでなく、内なる暴力衝動が前面に出てくる瞬間を落とし込んだ作品として、この作品をいわば再評価しています。ジェイムズ研究の中では、『カサマシマ公爵夫人』は一般に失敗作と評価されていますよね。  新田 『カサマシマ公爵夫人』を書いた頃のジェイムズは迷走気味で、この作品にも政治的テーマに深入りし過ぎているという評価があります。しかしこれは、ヘンリー・ジェイムズという作家のストイシズムや、社会への飽くなき興味、研究熱の賜物だったと、『カサマシマ公爵夫人』を読んで改めて思いました。ジェイムズは、フェミニストやテロリストを描く挑戦をしているんです。この実験があったからこそ、初期の国際テーマや倫理的美意識の問題を前面で問う円熟期に到達し得たと思っています。  大串 『カサマシマ公爵夫人』では、官僚組織化したある政治結社が革命型のテロを起こす手先として、主人公ハイヤシンスを勧誘します。この革命組織は、堕落した民主主義の風刺として描写されている。ジェイムズはテロ組織を高邁なものではなく、自分たちの目的を代わりに遂げ、社会を混乱させる若者を探している集団とみなしていたんですね。まさに、最近のニュースで耳にするような構図です。  新田 ジェイムズのテロリズムへの切り口には、目を見張るものがあります。特殊な生い立ちながらもロンドンの庶民に慈しまれ育ったハイヤシンスが、堕落した官僚主義を模したようなテロ組織によって革命心に火を付けられた末、彼だけが破滅していく。彼を組織に勧誘した男性は首相にも比されますが、登場人物たちは皆、置かれた立場で安定して生きていきます。  ジェイムズが上手いのは、彼を暴力から引き離し、どうにか生存の道に戻そうとする人々を革命組織と対置して描いている点です。貴族の男性と庶民の女性の間に生まれたこの庶子を育てた人々の姿には、一流風俗小説家の筆致による下町情緒も楽しめます。  大串 本書で何度も確認されるように、セキュリティとは安心や安全を意味すると同時に、暴力や攻撃を前提にしている言葉です。その力の制御や統制の問題を考えるには、文学でしか捉えられない視点が有用であると、『カサマシマ公爵夫人』論を読むとはっきりと分かります。  ハイヤシンスは結局、暴力のスイッチを押してしまう人物ですが、同じ問題をエミリ・ディキンスンとイーディス・ウォートン、ふたりの女性作家はどう見て、どのような形で作品に落とし込んだのか。終章ではディキンスンの詩とウォートン『歓楽の家』から、内なる破壊的衝動を分析しています。  新田 ディキンスンの詩は、「わたしの生涯はずっと装塡された銃だった」から始まり、「わたしにあるのは殺す力だけで 死ぬ力はもたないから」で終わります。19世紀の女性として、ジェンダー規範に馴致していると見せながら、自らに備わる攻撃性を表明する詩で、どう読むか、研究者を長年悩ませてきたと言われています。「装塡された銃」とはいつでも銃弾を発射できる状態にありながら、「わたし」は、そうならないことを望んでもいる。ディキンスンは、暴力的衝動を抑え込むセキュリティの構造を見せています。  自らの暴発的な力の統御を、自我と言葉の狭間で行う詩作になぞらえ描くのが、この詩です。ディキンスンの知性があればこそ、こんなセキュリティの構図を描くことができます。  新田 他方で、『歓楽の家』の主人公リリー・バートには、内面にうごめく衝動と折り合う知性――戦略と言い換えてもいいですが――がなかったと言えますか。『歓楽の家』はニューヨークの社交界を舞台に、没落家庭の娘リリーが、社会的な復活を模索する話です。品性を保とうとする本能は備えていても、気まぐれで軽率なリリーは、内外の暴力に戦略的に立ち向かう術は持たなかったと言えますね。結果、取り返しのつかない過ちを重ね、周囲に翻弄され尽くし、最後は過剰摂取した睡眠薬で亡くなります。薬に魅了されることで、彼女は危機に立ち向かうより、生き延びる策を考えない方向に堕ちていきます。  そもそも自衛とは、自分自身が生きるためなら、他を傷つけることをも辞さない行為です。実際、『エドガー・ハントリー』には、「自身を守るため」という言葉が繰り返し登場する。リリーには、それができなかった。彼女は戦う気力を失い、生きること自体に無関心となる状況に陥っていきます。  大串 『歓楽の家』を今回読み直してみて、これは時代背景を現代に置き換えても遜色のない物語だとあらためて感銘を受けました。外見を整えることを至上命令とされ、周囲に騙され、借金を抱えていくリリーの転落の仕方は、現在の「わたしたち」の物語としてもまったく違和感がありません。  新田 読みのリテラシーの文脈でいうと、リリーは「読む」のが下手な人と設定されていると見えます。自我を形成する教育を受けてこなかったので、彼女は最初からケアレスで、いつも気がそぞろ。お屋敷の調度品やパーティーで着る服、外見ばかりが気になって、 〝中身〟がないんです。そうした中身の希薄化は、消費資本主義社会でわたしたちが陥りやすい危機ですよね。自我の感覚を持てなかったリリーの姿は、流行やSNSの言説に流されるという状態を先取りしているように感じます。  大串 リリーは秘書的な業務もできる、ある一定の能力がある人ですが、決定的なまでに自分の行為の重要性が分からないんですよね。周囲の人から見たリリーは、びっくりするぐらい美しいのに、同じくらいに物悲しい。セキュリティを求めれば求めるほど、彼女はそこから遠ざかる。『カサマシマ公爵夫人』のハイヤシンスにも似たようなところがあります。二人とも、最後は自殺という行為に向かっていきます。  新田 大変に重要なご指摘で、己の闘争の目的が希薄となると、自分への暴力スイッチを押してしまう。無気力は非暴力ではなく、自らへの暴力を誘発します。今回書いて、気づいたことがあります。制御できなかった力は、最終的には自己に対する暴力――自傷や自殺、自己放棄に繫がるのです。闘争の意味を見失うと、その主体である自らを消すという反動が起きる。この本では古い作品を扱いましたが、こんな今日的な問題が多様に描かれていて、身につまされる思いでした。  新田 この点に関わるところで、ぜひ大串さんに伺いたいことがあります。ご存知の通り、本書には女性作家の作品が少ない。女性表象はありますが、そこが手薄だと思っています。女性にとってセキュリティ/安全の概念は、どのように位置づけることができますか。今後のためにも、大串さんのご意見をお伺いしたいです。  大串 まず言えるのは、暴力そのものは描かれていないけれど、その結果から始まる小説がたくさんあるという点でしょうか。たとえば1845年に書かれたリディア・マリア・チャイルドの短編「ヒルダ・シルフヴァーリング」では、恋人が航海に出たきり戻って来ず、ひとりで子どもを産んだヒルダが未婚の母になるところから物語が始まります。ある老女に子どもを引き取ってもらうのですが、数日後に身元不明の赤ちゃんの死体が発見され、主人公が子殺しの嫌疑をかけられる。この作品は暴力が起きた後――噂や世間の目によって、自分の安心や安全が脅かされた女性が取らざるを得なかった行動を描いています。『ピエール』『カサマシマ公爵夫人』も、同じ系譜で読める気がします。  19世紀の女性作家たちは、問題だらけの地獄のような場所として「家庭」を描くことが多いと、私は思っています。必ずしもリラックスできる空間としては描かれないことも多く、彼女たちにとって「家庭」はセキュリティの場にはなり得なかった。しかも、当時の女性たちは基本的に社会に出るわけにもいかない。結果、女性たちはここではない場所を求める――リリーが薬による現実逃避を選んでしまったように。  少し単純な見取り図になりますが、攻撃性を内包した家庭もセキュリティの視点から読み解くことができるかもしれません。女性作家による物語に、家から出たり、今まで生活していた場所から移動したりする場面が多いのは、暴力や殺人といった最悪のパターンを避けるために別の場所へ去っていると読むこともできそうです。  新田 別世界を求めるのは良質のセキュリティにも繫がりますね。大串さんはご著書『立ちどまらない少女たち 〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ』でも、未踏の地を目指すのが女であると指摘しておられました。殺さない創意の現れではないでしょうか。文化や現実を越境し、自分が生きていける別世界を想像力で作っていく。戦わないセキュリティの枠組みが、女性文学には表れていそうです。  新田 ウォートンが『歓楽の家』を書いたのは、1905年です。当時のアメリカ社会ではまだ、リベラリズムより、社会規範に立脚した生き方が優先されていました。共和主義ですね。共和主義的エートスでは、過剰はNGです。市民が欲望を丸出しにしたり、『エドガー・ハントリー』に登場するクリゼロのように、思い込みだけで行動したりする人が増えると収集がつかなくなる。人民がそんな状態ならば普遍的権利など付与できるわけがない、憲法と政府による統治が必要と論じたのが『ザ・フェデラリスト』です。  作家ではポーにもその見解があって、同じように民主主義は難しいと考えていたと思われます。ベンジャミン・フランクリン的秩序感覚とも言えるでしょうが、自己コントロールは社会的徳目でした。こう考えると、大串さんのおっしゃる通り、女性作家の物語は、暴力衝動を含めた感情や行動のコントロールに敏感であると読めそうです。  大串 19世紀前半のアメリカで活躍した作家に、キャサリン・マリア・セジウィックがいます。彼女の父はフェデラリストでしたが、セジウィックは一部のエリートによる統治ではなく、ふつうの人々にこそ美徳が備わっているというデモクラティックな国のあり方を求めていた節もあるんですね。  セジウィックの『ニューイングランド物語』を読むと、父親は見栄っ張りで贅沢三昧、母親はそれに従うだけの人と描写されていて、機能不全の家庭と読める。主人公のジェーンを助けるのは血のつながった親族ではなく、理性的な考えのできる赤の他人です。それこそ個別の作家の知見が出ているところですね。  新田 大串さんが翻訳されたルイザ・メイ・オルコット『仮面の陰に あるいは女の力』は、どうでしょう。先ほど話したように、女性はセルフコントロールを強いられますが、社会進出という選択肢がない時代では別世界を探す。『仮面の陰に』は、そういう縛りからあえて降りた小説とも読めるでしょうか。  大串 『仮面の陰に』はオルコットが男性名義で発表した小説で、家庭教師としてとあるイギリスの上流家庭にやって来た、ジェイン・エアならぬジーン・ミュアと名乗る女性が、その家庭の男たちを次々に籠絡していく物語です。ジーンは名前も出身もすべて偽っていて、登場人物の中には、彼女の正体に気づく人もいれば、騙されているとうすうす感じながらも、真相を知りたくないと目を背けている人もいます。ジーンは虚偽さえも容認させる才能をもち、自ら別世界をつくりあげた女性と言えそうです。  別世界を求めて果たせなかった女性の物語を分析する場合、当てはまりそうなのは19世紀末のアメリカの女性作家であるケイト・ショパン『目覚め』でしょうか。この作品は、女性のセクシュアリティの解放を描き、ウォートン『歓楽の家』と合わせて読めますよね。『歓楽の家』のリリーにおいては、薬に対して感じるdeliciousという味覚と、眠りの感覚がクロスしていきますよね。一方で、『目覚め』では主人公エドナが匂うはずのない撫子の香りに言及する場面がある。感覚の交叉に、2作の共通点が見えるような気がします。これはあくまで予想ですが、新田さんは今回、ショパンはあえて外されたのではないでしょうか。  新田 鋭いですね。当初はショパンとウォートンで、最終章を書きたいと考えていたんです。ただ、予想以上に『カサマシマ公爵夫人』を論じる必要が生じ、泣く泣くショパンは外しました。  大串 予想を間違えていなくて安心しました(笑)。それから、女性作家の作品でもうひとつ考えたいのは、女性にとって「セキュリティ」とは何なのかです。  『目覚め』の主人公エドナは習得した水泳の技能を高めながら、世間的には良い人とされる夫と一緒に生きていく道もあったし、リリーもバーサからセルデンへの恋文を暴露してローズデールと結婚していれば体面を保つことはできたかもしれない。特にエドナは、我慢していたら裕福な生活を送れたのでは、なんてそういう凡人的な発想を私はしてしまうのですが、彼女たちにとってその生き方はセキュリティにはなり得なかった。それゆえ、あの結末なのだと思います。  新田 リリーやエドナには、家庭は安住の地ではありませんでした。逆に、恋愛を含めた自分の感情を二の次に、安楽な家庭を得るためのまさに戦略へと進めたのが、『カサマシマ公爵夫人』のクリスティーナ・ライトです。  ジェイムズ初の長編小説『ロデリック・ハドソン』に、クリスティーナは未婚の絶世の美女として初登場し、母親の指導で、ヨーロッパの王侯貴族と結婚する目標に突き進みます。果たしてカサマシマ公爵と結婚するのですが、11年後の作品に再来すると、夫との生活では満たされず、地下組織とつるんでみたりする。セキュリティを戦略とできる人の背後には、どこか死の気配が漂います。実際、ロデリック・ハドソンも死んでいますし。  大串 セキュリティや暴力と、『歓楽の家』は一見すると結びつかないように感じるかもしれません。でも、リリーにとってセキュリティは、どういう意味を持っていたのか。一方で、『仮面の陰に』のジーンを受け入れたコベントリー家のサー・ジョンのように、悪事をあえて暴露させることなく、スキャンダラスなジーンを妻にした人は、セキュリティを確保したのか、あるいは暴力そのものを抱え込んだのか。暴力というものを発動させない制御の視点で読み解いていく。本書のおかげで、今までとはまた違う視点で物語を読むことができました。  新田 今回は取り上げた作品をこれでもかと精読したので、金ぴか時代、つまり南北戦争後の産業革命を経て、資本主義経済が爛熟した時期までを扱うのが精一杯で、現代まで辿り着けませんでした。けれども、共和党政権下の当時のアメリカでは、貧富の差が深刻となり、社会的不和や人間の本質が明確に社会問題となっていた。結果的に、金ぴか時代の再来とも呼ばれる現代の問題を、この時代から少し透視できました。特に終章で論じた、生きていくこと自体に興味をなくす『歓楽の家』のリリーに落ちる曖昧な暴力の陰には、現代社会の個が抱える問題が重なります。  本書はアメリカ論ですが、セキュリティの誤作動は、他人事ではありません。安全確保が暴力を誘発するのは、暴力の構造に自らが飛び込んでいくからです。国家単位でも同様です。日本では、〝有事〟という言葉によって、脅威への備えを呼びかけますが、国家安全保障とは、結局のところ軍備増強という過剰性を招きます。  現代社会は、セキュリティという名の暴力スイッチを押すことに積極的です。本書では、自他問わず人の命を奪わないためのセキュリティはどう可能なのか、暴力に訴えず生かすための戦略文化は探し得るのか、また創生し得るのか、と問いました。私はその問いをテクスト研究から得ましたが、これら虚構を知ることを、生きるという実感をむしろリアルに呼び起こすオーセンティックな経験であると感じてもらえる議論を続けていきたいです。(おわり)  ★にった・けいこ=立教大学文学部教授・アメリカ文学・文化理論。著書に『アメリカ文学のカルトグラフィ――批評による認知地図の試み』『アメリカの黒い傷痕――〈生態〉としての人種と文学の潜勢力』など。訳書にトリーシャ・ローズ『ブラック・ノイズ』など。  ★おおぐし・ひさよ=慶應義塾大学文学部 人文社会学科教授・アメリカ女性文学・ジェンダー研究・フェミニズム。著書に『ハイブリッド・ロマンス アメリカ文学にみる捕囚と混淆の伝統』『立ちどまらない少女たち 〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ』など。訳書にルイザ・メイ・オルコット『仮面の陰に あるいは女の力』など。

書籍

書籍名 セキュリティの共和国
ISBN13 9784065404324