踊りつかれて
塩田 武士著
八木 寧子
「宣戦布告」という物々しい序章。スキャンダルを発端にネット、SNSで誹謗中傷の砲火を浴びせかけられ命を絶った芸人と、過去にやはり週刊誌の報道が原因で表舞台から姿を消した伝説の歌姫。発信した「枯葉」を名乗る人物の強い恨みは、「一般人」という仮面を被った匿名の「加害者」たちに向けられたもの。「枯葉」は、芸人と歌手を奈落の底に突き落とした八三人を断罪し、その個人情報を晒したのだ。
反響は凄まじく、標的となった者たちはかつて自分がしたようにSNSで一斉に攻撃され、社会的な地位や家庭を奪われる。「枯葉」はすぐに逮捕されるが、物語が大きく動き始めるのはここからだ。
なぜ「加害者」たちの多くは、直接利害関係のない芸能人を安易に中傷し、デマを拡散させたのか。ネットに書き込む言葉をぶつける相手が生身の人間であることを意識しなかったのだろうか。もし同じ行為や悪意を、自分や家族が受けたらという想像を巡らせたことはなかったのか……。
さまざまな問いが前景化するが、この状況に置かれたのが、名誉棄損罪で訴えられた被疑者としての「枯葉」に弁護を依頼された弁護士の久代奏。実は彼女は、自殺した芸人・天童の中学の同級生なのだが、自分が指名された理由がはっきりとしないまま弁護を引き受ける。そして、自分のした「孤独な復讐」の罪を認めて争わず、常に冷静な「枯葉」の本当の顔、なぜ罪を犯したのかという動機の真意を知りたい気持ちに突き動かされてゆくのだ。
令和の芸人・天童ショージこと天童昇士。天性の歌声でバブル期に喝采を浴びた奥田美月。天童は既に死者であり、美月は姿を消したまま。ただ、ふたりが生きてきた軌跡が「枯葉」の言動から少しずつ浮き彫りになり、深くて濃い輪郭をあらわにする。
ミステリとは少し違うが、ここで展開を明かしてしまうのは野暮。天童、美月を大切に思う者たちや、久代を助ける仲間、「枯葉」の過去を語る同士たちの存在が血の通った温もりを届ける一方、ネット空間で無責任に毒を吐く者たちは人間的な弱さを無惨に晒す徹底的な「悪」として描かれる。「枯葉」の行為は間違いなく罪だが、読んでいて次第に大きくなるのはネットに蠢く悪意そのもの、怪物のような不気味さだ。
果たしてどこまでがフィクションかと、虚実の境界に足を取られていると気づく。パンデミック時の疑心暗鬼に駆られた人の些細な言葉が、誰かを傷つけてしまった事実。SNSでの炎上が原因で亡くなった著名人。子どもや弱者を脅かす暴力的なコンテンツ。最近では、選挙におけるSNSの在り方も社会問題化している。
底の見えない蟻地獄に立っているのは私たちも同じと、俄に怖ろしい気持ちになる。だが、冷静な客観性を失わず、悪とは、正義とは何かと問い続ける久代の存在が心強い。そして彼女の立ち回りによって物語が最後に見せるのは、恋愛とも家族とも異なる絆、人と人との言語化できない「愛」の形なのだ。
この物語は、『戦後』がリアリティを失い、「それまで重んじてきた大義みたいなもんが急速に薄れていった」八〇年代を、芸能とメディアの変遷から描出する。また、「ネットとSNSのインフラ化」で変わってしまった「プライバシーに関する前提」、それによって誰もが感じている息苦しさを抉る。そして、現代社会に蔓延る宿痾の原因は、「社会的な〝正しさ〟と個人的な〝邪悪さ〟という両極端な振り子がネットによって可視化され、それぞれが発する負のエネルギーに翻弄されている」ことだと喝破するのだ。
新聞のインタビューで著者は本作について、「SNSの手荒な説明書として受け取ってほしい」と伝える。そして、「細部を徹底的にこだわることで、はじめて読者が虚と実を行ったり来たりできる。その境界があいまいになったところに、我がこととして物語を捉える瞬間が出てくるのが、現代小説ではないか」と示している。
カバーに描かれているスタンドマイクとヒールの靴。死者と、不在の〝主役〟を象徴するモチーフだ。読後にあらためて見ると、不在の寂しさが温もりの余韻に変わる。そして引き戻される現実の世界。混じり合った「虚と実」の境が、ステージの上で揺れているように感じた。
「踊りつかれて」というタイトルについても様々な意味が重ねられている。情報に翻弄される者。諦念。それ以外に示唆される旋律。検索すればすぐに探りあてられる。それはきっと、怒りや恨みではなく悲しみを超えた〝愛しさ〟を引き寄せるはずだ。(やぎ・やすこ=文芸批評家)
★しおた・たけし=作家。著書に『盤上のアルファ』(小説現代長編新人賞賞)『罪の声』(山田風太郎賞)『歪んだ波紋』(吉川英治文学新人賞)『存在のすべてを』(渡辺淳一文学賞)など。一九七九年生。
書籍
書籍名 | 踊りつかれて |
ISBN13 | 978-4-16-391980-5 |