原発の町から普通の町に
「小さな平和」を求めて
ふくもと まさお著
永田 浩三
著者は1985年からドイツに暮らすジャーナリスト。生活者の視点からネットを舞台にルポルタージュを発表してきた。今回紙の本を出すことにしたのは、持続可能な森林管理を行っていることを示すFSC認証を受けた紙を使うことを出版社が認めてくれたからだという。割高にはなるが、応援してくれる人がいると期待して踏み切った。
1冊目は『原発の町から普通の町へ』。ドイツは2年前の4月15日、稼働していた3基の原発を停止させ、脱原発を実現させた。日本では、2011年の福島第一原発の事故がきっかけだと思っている人が多いが、正確ではない。著者は脱原発に至るドイツ社会の40年にわたる長い歩みを検証した。
最初に声をあげたのはヘンニッケ教授。1985年、原子力発電の限界や危険性、代替となるものの可能性を訴えた。そして翌年、チョルノービリ原発事故が起きる。ウクライナから1000キロ以上離れたドイツでも、食糧などの放射能汚染に直面した。ここから原発の議論が巻き起こっていく。
なぜドイツではできて日本ではできないのか。著者はその答えを「対話」に見出す。市民は脱原発を求めてさまざまな運動を展開。デモには小中学生が参加することが当たり前になった。産業界が変わり始める。いきなり原発をやめるわけにはいかないが、30年後なら可能かもしれない。政府は電力会社が代替エネルギーに移行しやすいよう政策を打ち出し、背中を押した。2022年、ロシアによるウクライナ侵攻のあおりを受けて、ロシアからの天然ガスの供給が止まることがあったが、電力業界は踏みとどまった。市民・電力業界・研究者・政治家・政府との間の「対話」は途切れることなく、多くの人々の努力によって脱原発に成功したのだった。
それでもたくさんの課題は残る。原発のゴミ、つまり放射性廃棄物の最終処分場をどこにつくるか。選定作業は終わっていない。最終処分場が決まるのは2070年代ではないかと著者は予測する。そこまで時間がかかるのは、関係者が納得できるまで「対話」を繰り返すことが必要だからだ。急がばまわれということわざを思い出した。
2冊目は、『小さな平和を求めて』。第二次世界大戦末期の1945年7月26日、ドイツのポツダムに米英ソの首脳が集まり、日本に降伏を求める宣言が出された。ポツダム宣言である。トルーマン米大統領が滞在した邸宅は「トルーマンハウス」と呼ばれ、大切に保存されている。これまで、ここに滞在していた時期、トルーマンは原爆投下の決断をしたと言われてきた。邸宅前のスペースは、「ヒロシマ広場」その後「ヒロシマ・ナガサキ広場」と名づけられた。
だが、トルーマンは本当にこの家で原爆投下を決めたのか。著者は歴史研究者の力を借りて、そうではない事実にたどり着く。ワシントンとポツダムとの間の電報によれば、原爆投下についての命令書はすでに軍部によって作成され、大統領は承諾したに過ぎなかった。
2005年12月、広場に記念碑を建てることが市議会で決まる。募金を始めるにあたって多くの人たちが結集し、その一人が外林秀人だった。爆心から1.6キロ。広島高等師範の教室で被爆した。その後、化学を学ぶためドイツに留学し定年まで研究所に勤務した。外林は77歳にして初めて自身の被爆体験を語るようになった。
2010年7月25日、広場に記念碑が立てられる。碑の最後には、「原爆の破壊力は、数十万の人々を死に追いやり、人々に計り知れない苦しみをもたらした。核兵器のない世界を願って」という言葉が刻まれた。だが、一人の米国人が地元紙にこんな投稿をする。「碑は大統領の過去を歪めるもの。日本人は自分たちを悲劇扱いし、自身の戦争責任を黙認する」。
抗議は大きなうねりにはならなかった。著者は、ドイツの社会の根幹をドイツ憲法第一条に見る。そこには「人の尊厳は傷つけてはならない」と書かれている。
2冊の本はドイツ社会の民主主義のありようを教えてくれる。異論があり、時間がかかる。それでも「対話」以外にはない。歴史の事実に目をつぶることなく、市民が対話を通じて互いを認め合いながら、よりよい社会をつくるために前に進む。それこそが戦後80年を迎えた今の日本社会において、最も大切なことではないだろうか。(ながた・こうぞう=ジャーナリスト)
★ふくもと・まさお=ジャーナリスト・ライター。ドイツ・ベルリン在住。著書に『ドイツ・低線量被曝から28年』『小さな革命 東ドイツ市民の体験』など。
書籍
書籍名 | 原発の町から普通の町に |
ISBN13 | 9784871542760 |
ISBN10 | 4871542769 |