2025/06/27号 7面

百人一瞬 Crossover Moments In mylife 68・宮本隆司

百人一瞬 小林康夫 第68回 宮本隆司(一九四七―    )  本連載に登場してもらおうかな、でも最近お会いしていないので、どうなさっているかしら、と思っていたところに、(さすが写真家、一瞬のグッド・タイミング)一冊の写真集が届いた。タイトルが『本気にすることができない渋谷』(インスクリプト)。これは何だ?と、写真を見る前に巻末の「あとがき」を読んでみると、T・S・エリオットの「荒地」のなかに出てくる〈Unreal City〉という言葉を吉田健一が「本気にすることが出来ない都会」と訳したその言葉に依るという。つまり、〈Unreal Shibuya〉。だよねえ、特に最近、渋谷を歩くたびごとに、あれほど親しんでいたはずの街がすっかりわからなくなって、まさにアンリアル、宮本さんはそこで「わたしには、渋谷のスクランブル交差点を行き交う人々が亡霊の群れには見えない」と書いていたが、わたしはいつも、すでにして、わたし自身が一個の「亡霊」となってさまよっているかのような感覚に襲われるのだった。  いや、本稿は書評ではないので、そこにまとめられた、宮本さんならではの変容する都市空間とそのなかを横切っていく、これもまたどこかアンリアルな人たちの写真作品そのものには触れないでおこう。  宮本さんは、わたし個人にとってはなによりも、一九九五年パリで、わたしの哲学の「師」であったジャン=フランソワ・リオタールとジャック・デリダという二人の哲学者それぞれとわたしとのツーショットの写真を撮ってくれた写真家だ。どちらも朝日新聞の記者の方の通訳としてわたしがその場にいたからなのだが、すでにしてほとんど「亡霊」であるわたしにとってはとても大事な、まさに出会いの一瞬のモーメントの記録なのである(それらの写真は、拙著『《人間》への過激な問いかけ』水声社、『死の秘密、《希望》の火』水声社、に掲載させてもらった)。  もちろん、それだけではない。一九九六年のヴェネチア・ビエンナーレ建築展で宮本さんが、磯崎新さん監修のもと建築家とともに、前年の阪神・淡路大震災によって破壊された都市・神戸の写真を用いて「震災の亀裂」の空間を出現させたことを受けて雑誌で対話をしたこともあった。おたがい何を言っていたのだろう、と本棚から三十年も前のそのクロスオーヴァーの記録(『創造者たち』講談社)を取り出して読み返してみると、宮本さんは「写真は現代人の体の中に入った、それは〈言葉のない思考〉だ」と言い、わたしの方は、「宮本さんは、物語も事件もすべて終わった後の空間にポツンと立っている。そこで言葉にならない思考をしている。もし世界の終わりを撮る写真家がいるとしたら、宮本さんじゃないですか」などと言っているのだった。そのなつかしい対話が戻ってくる。  そうか、「世界の終わり」は変容を続けながら続いていくのだ。都市は、写真という〈言葉のない思考〉にとっては、変容し続ける「廃墟」なのだ。  そうであれば、この「いま」を惜しみつつ、早速、宮本さんに連絡して、今度だけはどうしても場所は「渋谷」でなければならないが、お会いして、もちろんワインでも飲みながら、遠い昔の「対話」の続きを、本気になって、行為しなければならない……。(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)