2025/07/25号 7面

私たちはどんな「世界」に生きたいのか

私たちはどんな「世界」に生きたいのか 山口 泉著 荒木 優太  松下竜一(一九三七~二〇〇四年)は大分県出身の作家。父親の零細豆腐屋を引き継ぎ働いていたが、新聞の歌壇への投稿をきっかけに歌集『豆腐屋の四季』を自費で出版、これが高く評価され専業作家に転身した。以降、公害問題、反原発運動に意欲的に取り組み、数多くのノンフィクション作品を世に送り出した。本書は、河出書房新社から刊行された著作集『松下竜一その仕事』全三〇巻の解説文を集めた論文集である。著者が結果的にすべての巻の解説を担当することになった経緯は「後記」に詳しい。  ただし、親切な松下文学入門を期待して本書を紐解いた読者はきっと面食らうに違いない。丁寧に要約された梗概や著作同士の便宜な地図があるわけではない。直接関係するかどうか読みようによっては怪しい野間宏、大岡昇平、太宰治といった戦後文学への痛罵もさることながら、読者はなにより、当の松下作品に対するかなり率直な批判の言葉の数々に出会うことになる。驚くべきことだし、もしかしたら、恐るべきことかもしれない。現代瀰漫している売らんかなの太鼓持ち書評文化に慣れ親しんだ者にとって、著作集の解説担当者が、本文の「奇形ハマチ」や「奇形魚」といった語から、社会運動に傾倒した作家が無意識にもっていたかもしれない優生思想を析出したり、家族を人間の当然の条件であるかのように描く筆致、そこに内在している「女性原理」を批判していくなど。案内係のような外見をよそおいながらも、この本の真の味わいどころは、松下作品を論じるさいの著者自身の手つき、批判を支える独自の思想的営為にある。  このことをよく示す文体的特徴が二つある。後述と保留である。  本書を読んでいると、次のような言い回しによく出会う。すなわち、「これらの「住民運動」については、この著作集の後続の巻の「解説」でも詳述したい」や「このことについては後述する」である。後述の技術は、近い将来に取り組みたい論点を予告し、その前触れでもって準備的な態度を喚起させる。重層的構造的な文章には欠かせない。にも拘らず、これを駆使できる人はいまの時代少ない。現代の書き手は、ページを大きくまたいで一つの論点を複数の視点から眺める豊かさを恐れる。時間を恐れる。ジェラール・ジュネットの物語論が反復的先説法について注意を促したように、予告とその回収の射程が短ければ、フリは単なる字数稼ぎに堕ち、十分な効果を上げることはできない。が、一定の射程を確保するとはそのぶん読者の時間を奪うということだ。読者にじりじりとした待ち時間を過ごさせるということだ。その野暮ったさが許せない。編集者必携の教科書にも、インスタントで非ずんばリーダブルに非ずと書かれているかのようだ。だから息はどんどん短くなる。現代評論の薄っぺらい構築性の所以である。後述の技術はかくして忙しい読者がそれでも自分についてきてくれる方に賭けるという勇気の所作となった。  保留も同様だ。「私自身はあくまで、とりあえずそうした考え方には与しないでいたいと思う」や「このことの責任も、私は棚上げにするつもりはまったくないが、とりあえずは措く」など、本体になる論の運びに対して本書は注記や但し書きに相当するような分岐点をたくさん設けている。これにより、つるつるとすべるリニアーな読書は、一時停止を余儀なくされ、時間的にもごつごつとした不連続な触感に変わる。その違和の正体、分岐の先で待っているのは、生真面目といいたくなるほど正確を期す著者自身の私見である。「私」を知りたいのではない、対象を知りたいのだ、という読者の反応に、現代の書き手は怯えている。だから総体として賛成・称賛ならば、まあいいかと思って自分のなかの九九を一〇〇に概算して読みやすい文章に融かしこむ。タダシやナオといった残った一の言葉の封殺とともに。本書は一を殺さないでできている。たとえば、松下の障害観を相対化するために援用した堤愛子の文章にさえ、「しかし、かくも優れた、読む者の魂を顫わせる思想に対しても、私はなお全面的に賛意を表するわけではない」などと付け加える律儀に、凡百の解説本では決して満たされない、嚙みきれない歯ごたえがある。  このような奇跡の書が二重三重の信頼関係によって出来上がっていることも肝に銘じておくべきだろう。仮に否定的だったとしてもそれを受け止めてくれる編集者を信じている。結果的に自作を貶されたとしても評は独立した表現形式であるという作家の常識を信じている。なんといっても、本を読んでいるのはほかの誰でもない自分自身であると信じている。翻っていえば、太鼓持ちは誰も信頼していないから太鼓を叩きつづけるのだ。時代の淋しさを透視してもいる。(あらき・ゆうた=在野研究者・日本近代文学)    ★やまぐち・いずみ=作家。東京藝術大学美術学部在学中に『夜よ 天使を受胎せよ』で太宰治賞優秀作を得、文筆活動に入る。以後、小説と評論の両面から現代世界の自由の問題を追求。一九五五年生。

書籍

書籍名 私たちはどんな「世界」に生きたいのか
ISBN13 9784803804645
ISBN10 4803804648