2025/03/21号 5面

擬人化する人間

擬人化する人間 藤井 義允著 竹永 知弘  いま「人間」でいるのはむずかしい。建前的に存在していた「人道」は、情報技術や医療の加速度的な発展や、政治社会状況の波瀾のなかですっかり蹂躙された。かといって、そうした奔流に身を投じ、「人でなし」として振る舞うほど恥知らずにもなれない。ゆえに身動きがとれず、その両極の価値基準のはざまで、心身が引き裂かれるのに耐えるしかない中途半端な存在。本書はそのようなディストピア的状況のなかで、「どうしようもなく「人間」であるにもかかわらず、どうしようもなく「偽物」である感覚」を拭えずにいる「人擬き(ひともどき)」のための文芸評論だ。  著者はジャンル横断的に旺盛な批評活動を展開してきた現代文化研究会「限界研」のメンバーである。コロナ禍の只中におこなわれた『小説トリッパー』誌上での連載をまとめた本書が初の単著になるという。  おもに取り上げられるのは、朝井リョウや村田沙耶香、平野啓一郎、古川日出男、羽田圭介といった文学プロパーの作家たちだけでなく、又吉直樹や加藤シゲアキのような芸(能)人小説家、さらに一般的には文学者のイメージのないアーティストの米津玄師である。これら現代の鋭敏な「言葉」の使い手たちの作品の通奏低音に「人擬きの感覚」を看破した著者は、そこから来るべき「新しい人間像」を模索する。  そして右の分析対象のラインナップに半ば明らかなように、これは「言葉」の信用が失墜し、「文学」なるジャンルの権威が瓦解した現在、居場所を喪失した「文学擬き」の擁護でもある。むろん、ここで「文学擬き」とは、いささかも否定的な響きを含まない。むしろ著者は、いわゆる文学至上主義と文学不要論の狭間に立たされた現在の「文学」(ひいては「言葉」)に覚悟を持って寄り添い、穏やかに歩み寄ろうとしているように見える。点在する作品の最大限の批評的な可能性を探り、「新しい人間像」=「新しい文学像」を提示すること。本書で目指されるのは、およそそのようなことである。  こうした試みの背後にはおそらく、著者のきわめて実存的で、切実で、プライヴェートな動機がある。平成史の概観、および平成元年生まれの小説家である朝井リョウから分析が始まるとおり、その射程に収められるのは「平成」という時代である。それは本書で最終的に論じられる一九九一年生まれの米津玄師、および著者が生きた時代にほかならない。その意味で本書はそのまま、平成初期という、まだかろうじて「現実より虚構が力を見せていた時代」に生まれ、育った人間が、今日の「フィクションの危機」に抱く哀切な感情のストレートな吐露でもあるのだ。その末席に加わるのは痴がましいが、同じ一九九一年生まれのひとりとして私は、少なくともそのように読まざるを得なかった。  本書終盤、朝井リョウ原作の映画『何者』主題歌の中田ヤスタカ「NANIMONO(feat.米津玄師)」が話題にされる。そこで著者は、米津のリリックに導かれるようにして、こう書く。「歌詞の中で描かれているのは、踊り場という階段の途中、この先が一体どうなっているのかわからない状態だから、心臓が震えている。自分自身が一体どのような存在かわからないからこそ、不安にかられる。だからこそ自分の立ち位置を確かめたくなる」。  この「踊り場」という語が印象に残るのは、まさに同曲が本書において文字どおり、冒頭の朝井とラストの米津を繫ぐ「踊り場」的な役割を実際に果たしているからだけでなく、時代を象徴する単語、すなわち「人擬きの感覚」を的確に言い当てた表現だからだ。ヒューマニズムと脱人間主義、文学至上主義と文学不要論、日々刻々と移りゆくその他さまざまな価値観の階段の途上にある、この暗がりのような「踊り場」の窓からの眺めも、不安定で落ち着かない今このときも、しかし、希望の持ちかた次第ではそう悪くないと気づかせてくれる一冊である。(たけなが・ともひろ=日本現代文学研究者・ライター)  ★ふじい・よしのぶ=文芸評論家。共著に『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』『現代ミステリとは何か』、編著に『東日本大震災後文学論』など。一九九一年生。

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