2025/08/01号 9面

▽追悼=関口苑生(杉江松恋)

追悼=関口 苑生 杉江 松恋  関口苑生さんは恩人である。  十五歳年長で、二十代の私にとっては雲上人だった。大学時代からライター活動を始めて、雑誌編集部でアンカーを務めていた時期もあると聞いている。私は大学を卒業して一般企業に就職し、その傍らで細々と書き物をしていたので、いわば兼業ライターであった。  関口さんはワセダミステリクラブ(WMC)の出身である。同サークルは多くの才能を輩出していて、関口氏とほぼ同世代には香山二三郎氏、新保博久氏がいる。私は大学も違ったし、ライターとしては二世代近く上の存在である関口さんとは初め接点がなかった。  余談になるが故・北上次郎氏は、香山・新保・関口の三氏に一般企業に就職した経験がなく、大学から直接書評家になった存在として注目していた。ミステリー書評の歴史において、それ専業で食っていく道を拓いたのは生え抜きの三氏だと私は考えている。それ以前はほぼ、他の何かとの兼業だったのだ。  ある日、関口氏が私のことを快く思っていない、という噂が聞こえてきた。接点がないのになぜだ。詳しく聞いてみると、私というより兼業ライターというものに対して憤っておられることがわかった。勤め人が小遣い稼ぎに原稿を書きやがって、と言っておられるとのことである。書評家という仕事一本でご自分はやっておられる。それからすると、正業という保険をかけてのライター稼業は、腹が据わっていないように見えたのだろう。  会ったら間違いなく叱られる。そう思って私は、関口さんを避けるようになった。  わずかに接点ができたのは、今は亡き文芸誌『鳩よ!』で私が連載を始めた時だった。やはり書評家先輩の吉野仁氏に誘われて、新刊対談を始めた。その誌上で関口さんは、後に『江戸川乱歩賞と日本のミステリー』としてまとめられる連載をしておられたのだった。  会わないように、会わないようにしていたのに、ついに関口さんと出くわしてしまった。故・茶木則雄さんに連れられて新宿歌舞伎町のルルに行ったら、先客として関口さんがいらっしゃったのである。先輩だから当然挨拶に行く。関口さんは私を見ると、お前か、人間はおもしろいけど書くものはつまらない杉江松恋というやつは、と言われた。存在を知られていたのか、と意外な気持ちがした。  聞かれた。君はいい書評とはどういうものだと思っているのかね。私は、本を売る後押しができることだと思っています、バナナの叩き売りのような、というようなことを答えたと記憶している。関口さんは、言った。  「本当にそれでいいと思っているのか。出版社の言いなりになって本を売る手伝いをして、ライターとしてそれで本当に満足なのか」  書評は宣伝コピーではなくて第一に評論でなければならない。関口さんはそう言いたかったのだと思う。出版社の御用聞きになるな、と。書評家は常に読者の側に立つべきで作品本位でなければならない。それを言ってくれたのは関口さんが最初だった。  その後は仕事をご一緒する機会も増えた。特に日本推理作家協会賞の予選委員として定期的にお会いした。作品を何冊も読んだ中から絞り込んでいく。関口さんの作品評は、要素を抽出して美点はこれ、欠点はここ、と短くまとめた上で、でもつまらないんだよ、と評価を教えてくれるのである。書評の基本を見せてもらっているようで勉強になった。意外なものを推してくることもあった。ミステリー書評家で小川洋子作品を最初に褒めたのは、関口さんではないかと私は思っている。  関口さんには、厭わしいことがあると沈黙してしまう悪い癖もあった。そのせいで世間を狭めてしまった面はあると思う。もっと自説を唱えてもらいたかった。本を書いてもらいたかった。だが、ミステリー書評家という職業を確立した功績は大きく、永遠に消えることはない。関口さん、ありがとうございました。あのときの説教、身に沁みました。(すぎえ・まつこい=書評家・ライター)  せきぐち・えんせい氏(本名=田原孝司/たはら・たかし)=文芸評論家。二〇二五年六月一二日、乳がんのため死去。七二歳。  一九五三年生。早稲田大学社会科学部中退。在学中から執筆活動を開始。冒険小説やミステリーを中心とした文芸評論を発表。著書に『江戸川乱歩賞と日本のミステリー』、編著に『一瞬の人生 短篇ミステリー・コレクション』など。本紙には一九九〇~二〇〇〇年代の文庫特集号、 ボリス・アクーニン『堕ちた天使』、鈴木俊幸『下山事件 暗殺者たちの夏』などの書評をご寄稿いただいた。