2025/02/28号 5面

クァーキーな女たちの伝統

クァーキーな女たちの伝統 小林 富久子著 内藤 千珠子  フェミニズムの力を伝える、意義深い批評集である。近年のフェミニズム批評やジェンダー研究を取り巻く環境の変化、英語圏での日本の女性作家人気といった現象を踏まえ、本書は、「クァーキー(quirky)」というキーワードによって、女性作家たちの文学に新たな光を当てようとしている。英語圏で日本の女性作家が評される際に多用されるという「クァーキー」の語には、風変わりな、癖のある、突飛な、予測のつかない、ねじまがったといった意味の広がりがあり、ともすればマイナスのニュアンスが伴われがちだというのだが、著者は、それを肯定的にとらえる立場から、近現代文学の時空を見渡していく。  クァーキーな女たち、すなわち、一見すると受動的に環境に溶け込んでいるようにみえるものの、規範から距離をとり「異端者」の位置につく主人公たちの姿は、実のところ、現代だけではなく、近代以降の日本の女性作家たちのテクストに連続したものなのではないか。こうした見立てをもって、本書では、田村俊子、宮本百合子といった近代の作家から現代の女性作家までを対象として、文学テクストをフェミニズムの視点から読解することの意義が示されていく。津島佑子とトニ・モリスンを連接したり、村田沙耶香とハン・ガンを比較検討する視点が取り入れられたりと、幅広い視野のなかで批評的な分析が展開し、想像力を刺激する構成となっている。  とりわけ印象深いのが、複数の章で言及される、円地文子と津島佑子をめぐる考察である。  円地文子をめぐる議論の中心には、『女坂』がある。この小説がフェミニズム的とも、反フェミニズム的とも解釈されてきたという、かつての相反する批評の言説論理が整理された上で、『女坂』のもつ重層性や両義性が、フェミニズムの観点から問い返されていく。本書が重要視しているのは、こうした複雑な小説に編み込まれた物語の層を、現在の私たちが生きる地平に、どのように接続する必要があるのか、という問いにほかなるまい。権力体系の伝統を再構成した上で脱構築する小説の言葉は、過去の女性たちの「記録されることのなかった物語」を紡ぎ出す。現在の読者がどのように受け取れば、書かれているのに読まれてこなかったものを、批評的に可視化することができるのか。見えにくいが確かに書かれている、女性たちの認識や行為、身体表現などを丁寧につなぎ合わせていく本書の読解の実践は、クァーキーな女の表象する「反逆」の声を、読者にも聞き取らせてくれるはずだ。  また、アドリエンヌ・リッチの思想を手がかりに津島佑子『寵児』を論じたくだりでは、制度が強制する母性の枠組みへの批判と、複数的で個別的な経験としての母性の描出とを同時に現した、小説の言葉の豊饒な創造力が明らかにされていく。こうした議論の延長で、津島作品における「山姥」という記号が、既存のジェンダー秩序を越境し、世界にオルタナティヴな可能性や多義性をもたらすことが析出される。否定的なイメージを与えられてきた女性像を、現代的なヒロインとして再構成するフェミニズム文学の方法論が、読む者に鮮やかに迫ってくるだろう。  あるいは、女性主人公たちが経験する「移動」に注目した位相では、ナショナリズムや植民地主義の制度を軋ませる、女性身体の経験から派生した抵抗的な意識が問題化されおり、興味深い。マレー半島を舞台とする森三千代の連作短篇「国違い」「帰去来」や、人種のテーマを扱った有吉佐和子『非色』においては、移動する女性身体がナショナリズムの規範から距離をとり、差異を帯びた認識をもつに至る過程が論じられている。小説の言葉は、別の場所へと移動し続ける運動が、差別や暴力を固定するのとは異なる別様の認識を生み出す瞬間を創出するのだ。  ひとつのテクストをめぐる読解が、現在進行形の問いにつながっていく。小説の言葉とフェミニズムの言葉の交点から、思考の契機を与えてくれる一冊である。(ないとう・ちずこ=大妻女子大学教授・日本語文学・ジェンダー研究)  ★こばやし・ふくこ=早稲田大学名誉教授・アメリカ文学。早稲田大学ジェンダー研究所初代所長。著書に『円地文子 ジェンダーで読む作家の生と作品』『ジェンダーとエスニシティで読むアメリカ女性作家』など。

書籍

書籍名 クァーキーな女たちの伝統
ISBN13 9784779129995
ISBN10 4779129990