2025/02/28号 3面

中立とは何か

中立とは何か 野口 雅弘著 橋本 直人  二〇二四年は政治をめぐる光景が一変した年だった。選挙のたびにネット上で感情的な極論やデマが吹き荒れ、その嵐が選挙を左右するに至るとは想像していない人も多かったのではないか。ワイドショーの司会者が「大手メディアの敗北」と評したのはその象徴的な場面であろう。それとともに大手メディアが掲げてきた「中立的な報道」の内実を問う声も大きくなっている。  他方で、大学はじめ教育機関や美術館・公民館などの公的な施設では、「政治的な中立」の名のもとに立場表明が「政治的な主張」とされ排除される事態もみられる。一体、私たちは「中立」という言葉で何を考え望んでいるのだろうか。  本書はマックス・ウェーバーの「価値自由」概念の受容史をたどりながら、こうした状況を考える糸口を探ろうとする。ウェーバーと言えば「社会科学の古典」であって、このような現代の問題とはかけ離れた存在と思われるかもしれない。しかし著者は、すでに『忖度と官僚制の政治学』(青土社)や『マックス・ウェーバー 近代と格闘した思想家』(中公新書)など、さまざまな時代や社会と関連づけるなかでウェーバーの思想に新たな可能性を見いだす著作を重ねている。本書も、「価値自由」という概念がどのように受容されたか、その歴史を論じることで、ウェーバーの思想がもつ現代性を描きだしている。  もっとも、本書の叙述を通じて読み取れるのは、ウェーバーの「価値自由」概念とその背後にある「神々の闘争」という認識がいかに受容されそこねてきたかの歴史である。ウェーバーは「神々の闘争」という言葉によって、諸価値が相互に和解しがたく矛盾し葛藤する悲劇的な状況を指摘した。まただからこそ一つの価値が「科学」や「事実」を僭称することを厳しく批判し「価値自由」を訴えた。だが本書が浮き彫りにするのは、ウェーバーの同時代から現代に至るまで、一貫して「神々の闘争」という認識から牙を抜き、その悲劇性を緩和するさまざまな試みの歴史であるように思われる。  たとえばウェーバーの同時代人たちは「進歩」や「生産性」といった「学問的な」概念を支えとして「規範的な」科学を確立できると考えていた。時代を下ってハイエクも、設計主義的な配分と市場交換との対立を「科学的に」分析すれば前者の選択肢はあり得ない、と主張した。さらに現代のロールズであれば、価値がどれほど多元的でも「合理的な個人であれば」必ず合意するだろうルールにもとづくリベラルな共存を構想することになる。このように、本書がたどる受容史のほとんどの場面で、人々は「価値と事実の分離」という要請は認めつつも「神々の闘争」の悲劇性を回避してしまうのだ。そして行き着く先は「学問の非党派性・中立性への信奉」であり「価値自由」概念の消滅である。本書の登場人物のなかでウェーバーの悲劇性を正面から受け止めたのは、退却を「転進」と言いかえる日本軍の精神構造を厳しく批判した安藤英治ぐらいかもしれない。  本書の最終章で、著者は現代の精神史的考察へと転じ、多様な価値や社会関係の中で流動化する脆弱な個人のあり方を論じている。そこでは「多様性の尊重」の名のもとに自らの価値を突き詰めず対立や決定を避ける「中立性」が好まれ、自らの価値の再検討を迫るような「思想の強い」主張は感情的に反発される。著者はそこに脆弱性が自己の絶対化に反転するメカニズムを見る。だが著者も言うように、その背景には社会から対立の契機を除去してきた過程があるし、「非党派的・中立的」な科学もその過程と無縁ではない。だとすれば、現代の「中立的な」科学と自己絶対化に由来する陰謀論は、ウェーバーの悲劇性を回避する同じ脆弱さの裏と表なのである。  本書はウェーバーの「価値自由」論の現代性を描くことに成功していると言えよう。たとえその現代性が、思想が受容されなかったがゆえの悲劇的な現代性なのだとしても。(はしもと・なおと=神戸大学准教授・社会思想・社会学史)  ★のぐち・まさひろ=成蹊大学教授・政治学・政治思想史。著書に『闘争と文化』など。

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