映画時評 10月
伊藤洋司
カメラを乗り物の先頭に設置して撮影するファントム・ライドというジャンルが、映画の創成期に流行した。乗り物自体は画面に映らないのでファントムと呼ばれる訳だ。この流行は、こうした移動ショットそれ自体が観客の欲望の対象となることの証拠である。
三宅唱の『旅と日々』の中盤にまさにファントム・ライドと言うべきショットが登場する。列車の先頭にカメラが置かれ、列車がトンネルを抜けると一面の銀世界が広がる。主人公の女性脚本家、李が旅に出たのだ。この移動ショットをきっかけに映画の舞台は東京から庄内地方に移る。この移動ショットの短さに注目しよう。物語の脈略をこえてずっと見続けていたくなるようなこの圧倒的なショットを、三宅唱はすぐに終わらせ物語を次の段階に進める。この簡潔な語りが素晴らしい。
とはいえ、三宅唱はファントム・ライドの魅力を否定している訳ではない。前半では、李が脚色を担当した作品が映画内映画として示されるが、その最初のほうで、渚という少女を乗せた自動車から見える風景が、ファントム・ライドの一種の変奏としてカメラの前進移動ではなく横移動によって、それなりの時間映し出されるからだ。けれども、強めの音楽を伴うこの長めの移動ショットも語りの機能を逸脱することはない。虚構内虚構に観客を誘い込むために、ある程度の長さが必要なのだ。濱口竜介の『悪は存在しない』に登場する、車の後部に置かれたカメラによる長い後退移動とは全く異質なショットである。
ホウ・シャオシエンの『恋恋風塵』の冒頭のように、ファントム・ライドを長々と撮り、さらに、リュミエール兄弟の映画を思い出しつつ列車の到着のショットを撮る選択もあるだろう。だが、『旅と日々』では出発も到着も描かれず、列車はまさにファントムである。旅の映画でありながら、ヴィム・ヴェンダースのロードムービーとは正反対の映画を撮ること。これこそが大胆な野心というものだ。
スタンダードサイズで九〇分を切るこの映画は、抑制のきいた簡潔な語りで終始観客を魅了する。勿論、語りの経済性ばかりが追求されて、画面の快楽が拒絶される訳ではない。例えば、前半の映画内映画は夏の島を舞台とし、海の波や草木を揺らす風など、風景を魅力的に捉えるロングショットが次々と登場する。けれども、それらは常に語りの機能の点で必要な長さだけ示され、画面の快楽に溺れる前に次のショットに移っていく。そんななかで際立つのが、夜の海を遠くに見せつつ少女と少年の会話を描く長回しだ。だが、これも決して例外ではない。明らかに互いに惹かれ合いながらも、幸せな恋愛に発展する気配など微塵も感じられない男女の微妙な感情の揺れ動きが、細やかに語られる必要があるのだ。二人を捉えるこのショットの情感豊かな長回しも、語りの機能が要請したものである。
東京での短いくだりを経て、映画の後半では、夏の島とは対照的な冬の雪国が舞台となる。ここでも女が旅先で男に出会うが、今度は大人の男女であり、異性として惹かれ合うこともない。この二人が室内で視線を合わそうともせずに会話をする時のカット割りが素晴らしい。またその後、寒い夜に二人が外へ出ると、途方もなく面白いことになるのだが、それは是非、映画館で確かめていただきたい。
今月は他に、『じぶん、まる! いっぽのはなし』『視える』などが面白かった。また未公開だが、ババク・ジャラリの『フロンティア・ブルース』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
