本気にすることができない渋谷
宮本 隆司著
タカザワケンジ
コンクリートが剝き出しになり半壊したビルディング。その向こうにはデジタルサイネージがめまぐるしく映像を発光し続けている。再開発中だとわかっていても、奇異な印象はぬぐえない。まるでそのビルだけ突然、時が進み廃墟になってしまったかのようだ。
宮本隆司の写真集『本気にすることができない渋谷』はタイトルの通り、東京中心部の渋谷駅周辺を主題としている。二〇二〇年から二〇二五年まで撮影されたモノクロの写真に写っているのは、駅周辺の再開発とそこを行き交う人の姿である。首都圏に住む人ならピンと来る、あのいつになったら終わるのか見当もつかない大再開発の現場である。写真を見ていても、建物をつくってるのか、壊しているのかがわからない。むろんすでにある建築物を壊して新しいものをつくるのだから、壊すこととつくることが同時進行しているのだろう。しかしそれも頭で考えてわかることで、目に見えるのは古い建物の構造が剝き出しになり、それをシートで覆いながら、新たな足場がつくられていく。諸行無常のドラマそのものだ。
宮本隆司は早くから都市に関心を向けてきた写真作家である。多摩美術大学卒業後、建築雑誌の編集を経て写真家として独立した。最初の写真集は一九八八年刊行の『建築の黙示録』。廃墟を主題にした作品だ。建築業界から出発してさっそく廃墟を撮っているのが面白い。建築写真といえば竣工写真である。誕生を祝うように祝祭的な竣工写真に対し、作家としての宮本が選んだのは葬儀が営まれることもなく破壊される建築の最期である。衆目の集まらない「終わり」に目を向けることから宮本の作家活動は始まっている。
その後も宮本が目を向ける都市と建築は遠い昔にその機能を失ったアンコールワットであり、移民が作り上げた違法建築の塊のような九龍城砦であり、ホームレスが工夫を凝らしたダンボールハウスだった。どれも通常の都市と建築のイメージから逸脱している。
今回の作品は、都市の中の都市、渋谷の中心部が主題になった直球の都市写真だ。宮本といえば三脚に大型カメラを据えた写真が有名だが、道行く人にカメラを向けて直感的に撮影したスナップ写真も含まれている。写っているのは自己主張の強い服装、メイクの人物が多い。こうした人々は渋谷を歩いていれば見るたびにドキッとするが、写真にしてみると「個性」がインフレを起こし、「普通」に見えてくるから面白い。
写真がすべて縦位置というのも宮本の作品としては珍しい。人間の目は横に二つ並んでいるから横位置のほうが自然な視野のはずだが、あえて縦位置なのは意図的だろう。たとえばそれは現代のスマートフォンによる撮影を思わせるし、縦に伸びるビルが多い駅近くの光景にふさわしいとも思う。モノクロ写真はカラーに慣れた目からは、古典的にも、情報をそぎ落としたようにも見える。日頃目にする渋谷の印象から喧噪が消え、無音の街に入り込んだようだ。
さて、タイトルの『本気にすることができない渋谷』とはどういう意味なのか。本書に収録された宮本の文章によれば、イギリスの詩人、T・S・エリオットが第一次世界大戦後に発表した長編詩「荒地」の一節で、原語がUnreal city、それを吉田健一が「本気にすることが出来ない都会」と訳したことに由来している。宮本はその言葉に「感受する主体の眺める死が流動している」都市の姿を見る。戦争で廃墟だらけになった亡霊が行き交うロンドンがそこに描かれているのだと。
現代の渋谷に死の影はない。むしろ排除されている。だが、私には渋谷のいつ終わるともしれない再開発の渦と、その渦を一瞥すらせずに歩き続ける人々は、まるで死んだことに気づいてすらいない亡霊のように見える。そして戦争で廃墟だらけになった亡霊が行き交うロンドンではなく、スクラップ&ビルドが永遠に続くかのような渋谷こそ、つかみどころのない、「本気にすることが出来ない都会」ではないか。私たちがこの写真集で目にするのは、華やかな未来に向けて再開発が進む渋谷ではなく、その未来を通り越して、廃墟になった街を闊歩する未来の亡霊である。(たかざわ・けんじ=写真評論家)
★みやもと・りゅうじ=写真家。写真集に『建築の黙示録』『九龍城砦』『Angkor』『RYUJI MIYAMOTO』『CARDBOARD HOUSES』『首くくり栲象』『いまだ見えざるところ』など、著書に『いのちは誘う』など。一九四七年生。
書籍
書籍名 | 本気にすることができない渋谷 |
ISBN13 | 9784867840085 |
ISBN10 | 4867840084 |