2025/11/21号 6面

松本清張と水上勉

松本清張と水上勉 藤井 淑禎著 酒井 信  「小説は大人の説じゃなくて小人の説なんだ。だから面白く語らなきゃいけないんだ」(「清張さん、ちょっといい話」)と松本清張は水上勉に語っている。水上勉にとって松本清張は、作家として再浮上するヒントをくれた恩人だった。本書は、戦後日本を代表する2人の大衆作家の「文学的生涯」に、主要作を通して迫る。藤井淑禎が述べているように、この2人の作風の差異を分析することは「日本型私小説への批判と克服」について考える上で、興味深い。  水上勉は1919年生まれで、1909年生まれの松本清張より10歳年下だが、デビューは清張より早い。本書に収録されている「松本清張・水上勉年譜」を参考にすると、水上勉は20歳の1939年に「日記抄」と題した作品を「月刊文章」に投稿し、高見順に選外佳作に推された。その後、29歳の1948年に宇野浩二の推薦で、キャバレーで働く妻を持つ文学青年の子育てを描いた私小説『フライパンの歌』(文潮社)を出版し、上々のデビューを果たす。  水上勉と比較すると松本清張のデビューは41歳で、ずいぶん遅い。印刷画工として腕を磨き、朝日新聞西部本社に勤めていたが、賞金の大きさに惹かれ、「週刊朝日」の懸賞小説に応募して作家となった。2人とも実家は貧しかったが、松本清張が高等小学校卒であるのに対して、水上勉は臨済宗相国寺瑞春院の徒弟となり、高等教育を受けることができた。  本書にも記されているように、水上は立命館大学を中退した後、修行僧、膏薬の行商、満州開拓隊募集隊員など、様々な仕事を経験し「三一の職業を持つ男」と呼ばれている。彼は「昭和の貧乏物語」として『フライパンの歌』を書いたが、次作を10年以上も出すことができず、雑誌社・業界新聞社に勤務した後、洋服の行商を行っていた。「私が清張作品に初めて出会ったのは、まだ東武線の沿線で洋服の行商をしていた頃でした。足利駅の売店で『点と線』を買ったんです」(「清張さん、ちょっといい話」)と水上勉は、井上ひさしとの対談で述べている。一度、文学から遠ざかった水上勉は、清張作品を読み、推理小説家として復活することを決意する。  「清張さんは『点と線』以降、『ゼロの焦点』や『時間の習俗』など長篇推理小説でベストセラー作家になってゆかれるわけですが、文学性のあるものとしてはむしろ短篇でしょう」「私の場合は『詐者の舟板』(『カルネアデスの舟板』)とか、『甲府在番』『無宿人別帳』などの短編時代小説に打たれて勉強しました。この方法でもう一度小説を書いてみようと、闘志を沸き立たせられたんです。それで家族に『おれは明日から洋服を売りに行かない』と宣言して、三カ月かかって『霧と影』五百枚ほどの作品を書いた」(同上)という。日本共産党の「トラック部隊事件」を題材とした『霧と影』は、水上勉を流行作家へと押し上げた。  『松本清張と水上勉』の中で最も面白く読んだのは、松本清張と水上勉の「社会派」としての作風の違いを分析した一文である。「社会的動機を重視した清張に対して社会的背景を重視した水上、都会の中の日陰を舞台にすることが多かった清張に対して正真正銘の僻地や辺境を舞台とした水上、などもそうだが、社会の中の人間に注目した清張に対してあくまでも社会派らしく社会的事件(洞爺丸遭難とか)にこだわった水上、というちがいもある」と。藤井が指摘するように、松本清張と水上勉は、ともに私小説のような作品を記し、「社会派」の推理小説を記したという点で似ているが、「社会的動機」と「社会的背景」に対する重点の置き方が大きく異なる。確かに、松本清張は「社会的動機」について描写を深め、水上勉は「社会的背景」についてリアリティを高める傾向があった。  松本清張と水上勉の「文学的生涯」は、それ自体が文学作品のように面白い。『松本清張と水上勉』を読むと、2人が残した文学作品の幅の広さが、「日本型私小説への批判と克服」の軌跡だったことが分かる。2人の大作家は、異なる作風で「日本型私小説への批判と克服」を試み、『点と線』や『日本の黒い霧』、『雁の寺』や『飢餓海峡』など多様な名作を世に送り出したのである。(さかい・まこと=明治大学准教授・メディア文化論・ジャーナリズム論・文芸批評)  ★ふじい・ひでただ=立教大学名誉教授・近現代日本文学・文化。著書に『「東京文学散歩」を歩く』『水上勉 文学・思想・人生』『乱歩とモダン東京』『純愛の精神誌』『清張 闘う作家』『漱石文学全注釈――こころ』『名作がくれた勇気』など。一九五〇年生。

書籍

書籍名 松本清張と水上勉
ISBN13 9784480018311
ISBN10 448001831X