ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 405
ゴダール映画に見るスピルバーグ批判
JD アメリカ映画を作るためには、探索すべき未知の土地が必要となります。結局のところ、アメリカ人はアメリカを探索し尽くした後は、ヨーロッパに手を伸ばし、さらにはアジアやロシアにまで至っている。それがアメリカ映画の歴史が辿ってきた、あまり注目されていない一面です。今日では、トム・クルーズが世界中を飛び回っていますが、それはアメリカ映画――正確にはハリウッド映画のことです――の根本的な運動と結びついているのです。そして『ミッション・イン・ポッシブル』のようにして、世界を表面的に侵略し舞台にした後には、新たに行くべきところを見つけ出さなければいけません。それは宇宙であるかもしれませんし、これはまた歴史に関して言えることでもあります。
アメリカは、歴史のない国です。映画史の初めにおいては、西部劇は頻繁にアメリカの起源とも結びついていました。つまり、独立戦争やリンカーンについての史劇が、巨匠たちの関心を集めてもいたのです。しかし今日、そうしたテーマがアメリカ映画の中心になることはありません。国家の起源に関心を持つ映画作家は、スピルバーグだけです。ただ彼自身は、なぜリンカーンやノルマンディー上陸作戦についての映画を作ったのか、自分自身でもよく理解できていないと思います。
ゴダールは『愛の世紀』の中で、スピルバーグを非難していました。アメリカ人プロデューサーが、フランスのレジスタンスの伝記映画を作ろうとして、ブルターニュの元レジスタンスの家を訪れるシーンがあります。そのシーンは、物語の終盤であり、映画全体に関わる重要なシーンでした。レジスタンス夫婦には一人の娘がいて、映画の前半部はその女性にまつわるものであったからです。つまり、映画の後半部は、前半部のフラッシュバックのようなものとなっていました。そんなふうにして映画全体が二つの部分に分かれているのと同時に、映像自体も前半部は映画のカメラによる撮影がなされており、後半部はデジタルビデオでの撮影がなされていて、非常に興味深いものとなっています。しかしそうした話は、スピルバーグの問題とは関係ないので、ここでは忘れましょう。
話を戻すと、そのレジスタンス夫婦とのやり取りのシーンにおいて、回想録の映画化権を買い取ろうとするアメリカ人プロデューサーに、娘は拒否の態度を示します。「アメリカとはどのアメリカのことだ」とか「アメリカ人は何でもかんでも買い取れると勘違いしている」といった趣旨のことを言うのです。その言い分は――私の見方では――ゴダール自身の意見の表出です。私も賛同します。さらに付け加えるなら、そこにスピルバーグの問題も表れているのです。『愛の世紀』において、レジスタンスの映画を買い取ろうとしていたのは「スピルバーグ・コーポレーション」と名付けられた制作会社でした。あの映画を見ていると、私の言おうとすることをゴダールもよくわかっていたのだと思います。つまり、スピルバーグの問題は、アメリカ映画に根付いていながらも、「アメリカ」を喪失してしまっているということなのです。
HK その問題も、「作家主義」や「国家」「社会」「生」などの問題と関わりがあるのではないでしょうか。つまり、ある時点から、映画と歴史の関わりが絶たれてしまったことと関わりがある。映画史に基づき映画を作る人はたくさんいます。ヴェンダースやタランティーノなどが代表格です。しかし「歴史」そのものと関わりのある映画を作る人は、ほとんどいなくなっています。台湾のヌーヴェルヴァーグなどは、歴史に関わる映画を作る運動の一部を成していたと思います。ヴェンダースはある時点で、自らの映画における「歴史」の欠如に気付いた気がします。おおよそドイツの壁が崩壊したあたりから、映画史の外に出ようとしている印象を受けます。
JD しかし彼の試みは上手くいっていない。スノッブな映画を作り続けています。台湾のヌーヴェルヴァーグについては、あなたの意見に同意します。〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)