2025/05/02号

戦艦大和の歴史社会学:軍事技術と日本の自画像

 これまで言語や文化などに依拠しつつナショナリズムとは何かが多様に論じられてきているが、本書は軍事技術に焦点をあてた独創的な研究だ。著者は「自国の科学技術開発やその所産を拠り所としてナショナルな共同体のアイデンティティを構築していくような活動」を「テクノ・ナショナリズム」と定義し、旧日本軍の軍事技術特に戦艦を建造する技術に焦点をあて、明治期から現在にいたるまでの日本の「テクノ・ナショナリズム」の変遷を明らかにしている。そして拠り所の象徴がまさに戦艦大和なのだ。  日本海軍が刊行していた軍事雑誌を渉猟し、そこに書かれている技術言説、観艦式や国防博覧会など軍事技術が展覧される場についての語り、戦時体制における科学技術振興をめぐる語りが読み解かれていく。明治期以降、日本海軍が実際に戦艦を建造していた時期、いかにして「自国の軍事技術や技術的所産としての戦艦」がナショナル・アイデンティティの拠り所となるような価値観が生成されていったのか。また戦艦が単なる兵器という枠組みを超えて国家的記念物(=国家的記憶のコメモレーション)として認識されるようになったのか。さらに戦後の軍事雑誌『丸』等を渉猟し、軍事機密であった戦艦大和が終戦後私たちに広く知られ、「自国の科学的技術力を象徴する存在」として認識されるようになったのか。高度成長期に「大和=科学技術立国の礎」論が見られ、戦艦大和が象徴する旧海軍技術がどのように戦後日本の「テクノ・ナショナリズム」の構築と関連しているのか。『丸』では後景化していった「大和=科学技術立国の礎」論が、高度成長期が終焉した一九八〇年代末自信を失いつつあった日本のビジネス論の文脈でなぜ復活し、戦艦大和が見いだされたのか。また二〇〇〇年代前半の論壇での「昭和史の総括」でいかに戦艦大和が語られてきたのか、等々が丁寧な言説分析から明らかになっていく。  広島に住んでいることもあるのか、私が面白いと感じたのは広島県呉市の「大和ミュージアム」の設立経緯を読み解いた章だ。博物館の理念や展示が変遷し、戦艦からタンカーへ変わったが造船都市としての呉の意味が発見されていく経緯、展示をめぐる戦争と科学技術とのせめぎあいなど、とても興味深かった。今後〝戦争〟がそれぞれの地域でどのように歴史資料として展示されていくのか。それを考えるうえでの「大和ミュージアム」の重要さを確認できた。  また一つ魅力的な歴史社会学、ナショナリズム研究の成果が生まれた。著者は「戦後日本において平和主義が基調とされながらも、同時に世界有数の軍事技術開発・兵器生産が行われてきた実態を解明するためには、その基盤となる人々の意識や思想・信念の問題についても照明を当てていく必要」があり、「旧軍技術のみならず現在的な自衛隊の防衛技術まで研究範囲を拡大して分析を進めること」を「今後必須の作業」としている。  確かにその通りだろうと思う。ただ、本書を読み、著者の分析や読み解きの鋭さに面白いなと納得しながらも、ずっと頭から離れなかった問いを最後に述べておきたい。  それは、なぜそこまで旧日本軍さらにいえば日本という国家は〝自前の技術〟〝自前の兵器〟さらに〝自前の技術で世界最大の兵器〟を作り上げることにこだわり続けたのだろうか、という問いだ。確かに日本は、明治以降太平洋戦争で敗戦するまで〝戦争することで体制を維持してきた国家〟であったことに間違いはないだろう。そうした国家では兵器製造はそれ自体問う必要がない前提といえるかもしれない。現代においても核兵器を開発し製造し保有することで〝敵から侵略されない体制〟を維持しようとしている国家も存在する。こうした現在において著者の言う「テクノ・ナショナリズム」はどのようなものであり、いかにして探究できるのだろうか。今後の研究進展が楽しみだ。(よしい・ひろあき=摂南大学現代社会学部特任教授・社会学・エスノメソドロジー)  ★つかはら・まりか=立命館アジア・日本研究機構専門研究員・歴史社会学・メディア史。戦争とナショナリズムを中心テーマに、戦後日本の防衛産業と軍事技術開発、企業論理と平和社会の相関関係について研究。