<昭和・平成の巨魁が見続けてきたもの>
寄稿=安井 浩一郎
渡辺恒雄氏没後一年/『独占告白 渡辺恒雄 平成編』(新潮社)刊行を機に
渡辺恒雄氏(読売新聞グループ本社代表取締役主筆)が昨年一二月に亡くなって、まもなく一年を迎える。
このたび、安井浩一郎著『独占告白 渡辺恒雄 平成編 日本への遺言』(新潮社)が刊行された。NHKで放映された渡辺氏へのロングインタビューを元に大幅加筆した内容で、二〇二三年刊行の昭和編にあたる『独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』(同)の続編でもある。
本書刊行を機に、著者でNHK大阪放送局報道番組チーフ・プロデューサーの安井氏に、渡辺氏の没後一年に合わせて寄稿いただいた。(編集部)
「戦後政治最後の証言者」と呼ばれた渡辺恒雄氏の突然の訃報から、間もなく一年になる。二〇二四年一二月一九日、読売新聞の主筆を四〇年にわたって務め、〝メディア王〟〝球界のドン〟〝昭和の巨魁〟〝最後の独裁者〟などの異名を取った渡辺氏が死去した。九八歳だった。戦後八〇年・昭和一〇〇年の節目となる二〇二五年を間近に控えた時期の渡辺氏の死去は、一つの時代の終焉を感じさせるものだった。
名だたる大物政治家の懐深くに入り込み、辣腕記者としてその名を馳せてきた渡辺氏は、吉田茂首相の総理番記者を振り出しに、七〇年以上にわたって政治の虚々実々、そして権力の栄枯盛衰をその目に焼き付けてきた。渡辺氏は有力政治家との昵懇な関係を背景に、「取材者」としての枠にとどまらず、幾多の政局や総理大臣誕生に深く関与し続けた「当事者」でもあった。まさに「巨星墜つ」とでも言うべき渡辺氏死去の報に、政財界・球界など各方面から悼む声が相次いだ。
そして訃報の約二ヶ月後の今年二月二五日、東京・内幸町の帝国ホテルで渡辺氏のお別れの会が開催された。会には現職総理大臣の石破茂氏をはじめ、森喜朗氏、野田佳彦氏、菅義偉氏、岸田文雄氏ら歴代首相経験者、前日本銀行総裁の黒田東彦氏、元巨人軍監督の長嶋茂雄氏、王貞治氏ら、各界を代表する人物が参列し、別れを告げた。この約八ヶ月後に初の女性総理大臣に就任する高市早苗氏の姿もあった。参列者は四〇〇〇人近くに上った。私も生前の渡辺氏にインタビュー取材を行い、その証言を元に戦後史の舞台裏を辿る番組を制作した縁で会に招待を受け、参列した。
会場の祭壇周りでは常時、渡辺氏が生前に選曲したクラシック音楽が流れていた。渡辺氏は自らの葬儀を無宗教の音楽葬とすることを遺言していたのだ。流れている曲の中には、チャイコフスキーの大作、交響曲第六番「悲愴」もあった。戦時中の一九四五年、軍隊に召集された一九歳の渡辺氏が、入隊前夜に死を覚悟しながら聴いたという曲である。私はこの曲を聴きながら、死が迫り来る悲痛な思いを戦争への嫌悪と共に語る表情や息遣い、そして記者として目撃した戦後政治の舞台裏の赤裸々な証言など、生前の渡辺氏の姿や言葉を思い浮かべつつ、祭壇に白いカーネーションを手向けて瞑目した。
私たちNHK取材班は、断続的に二年近くに及んだ交渉の末、生前の渡辺氏のロングインタビューを映像メディアとして初めて実現することができた。複数回にわたる異例のロングインタビューで渡辺氏は、青少年時代から現下の政治状況に至るまで、自らの半生を縦横無尽に語り尽くした。私たちはその証言を元に、二〇二〇年から翌年にかけて、BS1スペシャル「独占告白 渡辺恒雄 ~戦後政治はこうして作られた 昭和編」、NHKスペシャル「渡辺恒雄 戦争と政治~戦後日本の自画像~」、BS1スペシャル「独占告白渡辺恒雄 ~戦後政治はこうして作られた 平成編~」と三本の長尺番組を制作した。
番組の前編となる「昭和編」を元にした拙著『独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』では、渡辺氏の生々しい証言の数々から、昭和期の政治の「裏面史」を繙いた。結党以来の自民党内の熾烈な派閥抗争、反故にされた〝幻の総理大臣禅譲密約書〟、日韓国交正常化交渉での水面下での駆け引き、沖縄返還をめぐる〝密約〟、盟友の中曽根康弘氏が総理大臣の座を手中にするまでの二人三脚、嫉妬やコンプレックスなどの人間感情によって動いてきた政治の実情……。渡辺氏の証言から、知られざる昭和期の政治の別断面が浮かび上がってきた。
そして番組後編を元にした本書の舞台は、「平成」という時代である。戦後日本が「所与」としてきた東西冷戦、右肩上がりの経済成長、五五年体制という三つの前提の崩壊過程と共に幕を開けた平成という時代は、まさに激動の三一年であった。平成の幕開けは、渡辺氏が読売新聞社のトップに上り詰めた時期と軌を一にするものだった。一九九一年に社長に就任した渡辺氏は平成期、その絶大な影響力を背景に昭和の時代を超えるスケールで時代の転換点に深く関与し、その一挙一動は日本社会に大きな影響を与えた。本書では、主に三つの側面から平成期の渡辺氏を描いていく。
第一に「政治の当事者」としての生々しい動きである。昭和期から当事者として政治の舞台裏に深く関与していた渡辺氏だったが、平成期に入るとその働きかけは局所的な政治攻防にとどまらず、時に政権の枠組みにまで及んだ。例えば、一九九九年の自民党と自由党との「自自連立」、そして二〇〇七年に実現寸前まで漕ぎ着けた自民党と当時の最大野党・民主党との「大連立」など、渡辺氏の水面下の動きが鍵を握った局面は枚挙に暇がない。平成期の渡辺氏は歴代総理大臣の〝指南役〟的存在として、時に助言を授け、時に言論で対峙した。渡辺氏は政治の転換点でどう動き、何を目指していたのか。平成政治の別断面がその証言から明かされた。
第二に、「球団経営者」としての側面である。平成期の渡辺氏は、新聞記者・経営者としての顔に加え、球界の盟主・読売巨人軍オーナーというもう一つの相貌を併せ持った。時に物議を醸すこともあった言動で、〝球界のドン〟としての強烈なイメージが人口に膾炙していった。渡辺氏を新聞人としてではなく、球団経営者として想起する方も多いのではないだろうか。そして二〇〇四年に勃発した一リーグ制への球界再編問題の怒濤の渦の中心にいたのも渡辺氏だった。その過程での「たかが選手」発言など、渡辺氏の強烈な個性と奔放な発言は時に波紋を呼び、球界の行方に大きな影響を与えた。
第三に「言論人」としての側面である。渡辺氏の言論活動は、平成期にさらに積極性を増していった。とりわけ力を入れたのが「提言報道」である。主筆として日本最大の発行部数を誇る新聞社の社論を主導した渡辺氏は、安全保障、行政改革、経済、社会保障など、様々な分野で「客観報道」にとどまらない「提言報道」を打ち出していった。そして三度にわたり、新聞紙上で憲法改正試案を発表する。一方で自らも戦争体験を持つ渡辺氏は、総理大臣の靖国神社参拝に反対し、戦争指導者の戦争責任を検証する大型連載を主導するなど、戦争を厳しく問い直す論調を平成期にさらに強めていった。
平成期における渡辺氏は、メディアによって増幅されたイメージも相俟って、「虚像」が独り歩きしている感が否めない。ただ平成期は昭和期に比べて存命の関係者が多く、その数々の証言から、知られざる渡辺氏の「実像」が立体的に浮かび上がってきた。
右肩上がりの昭和の時代から一転し、あらゆるシステムや価値観が揺らぐことになった平成という時代。日本は、冷戦終結や湾岸戦争勃発などの国際環境の激変、政治改革と小選挙区制導入による政治の変質、「失われた三〇年」とも言われる経済の長期低迷、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件などに象徴される安全神話の崩壊、未曾有の被害をもたらした東日本大震災と福島第一原子力発電所事故など、時代の変化や大災害による荒波に直面し続けた。そして新たな社会の形を展望できないまま、令和という時代は始まった。
現在、日本政治は大きな転換点にある。与党が衆参両院で過半数割れの状態となる「少数与党」の状況下で、自民党の一党優位体制が揺らいでいる。そして公明党の連立離脱や、自民党と日本維新の会による連立政権発足など、連立の枠組みや与野党間の協力・対立関係は極めて流動化している。本格的な多党制時代が幕を開け、日本政治は一九五五年の保守合同による自民党結党以来の分岐点に立っているとの指摘もある。
こうした「海図なき時代」を私たちはどう進んでいくべきなのか。戦後八〇年・昭和一〇〇年を迎えたいま、時代の激動を見つめ続けてきた渡辺恒雄氏の証言から、平成という時代を問い直し、私たちが生きる時代の座標軸と未来を展望していきたい。 (おわり)
渡辺 恒雄(わたなべ・つねお)(一九二六―二〇二四)=読売新聞グループ本社代表取締役主筆。一九五〇年、読売新聞社入社。ワシントン支局長、編集局総務兼政治部長、専務取締役主筆兼論説委員長などを経て、九一年に代表取締役社長・主筆に就任。二〇〇二年の持ち株会社制移行に伴い、グループ本社代表取締役社長・主筆に。〇四年から一六年まで読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆を務めた。著書に『派閥』など。
★やすい・こういちろう=NHK大阪放送局報道番組チーフ・プロデューサー。戦後史や政治分野を中心に、主にNHKスペシャルなどの報道番組を制作。著書に『吉田茂と岸信介 自民党・保守二大潮流の系譜』『独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』など。一九八〇年生。
書籍
| 書籍名 | 独占告白 渡辺恒雄 平成編 |
| ISBN13 | 9784103548812 |
| ISBN10 | 4103548819 |
