2025/09/19号 8面

追悼・福田善之(菅孝行)

追悼=福田 善之 完成を拒み、〈草莽〉をめざし… 菅 孝行  福田善之氏が八月二十一日に亡くなった。九十三歳だったが、執筆の意欲と力量は最晩年まで衰えず、常に失敗を恐れず自己模倣を拒んで新作に挑んだ。昨年エッセー集『あの空は青いか』と戯曲集『文明開化四ツ谷怪談』(三一書房)が刊行されたばかりだった。  第一作は二十一歳のとき、富士山麓の反基地闘争(の敗北)を、高校の後輩ふじたあさやと共作した『富士山麓』である。出来栄えは二十歳前後の学生が書いたとはとても思えぬほど間然するところがない。しかし、不毛だった火炎瓶闘争や山村工作隊の根拠とされた共産党の「五全協綱領に忠実に書いた」この作品を福田はのちに著作目録から抹殺した。  だから〈劇作家〉としての出発は、戦闘的自由主義者河合栄治郎が東大経済学部教授の地位を剝奪された平賀粛学事件を扱った『長い墓標の列』というべきだろう。福田は麻布中学の親しい先輩だった、河合栄治郎の長男河合武の誘いで、長い期間、河合家の私設奨学生(居候)となっていた時期があったため、河合栄治郎の資料は誰よりも豊富であったという。  それから十年、モリアンヌの『祖国に反逆する』(三一新書)に想を得て、フランス人青年がアルジェリア解放闘争に共産党の方針に逆らって身を投じるまでを描いた『遠くまで行くんだ』、大坂の陣を描いた講談に六十年安保闘争の「前衛」不信を重ねた〈歌入り芝居〉『真田風雲録』、自由民権の壮士芝居で一世を風靡しながら、一転して日清戦争賛美劇で大当たりを取った川上音二郎とその弟子の愛憎を描いた『オッペケペ』、義賊「袴垂れ」にあこがれて旅する「ニセ袴垂れ」の一党が、世直しと無縁なホンモノの残虐さと冷酷さに遭遇して幻滅し、ホンモノを殺した血の穢れを背負って世直しの旅を続ける、という、政治的含蓄に溢れた寓話劇『袴垂れはどこだ』、幸徳秋水と管野スガの、愛と大逆の幻想を描く『魔女伝説』と、立て続けに話題作を発表し続けた。その方法的斬新さは戦後新劇の枠を遥かに超えていた。  そこには六十年代という闘いの時代の〈時の利〉があり、劇団青年芸術劇場を中心とした〈人の輪〉があった。福田は観世栄夫、林光、朝倉摂、立木定彦といった人々に支えられた。千田是也が新劇の大御所でありながら福田善之を支援し、福田を反党的とする批判に対して擁護した。それらが相俟って共産党からの、激しい批判を乗り越えて福田戯曲は、とくに若い世代に支持を広げた。福田善之なくして、状況劇場、自由劇場など、新劇と対決する六十年代演劇(俗称アングラ)の少なからざる部分は存在しえなかっただろう。  『遠くまで行くんだ』上演の直後、自由劇場という劇団(佐藤信たちの自由劇場とは全く別)を主宰する程島武夫という演出家が福田氏に依頼した新作『ブルースをうたえ』(『現代日本戯曲体系8』所収)を共作させてもらった。六〇年安保の新左翼系学生運動を正面から描くことを試みた。光栄な経験だった。拙作『ヴァカンス』(三一書房)も福田氏の助言なしには完成しなかった。私が碌な劇作家になれなかったので大声ではいえないが、福田善之は筆者の〈師匠〉である。劇作に無芸だった不肖の弟子としては、存命中にせめて長大な福田善之論を書いて献上したかった。叶わなかったのは痛恨である。  耳にこびりついているのは「君はジャックのままで芝居を書こうとしているが、アントワーヌの目線に立たないと書けないよ」という忠告だ。アントワーヌとジャックとは、ともにM・デュ・ガールの大河小説『チボー家の人々』の登場人物である。弟のジャックは保守的なチボー家に激しく反逆して少年院に送られ、長じて左翼の活動家になる。反戦ビラを撒く任務を帯びて飛行機に乗るが、第一次大戦当時の技術的に未熟な飛行機が墜落して死を遂げる。兄は医師になるが、戦場で毒ガスに冒され命旦夕に迫っている。アントワーヌは冷徹な眼差しで考察したノートを遺した。大切なのはその眼だというのだ。  福田善之は芸術家として世界と独りで立ち向かっているが、この闘いは、政治的な場から己を第三者(アントワーヌの目)の位置に召還しなければ成立しない、劇作家が浮足立って前のめりに政治的正義を振りかざしても駄目なのだ、とこの忠告に悟らされた。  『真田風雲録』は、東映で加藤泰監督、中村錦之助主演(佐助)で映画化された。お霧(霧隠才蔵)は舞台と同じ渡辺美佐子が演じた。東映に入社したての私は、加藤組に四番目の助手として着いた。加藤監督は政治についてはオンチだったが、権力に抑圧される足軽・浪人・百姓の苦渋に並々ならぬ共感を寄せていた。監督は粘りに粘って映画を作った。社内の保守派から「左翼映画」とみなされて、当時の二本立て興行システムの下、とんでもなく不適合な併映作品と組み合わされたため、封切り時は散々な不入りで早々に上映中止になった。しかし、六〇年代末から七〇年代初頭、映画『真田風雲録』は多くの大学の学園祭で人気を博し、舞台の客の比ではない数の支持者を得た。♪織田信長の謡いけり、人間わずか五〇年、に始まる、福田善之作詞・林光作曲の劇中歌「真田隊マーチ」は、六〇年代新左翼学生運動家たちの(一部で)応援歌となった。  七〇年代に入ると、六〇年代演劇派との複雑な確執もあって、福田は清川虹子や沢竜二との「大衆演劇」での共同作業、糸あやつりの結城座(十一代孫三郎)での数々の実験、新宿コマ劇場で大当たりを続けた榊原郁恵主演のミュージカル『ピーターパン』の演出など、新劇ともアングラとも一見全く異なるジャンルに力を注いだ。  その時期を含めて福田が生涯貫いたのは、一つは、スベスベした〈完成〉を拒んで自作に常にノイズを挿し挟む精神、もう一つは、自ら〈草莽〉たらんとすることへの、強靭な覚悟、三つめは、他者の〈分からなさ〉こそ、その人の自由の発現だとする立場ではなかっただろうか。それらは、自身が焼跡に見た自由と孤独と飢餓の記憶に支えられていた。この原則は『白樺の林に友が消えた』、『れすとらん自由亭』、『希望』、『幻燈辻馬車』、『壁の中の妖精』、『私の下町』シリーズなどを経て『颶風のあと』、『虎よ、虎よ』、『文明開化四ツ谷怪談』に至るまで一貫している。  観世栄夫、林光ら長年の同志が亡くなり、木山潔も世を去って、福田戯曲の、晩年の新作の上演の環境は必ずしも作家の器に見合ったものとはいえなくなった。しかし、福田は気概と矜持を失うことはなかった。八十八歳で書いた『京河原町四条上ル近江屋二階――夢、幕末青年の。』の筆致には、若者の〈客気〉とでもいうべきものが漲っている。  今私の脳裡には名女優渡辺美佐子が演じた、音二郎の妻お芳の台詞が浮かんで去らない。  「なんか―みんな―ぜんぶ―すごく、ちがっちゃってるじゃない―ちがって来ちゃってるじゃない―おかしいじゃない―」  六十二年前に書かれた台詞である。今や眼前に広がる荒涼たる風景の、思い描いた未来への希望からの懸隔は六十二年前の比ではない。福田善之は、この限りなく「ちがって」しまった〈今〉をどこまで見通していたのだろうか。(かん・たかゆき=評論家)  福田 善之氏(ふくだ・よしゆき/本名鴻巣泰三=劇作家・演出家)八月二一日、肺炎のため死去した。九三歳。  一九三一年東京生まれ。東京大学卒業後、新聞記者を経て演劇活動に入る。一九五七年『長い墓標の列』を発表後、能楽師の観世栄夫らと青年芸術劇場を結成。六二年初演の「真田風雲録」はラジオやテレビのドラマ、映画化もされた。七六年にはNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』の脚本を手がける。ミュージカル作品では九三年に『壁の中の妖精』『幻燈辻馬車』で紀伊國屋演劇賞個人賞、九五年に『私の下町――母の写真』で読売文学賞、『壁の中の妖精』は九九年に読売演劇賞優秀演出家賞、二〇〇〇年斉田喬戯曲賞。二〇〇一年、紫綬褒章を受章している。