ロシア大統領権力の制度分析
長谷川 雄之著
名越 健郎
本書は、ロシアの独裁権力を握るプーチン大統領周辺の権力機構がどう組織的に運営されているかを膨大な資料調査と緻密な分析で浮き彫りにした。従来のロシア政治研究は、最高指導者の政策や思考、性格などに重点が置かれたが、大統領を支えるクレムリン諸機関の権限や人事、歴史的推移など制度的側面に着目した本書は先駆的研究と言える。
本書は博士論文を再構成しており、多くの図表や資料を駆使して大統領府の官僚機構を立体的に紹介し、大統領権力の実態に迫った労作だ。「超大統領制」といわれるプーチン体制の研究に新しい視点を提供している。
晩年、プーチンに関する分厚い四冊本を上梓した故木村汎・北海道大学名誉教授はプーチンの統治手法について、「人治主義」「手動政治」といった表現を使い、プーチノロジー(プーチン学)の必要性を提起した。
ただ、いかに強大な指導者がいても、政治の「制度化」の条件が整っていないと統治は機能しない。わが国ではこれまでに数十冊のプーチン本が出版されたが、プーチン体制の制度面からのアプローチでは本書が画期的だ。
この点では著者も、「プーチンがいかに強力な権力を有していても、国家の統治には、官僚機構に対する統制とその効果的な管理・運営が欠かせない」とし、統治の中核となる安全保障会議と大統領府の二大組織の実態解明に力点を置いている。
安保会議は最高意思決定機関で、二〇二四年二月のウクライナ侵攻直前の全体会議で参加者が一人ずつ意見を述べ、それがテレビ中継されて劇場型議論が注目された。ソ連時代末期に同名の組織が設置され、新生ロシアでも国家機関として活動。プーチン体制下で機能を強化し、特に外交安保政策の立案・決定で重要な役割を果たすようになった。
本書によれば、安保会議の軍事・治安機能が強化されたのは二〇〇四年で、情報機関トップが常任委員に昇格し、議会・政府間の調整機能が付与された。〇四年には、バルト三国など七カ国のNATO加盟、チェチェン独立派の大型テロ、ウクライナのオレンジ革命が起こり、プーチン体制は愛国主義、反米主義へと大きく舵を切る転機の年だった。著者は、これを機に政局の安定とともに、人事の「固定化」「高齢化」が進んだとしている。
安保会議の重要な任務は、外交・軍事戦略の根幹となる「国家安全保障戦略」の策定で、本書では、戦略文書が毎回の改定を経て、リベラリズムの敵視、伝統的価値観の重視、保守愛国主義条項の拡大へと変遷した経緯が描かれる。
安保会議の議長は大統領だが、書記が会議を牛耳っており、〇八年から十六年間書記を務めたのがパトルシェフだ。著者はプーチンのKGB時代の同僚で信頼が厚いパトルシェフがタンデム時代、「メドベージェフ大統領とプーチン首相の間で総合的な調整機能を果たした」とみている。パトルシェフは実力組織の調整役を務め、安保会議を米国のNSC(国家安全保障会議)型に編成するなど、ナンバー2の役回りだった。
一方で、安保会議常任委員の平均年齢は、一二年の五十七歳から二四年には六十七歳に到達した。プーチン体制の長期化で、人事が停滞し、硬直化していることが分かる。二四年からの第三次プーチン政権では、安保会議は三十五名(常任委員十三名、非常任委員二十二人)という大所帯になった。二〇年に若干の改編があり、メドベージェフ前首相が安保会議副議長に転出したが、副議長と書記の権限に関する分析も興味深い。
大統領府の構造、権限に関する分析も本書の特徴だ。大統領府もロシア共和国時代の大統領府を前身とするが、二三年の大統領府の職員数は二千五百六十五人で、うち六百人強が地方にある連邦管区大統領全権代表部に勤務していることは初めて知った。
一六年に内務省軍が大統領直轄の国家親衛隊に再編され、ボディーガード出身のゾロトフが初代長官になるなど、大統領権力が大幅に強化された。著者は、「クレムリンは国家官僚機構全体の統制に相当なリソースを割いている」とみており、プーチンを支える官僚機構も盤石のようだ。ただし、内部部局の増強が、所管事項の重複や部門間対立を招く恐れもあるという。
ウクライナ戦争下でのクレムリンの権力機構分析もすぐれている。著者は、侵攻直後に権力の周縁部から不満や離反が出たものの、「シロヴィキ勢力のみならず、経済・財政畠の中核的な国家官僚は体制内に残り、テクノクラートの存在感の高まりと政治エリートの凝集性は維持された」としている。体制護持へエリートが結集したということだ。
二三年六月、民間軍事会社ワグネルを率いる「プリゴージンの乱」が起きたが、著者は事件処理の過程で、大統領の身辺警護を担うFSO(連邦警護庁)の「影響力伸長」に注目している。KGBから分離したFSOは、「体制維持装置として存在感を発揮している」という。
国家親衛隊長官を務めるゾロトフやワグネルの反乱収拾に貢献したデューミン補佐官らはFSO出身で、ウクライナ戦争を通じて主要アクターに浮上。クレムリンへの影響力を巡って、他の情報機関高官らと対立関係にあるとされる。実力機関内の主導権争いも今後の注目点の一つだ。
著者によれば、戦時下でも国家官僚の世代交代と人材育成システムは機能しており、二四年の第三次プーチン政権の閣僚人事にそれがみられた。新内閣人事は「世襲」「縁故主義」だけでなく、実力主義の側面も持ち合わせているという。
こうした強固な大統領権力により、独裁者の後も「プーチンなきプーチン路線」が続くのかどうか、このあたりの展望にも言及がほしかった。(なごし・けんろう=拓殖大学海外事情研究所客員教授・ジャーナリスト)
★はせがわ・たけゆき=防衛省防衛研究所地域研究部主任研究官・現代ロシア政治研究・ロシア地域研究。共著に『現代ロシア政治』など。一九八八年生。
書籍
書籍名 | ロシア大統領権力の制度分析 |
ISBN13 | 9784766430080 |
ISBN10 | 4766430085 |