2025/08/22号 4面

浅利慶太

浅利慶太 菅 孝行著 武田 寿恵  浅利慶太がこの世を去って、七年の時が過ぎた。一九三三年生まれで、享年八五歳。彼が慶應義塾大学在学中の一九五三年に創設した劇団四季は、今では『ライオンキング』や『アラジン』などのディズニー・ミュージカルの輸入上演によって、広く世間に認知されている。しかし劇団の発足当初、浅利が戦後の演劇界を痛烈に批判したことや、劇団四季がもともとジャン・ジロドゥやジャン・アヌイなどの反リアリズム系フランス現代劇を上演する新劇団体だったことは、一般にはほとんど知られていない。いったい、彼は何者だったのか。新劇に挑戦状を叩きつけた異端児か。日本のみならず海外でも高い評価を受けた屈指の演出家か。それとも、政界や財界と巧みに結びつき、ショー・ビジネスの頂点に立った稀代の経営者か。本書が書き起こそうとするのは、一方からは称賛され、また一方からはのけ者にされた演劇人・浅利慶太の「栄光と修羅」だ。  本書は劇団四季発足以前の学生演劇時代から始まり、ミュージカルへの転向とその成功、劇団四季を離れた晩年の活動まで、浅利の演劇史を網羅する。著者の菅孝行は評論家、劇作家であり、ラディカルな運動に携わってきた人物でもある。本書には、かつて左翼運動に身を投じていた浅利への共鳴、少年時代に観た初期劇団四季への心酔、「メルヒェン」なミュージカル作品ばかり上演するようになった変貌への幻滅、浅利の政商的振る舞いへの強い抵抗感といった、菅の複雑な感情が絡みつく。それでも菅は、「演劇と演劇史を問題にするのであれば、演劇の業績の評価と政治的立ち居振る舞いへの抵抗感を峻別して見る目が必要だ」(二八〇頁)と述べ、最後まで浅利に寄り添おうとする。  浅利が慶應高校の演劇部に所属していた一九四九年から五一年、米軍の占領下にあった日本は反米闘争の渦中にあった。浅利も左翼運動に傾倒し、慶應義塾大学に進学した一九五二年には、あの「血のメーデー」のデモにも参加していたという。ところが、一九五三年に共産党が武装闘争路線を否定すると、浅利は一転して左翼運動から離脱。同年七月に劇団四季を結成する。本書の第二章「『既成劇壇』の神話と浅利慶太の視野」では、浅利が一九五五年に『三田文学』に寄稿した「演劇の回復のために」の分析が試みられている。左翼の影響を受けた既存の新劇(既成劇壇)における社会主義リアリズムと商業主義を批判したこのマニュフェストを、菅は浅利による「戦闘開始宣言」(五九頁)だと称する。そして、浅利の主張にはある誤認があったと指摘しながらも、そうした誤認を引き起こした要因を当時の演劇界の欺瞞に見出していく。浅利は既成劇壇を否定したが、上演作品からみても初期劇団四季は「反権力」の団体に違いなかった。後にミュージカル上演が成功をおさめ、リアリズム演劇や商業主義、権力への敵意を失った浅利には、左翼への憎しみだけが残る。だが、既成の左翼に反発し、別の道から権力に対抗することを選んだ著者の菅孝行と、若き日の浅利慶太には確かに共通点があった。  第六章「前人未到の成功と〈悲劇〉」で菅は、ディズニー・ミュージカルの成功によるビジネスの巨大化が、逆に劇団の経営方針に制約を与えたことを嘆くが、同時に、日本語の語りのメソッドを確立し、俳優たちが舞台だけで食べていける経営を実現した劇団四季を「プロフェッショナル」として是認する。そして、「浅利を否認するこの国の『プロ』たちはご都合主義で、根本のところで自身が『プロ』であることを捨てている。(中略)そして、『プロゆえの公共助成』にありつけるときには、プロだと自認することを恥じない」(二八二頁)と述べ、この国の演劇界を痛烈に非難するのだ。  浅利慶太と劇団四季の歴史を通して、演劇界に「あなたがたはプロなのかアマチュアなのか」(二八三頁)と問いかける本書は、菅孝行にとっての「演劇の回復のために」(演劇界への戦闘開始宣言)なのかもしれない。(たけだ・としえ=明治大学兼任講師・演劇学)  ★かん・たかゆき=評論家・劇作家。著書に『ことにおいて後悔せず戦後史としての自伝』『演劇で〈世界〉を変える 鈴木忠志論』『戦う演劇人 戦後演劇の思想』など。一九三九年生。

書籍

書籍名 浅利慶太
ISBN13 9784087213669
ISBN10 4087213668