2025/05/16号 5面

在日朝鮮人文学論

在日朝鮮人文学論 黒古 一夫著 竹内 栄美子  本書序章の「在日朝鮮人文学の現在(一九八七年)」は、李恢成が代表だった『民涛』創刊号(一九八七年十一月)に掲載された論考である。評者は一九九〇年の10号まで刊行された季刊雑誌『民涛』全号を現在も架蔵し刊行当時を印象深く記憶している。創刊の年には韓国民主化宣言がなされ、翌年がソウルオリンピックだった。親しくしていた友人が「ソウルの民主化を見るため88オリンピックに必ず行く」と言っていた。その一方で、日本はバブル経済の時期であり、一九八〇年代は軽やかに表層を疾走するポストモダン的変容が取り沙汰されていた。『民涛』の創刊は、そのようなバブル的現象とは一線を画していたが、本書の基本構図も『民涛』同様にポストモダンの対極にある。  序章において著者が述べる「在日朝鮮人文学の現在」とは執筆時の一九八七年のことである。李良枝から始まる本論では、李良枝や李起昇ら在日第三世代(在日三世ではない)の文学は、一世の金達寿や金石範や金時鐘、二世の李恢成や金鶴泳の作品とは異なって、差別を温存する「日本」に対して戦うことなく、日本現代文学の島田雅彦や小林恭二や村上春樹らによる「内部の空虚感」と馴れ合う文学テーマに照応しているという。在日三世の文学はアイデンティティーの探求をテーマとした民族と自己の位置づけに苦悩する優れた作品が多いと評者は思うけれども、著者の主眼は一世や二世による民族や国家の問題が文学的テーマとして深化していたことを重視し、それ以後の文学が虚無的になり痩せ細っているという批判にあるようだ。それは、尹健次を論じた第一章において、崔洋一と宮崎学の対談「「在日」も文化も混在すればもっと面白くなる」(『論座』一九九八年八月号)に言及しつつ「クレオール(混在文化)」という耳に心地よく聞こえる言葉は植民地宗主国の文化人類学が生み出したものであり、それは「日本」へと溶解させて朝鮮の「民族」を無化してしまうのではないかという危機意識にも顕著に表れている。  近年、戦後文学史を見直す作業をおこなってきた著者の問題意識は明確で、先行する著書『「団塊世代」の文学』『「焼跡世代」の文学』『ヤマトを撃つ沖縄文学』に連なる本書もポストモダン的文脈への批判によって成り立っている。序章ではその構図を踏まえて、李恢成を中心とした「「見果てぬ夢」=自主的社会主義の実現に向けて」、金石範を中心とした「もう一つの〈見果てぬ夢=済州島解放〉」、金達寿と金鶴泳を中心とした「「分断」の悲劇」が論じられている。いまから四〇年近く前の論考だが、本書の特徴はこの序章に端的に現れていて、それは歴史修正主義やヘイトスピーチを批判する終章とも呼応しているだろう。  本書に収録されているのは、尹健次、金達寿、金鶴泳、金石範らを論じた論考のほか、深沢夏衣、金真須美、鷺沢萠、柳美里、黄英治ら現代の在日文学を論じたもの、そして補論として朝鮮人問題を書き続けた井上光晴と小林勝に関する論考である。どれも十全に論じられ意を尽くした論述には、前記した問題意識が通底している。なかでも「北」と「南」に分断されている祖国の現実と抜き差しならない関係にある自己の問題を追求した金鶴泳論(第五章)、ニヒリズムを克服して四・三事件を描き続けた金石範『火山島』の李芳根にみる「精神の自由」の考察と、「豚になっても生き延びたい」とする南承之を描いた続編まで含めて論じる第六章など、読み応えのある論述が目を引く。  これら金鶴泳論や金石範論は序章での議論に通じているが、第四章金達寿論は序章とは異なっているのが目を引いた。第四章は本書において最も分量がある書き下ろしだが、磯貝治良が述べるように金達寿は在日朝鮮人文学における「種をまいた文学者」「根を植える人」であった。その金達寿について、軍事政権下に故郷=韓国を訪問することを思想転回とは見ないで、祖国=朝鮮半島が分断しているがゆえに引き裂かれてしまう在日朝鮮人の悲劇を見ていた序章の論述とは異なり、第四章では『故国まで』を参照しつつ韓国民主化に対するいかなるビジョンも描けなかったという金達寿の限界が言われており、この評価の変化が気になった。『故国まで』は一九八一年三月に姜在彦と李進熙らとともに金達寿が軍事政権下の「南朝鮮・韓国」を訪問したときの旅行記だが、88年オリンピックまでに先進国となり政治思想犯の死刑が廃止されるよう、南北朝鮮が統一されるよう望む金達寿の思いが詰まった名著である。なかでも故郷の集落で幼少時に祖母と暮らしていた一間きりの小家を見つけ、出てきた老婆とその孫に五十年前の自分をだぶらせる場面は感動的である。  第四章には疑問があったが、補論の井上光晴論では中野重治を媒介として朝鮮問題に肉薄していくなかで、井上光晴が繰り返し描いた炭鉱の底辺にいる朝鮮人労務者の存在、それに気づくこともなかった「高学歴」戦後派作家への「異議申し立て」という部分には目を開かれた。冒頭触れた『民涛』と同じころ、井上光晴編集の第三次『辺境』も刊行されていたことが思い出される。そういえばこの二誌ともに影書房からの発売だった。ともかくも、著者が繰り返し言及する李恢成の「見果てぬ夢」は著者自身の夢でもあるだろう。著者が本紙に掲載した李恢成追悼文では「見果てぬ夢」の着地点は『地上生活者』であり、それは戦後文学全体を異化するものだとされていた。本書では、在日朝鮮人文学自体が戦後文学を異化するものと位置づけられていて戦後文学を見直すさいにも有益な観点を与えてくれる一冊だ。なお、李恢成『地上生活者』は未発表原稿が残されていたという(日経新聞夕刊4月22日)。刊行を願っている。(たけうち・えみこ=明治大学教授・日本近代文学)  ★くろこ・かずお=文芸評論家・筑波大学名誉教授。著書に『大江健三郎伝説』『林京子論』『村上春樹批判』『「団塊世代」の文学』『「焼跡世代」の文学』『ヤマトを撃つ沖縄文学』『黒古一夫 近現代作家論集 全6巻』『原爆文学論』『井伏鱒二と戦争』など。一九四五年生。

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