2025/06/13号 6面

灰の箴言

灰の箴言 リタ・ナカシマ・ブロック/レベッカ・アン・パーカー著 坂田 奈々絵  キリスト教のシンボルといえば、すぐに思い浮かぶのは「十字架」だろう。今ではアクセサリーの意匠にも用いられ、すっかりと血抜きされた十字架であるが、これはそもそもローマ帝国で用いられた処刑具である。おおよそ2000年前、ナザレのイエスは、当時の地中海世界一帯を支配していたローマ帝国によって十字架刑に処された。この無辜の男の死は、旧約聖書に書かれた贖いの犠牲に結びつけられる。やがて中世には当時のゲルマン的な法理解のもとで、神に対する人類の不服従を神の子であるイエスが死をもって贖う、「贖罪」(atonement)の出来事と理解された。つまり十字架は単なる処刑具ではなく、贖いの象徴であり、人々のために自ら命を捨てたイエスの愛を示すものともされたのだ。  『灰の箴言』において、著者のリタ・ナカシマ・ブロックとレベッカ・アン・パーカーは、この「贖罪」の神学に厳しい批判を突きつける。2人はともに、北米のフェミニスト神学の牽引者であり、キリスト教における贖罪の神学を解体し、信じる者たちの自己犠牲を要求しない神学の構築を模索してきた。同書の原著は2001年に出版され、英語圏では広く受容されている。レント、ペンテコステ、エピファニーという、キリスト教の暦に対応するタイトルがそれぞれに付された三部構成からなり、各部の前半にはレベッカの物語、後半にはリタの物語が、一人称の形で語られる。  問題提起となるのは第一部のレベッカの物語である。彼女は教会の説教において「贖罪」の伝統的見解を並べ、その問題点を丁寧に解き明かす。自らの子の死をもって人類に救いをもたらす父なる神の姿は、家長による暴力を肯定することになるのではないか。イエスの死を彼自身の利己心の克服、自己無化の偉大な見本と捉えるならば、自己を抑圧せざるを得ない弱い立場の人々にさらなる沈黙を強いることになるのではないか。抗議し抵抗した者の死を称揚することは、被害者に焦点を当て、加害者の責任から目を逸らすことにならないか……。「贖罪」の神学がキリスト教の中心の座についたとき、そこには様々な歪が発生する。その歪は常に弱い立場の人々の上に、支配と暴力として君臨することになるのだ。  同書では、贖罪の神学がもたらす暗夜と、そこに差し込む救いの光が、2人の様々な経験のうちで描き出されてゆく。レベッカは、暴力にさらされた人々の抑圧や苦しみに司牧者として向き合い、幼少期の性的虐待によって負った自身のトラウマに対峙する。そして苦悶と癒やしの試みの果て、ついには「喜びの朝」を迎えることとなる。一方、福岡にルーツをもつリタは、そのアイデンティティのゆらぎのなかで、フェミニズム神学の道へと進み、レベッカと同じように、人々の傷や痛みに触れることとなる。そして実父とその一族に出会うことで、「おばあちゃんの笑み」の中に神の顔を想い起こす。リタの半生は、日系アメリカ人女性として全米で初めて神学博士号を取得した神学者の歩みという点でも興味深い。  彼女たちの物語は、自己の探求と神の探求、まさに自分ごととしての救済の模索を一体のものとして描き出す。それは神学を机上の言葉に留めることなく、肉をまとった自分自身の生と対話させる営みである。神学には、神が肉を帯びることでイエスという人となったという、「受肉(incarnation)」と呼ばれる考え方がある。神が人になるのならば、神学も肉を帯びなければならないのだろう。同書のタイトルである「灰の箴言」とは、ヨブ記13章12節に登場する言葉である。想像を絶する苦難に見舞われたヨブに、友人たちが様々な言葉をかける。それに対してヨブは、その言葉を灰の箴言であると断じるのである。灰の箴言とはまさに、肉を帯びることのない虚な言葉、傷つけられた人々をさらに追い詰める呪いの言葉を意味する。2人はこの灰を抜けだし、神が「共にいる」こと、つまり臨在のうちに新たな救いを見出す。そこにあるのは、血も犠牲も望まない神の愛なのだ。  本邦においても、自己犠牲や忍耐は美徳とされ、それは時に弱い立場にある人々の口を塞ぎ、窒息させる規範となる。本書はキリスト教神学という、多くの日本人にとっては縁遠いと思われるテーマが基調をなすが、そこに書かれるのは晦渋な抽象的議論ではない。2人の探求スタイルは、レベッカ自身が述べるように、4~5世紀の北アフリカの司教アウグスティヌスが著した『告白』を想起させる。『告白』がキリスト教の内外で広く受け入れられたように、同書が提起する問題と2人の魂の歴程は、今、ここにいる私達にも響くものとなるだろう。(福嶋裕子、堀真理子訳)(さかた・ななえ=清泉女子大学総合文化学部准教授・中世キリスト教思想)  ★リタ・ナカシマ・ブロック=神学博士、ボランティアズ・オブ・アメリカ副理事長。著書に“Soul Repair: Recovering from Moral Injury After War.Co-authored with Gabriella Lettini”(未邦訳)など。一九五〇年生。  ★レベッカ・アン・パーカー=神学博士、スター・キング神学校名誉教授。著書に“A House for Hope: The Promise of Progressive Religion for the 21st Century. Co-authored with John Buehrens”(未邦訳)など。一九五三年生。

書籍

書籍名 灰の箴言
ISBN13 9784879844620
ISBN10 4879844624