ウォルター・ペイターを読む
森岡 伸著
上村 盛人
最近のペイター研究は活況を呈しており、母国イギリスでは全十巻の著作集がオクスフォード大学出版局から順次刊行中であり、日本でも新たな角度からペイターを扱った研究書がこの十年来、数冊出版されている。そこにユニークな視点からペイターを読む五〇〇ページを超える本書が加わった。大学で哲学を講じ、小説、美術評論や種々のエッセイを書いたペイターは文系の著作家と見做されてきたが、化学、医学、心理学、さらに錬金工学等の理系的な視点からペイターを読み取るのが本書のユニークな特色である。マクスウエルやダーウィンに見られるように、「科学と文学言語が相互に刺激と影響を分かち合う関係にあった」ヴィクトリア時代に生きたペイターの科学に関する知見を踏まえた文芸活動を綿密に検討・分析しているのが本書である。
序論で著者は、流動、発展、変化がペイターのライトモチーフであるとし、『ルネサンス』「結語」の題辞で引用したヘラクレイトスの「万物は流転する」に注目する。そして当時、勃興しつつあった進化論、粒子論、電磁気学や科学用語としてのエネルギーやエーテルなどについてもペイターが意識的に著作で述べていると指摘する。また「ギリシア彫刻の起源」に関するエッセイで、ホメロスの『イリアス』に登場する火の神へパイストスをペイターが、「金細工職人のパトロン」と定義し、「芸術と錬金作業」を結び付けて、「火の神が……あらゆる技芸の神となる」と述べ、ホメロスが語る太古の昔に錬金作業があったと著者は指摘する。
第一章では、錬金術の歴史的発展や基本的なテーマが論じられている。「万物流転」の世界を構成する四元素(地・水・火・風)のうち、一番重い土が下にあり、その上に水、その上に空気、そして火が最上層にあって、火の神へパイストスの例にあるように火が錬金術に関わるが、さらにもう一つ第五元素(quintes―sence)があり、これは星辰界を支配する霊気のようなものとされ、「エーテル」、「エリクサー」、「賢者の石」とも同一視されたと著者は指摘する。
第二章では、当時の科学実験で議論されていた燃焼、光、熱などの化学の周知用語をペイターが錬金術的に利用している多くの例を具体的に論じている。一例として、小説『マリウス』の、「はじめは断片的にしか書けなかったものが、ある不思議に気持ちの良い日のさまざまな幸せなできごと、外界の熱と光のなかで、突然、調和ある完全なものとしてまとまった」という一節を挙げているが、小説の自然描写に錬金術的効果が隠されていたとは思いもかけず、著者の鋭い指摘に納得した。さらに著者は、エネルギー、磁気作用、親和性、精錬、発火点、元素、粒子、金細工師など、科学と錬金術の両方に関わる用語をペイターが著作で用いていることを具体的に説明し、「ペイターは、想像力や創作の議論にあって、科学の言語に赴く様子を見せながら、それがしばしば錬金変性の言葉へと横滑りしてゆく」と結論付ける。
第三章で著者は、スピリトゥス(宇宙に偏在する精気で、第五元素のエーテル)について、『マリウス』十九章の文章を分析しつつ、「精神的エネルギー」という表現に注目する。そして十九世紀の科学における、電磁気現象の媒質としてのエーテルやエネルギー保存則の概念を背景にして、ペイターがマリウスのエピファニックな体験を描きながら「変化を思惟の中心におく錬金思想」を展開する過程を詳しく説明している。
第四章では、ペイターの時代に大流行したメスメリズムや心霊術に高学歴の科学者や文化人が関心を寄せ、あるいは実態究明に携わった状況が詳しく解説され、さらに心霊術に関わる霊媒や人格の二重性から生じるマインドとソウルの問題がペイターに引き寄せて論じられている。ペイターのエッセイ「文体論」で何度も使われる媒体という語は霊媒と同じmediumであることから、「文学芸術の『媒体』、すなわち『言語』を指しながら、それが『霊媒』と読み換えても文脈が成立する」とし、「時代に向けてなし得る『文体』の刷新」がペイターの目指したものであったとし、ペイターの著作は、「この時代になお脈打っていた古代的・異教的契機の連綿たる伝統を、十九世紀という時代が拓いた新しい科学の地平と、融合、調整させる試みであった」と述べて、著者は本書を結んでいる。
以上は評者の個人的な要約であるが、著者自身は、ペイター及び彼の個々の作品に関わる時代背景や科学や錬金術等の資料を引用しながら、ゆっくりと持論を展開している。それ故、古代ギリシアのホメロスからプラトン等の哲学者達、チョーサー、ダンテ、パラケルスス等、中世・ルネサンス期の文人や錬金術師、ロマン派詩人のワーズワースからペイターと同時代のテニスンや多くの科学者、さらに今世紀に至るまでのさまざまな研究書から引用した膨大な文献が活用されており、夥しい数の注が施されている。そしてその注にもさらに詳しい説明があったりして、博学な著者の情報網は驚くばかりである。
多くのエッセイを書いたペイターだが、essayという語は語源的に錬金術と密接な関係があり、アッセイ(assay)と同語源である。アッセイは特定物質の検出・測定検査を意味する専門用語として今でも使われているが、本来は錬金術での金の純度の測定に関わるものであった。エッセイの創作をする際に、ペイターが句読点を含めて一語一句まで加筆修正を繰り返し、印刷活字にも細かな配慮をし、そして出版後も更なる修正を重ねていたことはよく知られているが、このような創作過程も、坩堝に様々な試薬や物質を加減しながら作業を進めた錬金術師の姿と重なるものであり、著者が主張するように、ペイターは確かに錬金術師のように言葉を扱っていた文学者であったといえよう。数千年に及ぶ錬金思想を記述するマクロ的視点とペイターのテクストの言説を分析するミクロ的視点が、表紙デザインのフラクタル模様のように、巧みに織り込まれたユニークな大著の出版を歓迎したい。(うえむら・もりと=滋賀県立大学名誉教授・英文学)
★もりおか・しん=札幌医科大学名誉教授・ヴィクトリア朝の英文学。一九五〇年生。
書籍
書籍名 | ウォルター・ペイターを読む |
ISBN13 | 9784875718970 |
ISBN10 | 4875718977 |