病原菌と人間の近代史
塩野 麻子著
阿部 安成
日本語をとおして展開した歴史学研究において、との限定をつけると、そこでは、一九九〇年代末から二〇〇〇年代初にかけて、養生や健康、衛生や厚生が集中して主題化されたとの経緯がある。それは病を問うことでもあった。当時の論点の一つが、近代の始まりに国家と国民とを構築するとき、激甚な伝染病の流行をとおしたひとりの死が国民全体の死につながりかねず、それを予防するために、ひとりの健康が国民全体の健康をもたらし、それがまた国家の富強にいたるとの言説をふまえた近代日本の国民国家論だった。「衛生」を一つの術語とした当時の議論は、一九世紀から二〇世紀にかけての病と生と死をめぐる国家による管理、社会における秩序、人びとの情動や感情や、意識形態と行動様式、結びつきと排除や差別を論じていた。人びとの日常が、あらためて、歴史における生として論じられたのである。それからおよそ三〇年を経たいま、病とそれをめぐる諸相が歴史を考察するときの特異な領域ではなくなった研究動向に、時間の経過を感じる。
この三〇年ほどの研究成果を軸として、より広く研究動向をふまえ、そして捉え返した一つの集大成と評価し得る著作である『病原菌と人間の近代史 日本における結核管理』を、わたしたちは得た。本書でくりかえし用いられた、結核をめぐる「潜在」の語が、この著作で重点がおかれた重要な術語である。いわば、罹っているのに病んではいない、とのとらえられ方に着眼して、そうした伝染病としての結核をめぐる「管理」「馴致」を、一九世紀末から二〇世紀中葉までの通時の「近代史」において本書は論述した。コレラ、ペスト、ハンセン病といった病としての顕在性がいっそう顕著であり、また、ときに激烈な流行を出来させる前二者とは異なる「潜在性」といういわば個性がある伝染病としての結核をとおして、病み得る身体を「管理」する科学や行政の仕組みを、その「通俗」性をもふまえ、したがって、人びとの生活や日常をも視野に入れて本書は提示している。
本書の論述にはもう一つ、有意の術語として、「免疫」が登場する。ひとからひとへ伝染る病への抵抗や対抗として、病の毒をひとの体内に接ぎ、人びとが接えることを可能とするための処方――それがBCGだ――が活用されてゆく。これは「潜在性」がある結核ならではの対処で、コレラ、ペスト、ハンセン病とはおおきく異なる。こうした結核とともにあるがゆえに、近代日本を生きた人びとは「自らの心身に綿密な配慮を払う」生(lifeまたはlives)を暮らしたという。病という毒を植えつけられた社会もまた、それへの「免疫」を獲得できれば、それをふまえた、それを活かす仕組み=制度をつくりあげてゆく。
では、そこでの「隔離」をどう考えるのか。一九世紀後半に流行したコレラには、おもに消毒と隔離の対処がとられた。そのときから法定された行政による予防の仕法として伝染病をめぐる「隔離」が制度化されていった。潜る伝染病である結核は、それゆえに、罹っていてもいまだ発病しないままで結核をひとに伝染す罹病者を判別することがむつかしいはずだ。「防疫」「予防」とともに「療養」「福祉」の役割と、さらに結核にかかわる事態の「教育」をも想定されていたという「隔離」。それを本書は、「ハンセン病や精神病の患者の処遇とも重なり合っている」と指摘する。そうした機能が「隔離」には確かにあった。
そのうえで、「人生被害」が認定されたハンセン病の「隔離」と収容は、病をめぐる「差別」の根元でもあったのだ。病んではいなくとも罹っているがゆえに伝染す怖れがある結核と、罹って病んではいるにもかかわらずそうかんたんにひとに伝染すわけではないハンセン病とで、どういう異同として「隔離」や「管理」や「馴致」を議論してゆくのか。それは「差別」についての思索につながる。
完全に発症したわけではないといういわば半状態(半ZQN)は、フィクションの世界(花沢健吾『アイアムアヒーロー』、二〇〇九―二〇一七年)だけではなく現実世界の歴史にもあった。発症してはいないが伝染す怖れがある事態の厄介さを、わたしたちはCOVID-19をとおして、ついこのあいだ体験した。療養所への収容を定めた法があるがゆえに、ハンセン病者とその家族は排除され差別された。根拠法が廃止されたにもかかわらず、多くの「ハンセン病回復者」たちはいまも療養所に住んでいる。結核の「潜在性」を「差別」の議論へと継ぐ課題は、読者であるわたしたちも担うところなのだろう。(あべ・やすなり=滋賀大学教員・近代日本社会史)
★しおの・あさこ=立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員・医学史・科学技術史。
書籍
書籍名 | 病原菌と人間の近代史 |
ISBN13 | 9784409520949 |
ISBN10 | 4409520946 |