2025/09/19号 5面

菊池寛アンド・カンパニー

菊池寛アンド・カンパニー 鹿島 茂著 掛野 剛史  待望の一冊である。菊池寛の生涯について知りたい時に、最初に参照することができる書籍が出たことをまずは喜びたい。菊池寛の伝記としては、菊池寛記念館から刊行された『菊池寛伝(改訂版)』(一九九三年)などがあるが、誰もがすぐ容易に手に取れるものではない。作家研究をすすめるためには基本的な伝記は必須であり、今後、菊池寛研究、文藝春秋研究の進展が大いに期待されるところである。  ただ、本書は菊池寛個人の伝記という範囲にとどまることだけを意図した書物ではない。おそらく本書の最大の狙いは、現代にも通じる稀代のメディアプロデューサーとして、そしてまた、わずか二八ページの片々たる雑誌から出発して、現在の文藝春秋へとつながる出版社を興したベンチャー起業家として菊池寛を、時代を超える可能性に満ちた雑誌メディアとして百年前の『文藝春秋』を再評価することにある。  創刊間もない『文藝春秋』の「編集後記」には、実にあけすけで率直な菊池の言葉が並び、部数や制作費などの収支を報告したり、購読料を先払いで払い込んでくる読者の存在を伝えるが、こうした『文藝春秋』初期誌面に接した本書は、編集後記が「双方向メディア」として機能していることや、創刊が一種のクラウドファンディング的に行われていたのだと理解する。確かに現在の『文藝春秋』の姿しか知らない人が初期の『文藝春秋』を読むとやや意外な感を受けるだろう。内輪ネタの雑文が多く、背景や文脈がわからないと十分に意味を理解できないハイコンテクストな内容だからである。当時の文壇ゴシップが多く、文脈がわかれば面白いのだが、現在の『文藝春秋』の姿とはほど遠い。本書はそうした初期『文藝春秋』のありようを「インナーサークル的な仲間イジリの雑誌」とみて、それこそが時代に求められていたのだとする。こうした大衆社会の空気を敏感に察知できた菊池は、途中、巧みに路線変更を図り、文壇ゴシップ誌から、さらに巨大な読者を求めて総合雑誌への転換を成功させるのである。こうした菊池寛の試みと『文藝春秋』の歩みを読み返すことで、メディア不況の現在に新たなヒントを与えてくれる、そうした書物として本書はある。現代のビジネスパーソンの興味関心にも十分に届く内容になっており、現在にも通用する「ビジネス戦略」のヒントがここにはあるだろう。ビジネス書のようなカバー装幀も、おそらくそれを狙ったのではないか。  本書の内容は『文藝春秋』創刊一〇〇周年記念企画として、『文藝春秋』二〇二二年一月号から二〇二四年四月号に連載されたものを基にしている(本書にはその明示がない)が、二一章は書下しで、そのほか佐野文夫や、『文藝春秋』創刊に関わる部分など、三〇頁ほどを改稿しているようで、連載時に比べて記述の厚みが増し、菊池寛自体を集団の無意識を体現した一つの「メディア」として捉え、菊池寛単体ではなく「菊池寛アンド・カンパニー」として記述していくという狙いは十分に達成している。  本書は、菊池寛自身の回想「半自叙伝」や、小説「無名作家の日記」などと、小島政二郎『眼中の人』、江口渙『わが文学半生記』といった文献、文藝春秋の社史である『文藝春秋三十五年史稿』『文藝春秋七十年史』を丹念にたどりながら、大西良生『菊池寛研究資料』、片山宏行『菊池寛の航跡 初期文学精神の展開』、関口安義『評伝成瀬正一』『評伝 長崎太郎』といった研究成果をも取り込み、一つの物語を紡ぎ出していく。研究史的な新事実の発見という意味では、とりたてて言うべきものはないが、菊池寛自身が逸話に事欠かない人物であるため(『逸話に生きる菊池寛』が本書の随所に引用されている)、それらをつなぎ合わせるだけでもじゅうぶんに読み応えのあるストーリーへとなっている。  ただし、資料的な制約からやむを得ないとはいえ、本書によって新しい菊池寛像が打ち立てられたかという点ではいささか物足りなく感じるのも正直なところである。結果的にこれまでの『菊池寛伝(改訂版)』と比べても、『文藝春秋』創刊までが比較的詳しく全体の四割、以降芥川賞直木賞制定までで約七割といった記述量は本書でもほとんど変わらず、「半自叙伝」をはじめとした既知の文献に多く依拠し、それらに乏しい戦中戦後の記述が少なくなっているからだ。戦争に対する「協力」「抵抗」といったこれまでの枠組みを超えて、戦中戦後の菊池寛をどのように捉えることができるのだろうか。文学者ではなく、経営者・公職者としての菊池寛が、戦争という危機にどう臨んだかということは、文学研究以上にビジネス書としての側面においても重要な問題だろう。(かけの・たけし=武蔵野大学教授・日本近現代文学)  ★かしま・しげる=作家・フランス文学者・明治大学名誉教授・一九世紀フランス文学。著書に『馬車が買いたい!』(サントリー学芸賞)『子供より古書が大事と思いたい』(講談社エッセイ賞)『愛書狂』(ゲスナー賞)『職業別 パリ風俗』(読売文学賞)など。一九四九年生。

書籍

書籍名 菊池寛アンド・カンパニー
ISBN13 9784163919881
ISBN10 4163919880