2025/06/06号 3面

レヴィナスのユダヤ性

レヴィナスのユダヤ性 渡名喜 庸哲著 平石 晃樹  レヴィナスが「ユダヤ人思想家」という名称を嫌い、ユダヤ教に関する著作と哲学的な著作とで出版社を区別するほどに慎重な姿勢を貫いたことはよく知られている。実際、二つの著作群は別個に扱われがちである。そうした状況に一石を投じるのが本書『レヴィナスのユダヤ性』である。著者の渡名喜氏は、『全体性と無限』に至るまでのレヴィナス哲学の展開を丹念に追跡する『レヴィナスの企て――『全体性と無限』と「人間」の多層性』を二〇二一年に勁草書房より上梓している。対して本書はユダヤ教関連のコーパスを読解するものだが、著者はそれだけでよしとしない。本書はさらに、ときに二種の著作群を往還的に読解しながら、彼の思想全体にとって「ユダヤ性」がいかなる地位を占めているかを時系列にそって明らかにしようとする。レヴィナスのユダヤ性そのものからして到底一枚岩では捉えられない。その一因は、浮世離れした訓詁学によってではなく、つねに変わりゆく「現実」(「アウシュヴィッツ後」の世界、イスラエル国家の建設、旧フランス植民地の独立等)と対峙することで彼のユダヤ性が形成されていったという事情にあるだろう。哲学的著作との連関を問うとなると事態はさらに錯綜することなる。このように本書はレヴィナスを二分化するかわりに複雑化する。それは晦渋趣味などではもちろんなく、「ギリシャ人たちが知らずにいた諸原理をギリシャ語で表明する」(『聖句の彼方』)という難題を背負った思想家の等身大に迫るために選ばれた戦略だと思われる。  他方で本書が、レヴィナスの複雑さと相対しながら、けれどもそれをそのまま放置することなく、彼のユダヤ教的著作群全体を見通すための、ひとつのありうる読解枠組みを提示していることは特筆に値する。「顔の倫理」が彼の哲学の代名詞であるとすれば、「普遍主義的特殊主義」こそが彼のユダヤ性を把握するための鍵となる。レヴィナスの中で普遍と特殊が何を指すかは時代や主題に応じて様々であるが(ギリシャとユダヤ、哲学とタルムードの知恵、世界史とイスラエルの民の聖史等)、問われているのは、普遍のうちに霧消することも特殊に自己閉鎖することもなく両者を結合する可能性である。言葉をかえると、自己の維持と他者への開かれとのあいだの極度の緊張を伴った「共生」の可能性、これこそがレヴィナスのユダヤ性の骨格をなしているのである。大戦直後のレヴィナスにとっては、ディアスポラのユダヤ人という「特殊」とヨーロッパという「普遍」の架橋が喫緊の課題であった。当時の彼の言説にはある種の西洋中心主義が認められるのだが、本書によれば、ユダヤ的特殊が合流すべき普遍を人類全体にまで拡張するようなモチーフがやがて彼のテクスト上で顕在化するようになる。そのひとつが、他者のために/にかわって社会正義を実現する責務を担う道徳的主体としての「イスラエル」という発想である。この意味での「イスラエル」は、特定の民族やこの名を冠した国家と即座に結びつくものではなく、むしろその普遍への志向ゆえに特殊が「正義」を僭称して暴走したときにはそれを止める批判原理ともなりうる。  ではその「イスラエル」とは誰なのか。また、国家となったイスラエルの根底にある正義への義務を強調するレヴィナスが現実のイスラエル国家の存在を基本的には肯定する姿勢を堅持している事実をどう評価するか。もちろんこれらの問いは提起されなければならないだろう。少なくともいえるのは、イスラエル国家によるパレスチナ人の迫害が再燃し拡大の一途を辿る今日、レヴィナスを教条的に擁護したり逆に全面的に拒絶したりすることは、本書のいう「困難な共生」を遠ざける短絡にしかならないということだ。問題なのは、彼の思想の複雑さを縮減することなく受け止め、その可能性と限界を冷静に見極めることなのではないか――本書の行間からはそうした著者の声が聞こえてくる。(ひらいし・こうき=東京大学大学院教育学研究科准教授・フランス哲学・教育哲学)  ★となき・ようてつ=立教大学文学部教授・フランス哲学・社会思想史。著書に『レヴィナス』『現代フランス哲学』『レヴィナスの企て』、共著に『ジャン=リュック・ナンシーの哲学』など。一九八〇年生。

書籍

書籍名 レヴィナスのユダヤ性
ISBN13 9784326103492
ISBN10 4326103493