市川沙央『ハンチバック』
髙野 紋佳
初めて本書を手に取った当時、大学一年生だった私は「これが文学的であるということか」とその語りと結末の、世界がひっくり返るような感覚に大きな衝撃を受けた。それから丸二年が経つ今、読み方は変わるだろうかと手に取ったのであった。
主人公の釈華は難病によって曲がった背中の重圧に耐えながら大学の通信課程を受け、ヘルパーの助力を受けながら毎日を過ごす。そんな日々の隙間に、彼女自身では体験し得ないようなアダルト記事を紡ぎ出しては金銭を得ていた。両親の遺産で多少は豊かな暮らしが出来るため、そうして得た金銭は寄付をするなどしている。「妊娠と中絶がしてみたい」「お金があって健康がないと、とても清い人生になります」などとTwitterに下書きを保存する。あるとき、ヘルパーの派遣が上手くいかずに、入浴介助を男性ヘルパーの田中が行うことになる。介助中、釈華のアカウントを特定していると話を持ち出した田中に、釈華は取引を持ち掛ける――。
目の前で展開されるのはあまりにもリアルな描写。そこに挟まるのは筆者にも刺さるような鋭い社会批評の数々。常に自分を「せむし(ハンチバック)の怪物」であると自虐的に語る主人公──エピローグによって彼女が主人公であるのかも分からなくなるが──の一人称視点によって構成されるストーリーが私たちに示すのは、障害を持ちながら生きることの大変さだけではない。「私はあの子たちの背中に追いつきたかった」。当たり前のことではあるが、生まれにハンディキャップがあるだけで彼女と私たちは同じ世界に生きている。そこに存在するのはただの一人の女性であり、彼女にも日々の生活があるということを教えてくれる。
特にショックを受けたのは物語ラストの語りだ。死と隣り合わせに生きる女性の生の実感が、読者に流れ込んでくるような感覚。それまでの物語の流れを覆すようなラストに、違和感をもつ人も、苦手なタイプの終わり方だと言う人もいるかもしれない。発売当時はネットを見ても賛否両論が飛び交っていたし、筆者自身は理解が及ばなかった。
しかし丸二年がたった今この本を読み返してみると、理解が及ばないというよりは、触れることができない何かがあるように感じる。主人公が誰で、どこにいるのか。障害者とはなにか。社会的弱者とはだれか。そして、私たちはなぜ生を受けたのか。その問いのどれも、本質的な答えには到達できないのだ。
アドラー心理学では、「人は分かり合えない」ということを前提に語られるそうだ。他人との間には距離があり、人それぞれの世界があって、それには触れることが出来ない。己のことでさえ完全に理解することは出来ないだろう。そんな孤独の中で生きる私たちだからこそ、立ち返って自分自身と向き合う時間をもつべきなのではなかろうか。そう考える時、本書は自分との対話に十分なきっかけをもたらしてくれるように思う。
書籍
書籍名 | ハンチバック |
ISBN13 | 9784163917122 |
ISBN10 | 4163917128 |