蓮實重彥氏に聞く(聞き手=伊藤洋司)
<「内田吐夢論」への思い、「フィルム的現実」とは何か>
『日本映画のために』(岩波書店)刊行を機に
映画批評家・フランス文学者の蓮實重彥氏が『日本映画のために』(岩波書店)を九月一七日に上梓した。四〇年にわたる論考を編纂した、著者初の日本映画論集成となる。蓮實氏にお話をうかがった。聞き手は中央大学教授の伊藤洋司氏にお願いした。(編集部)
伊藤 蓮實さんは今年六月にも『映画夜話』(リトル・モア)を出されたばかりですが、この度、早くも新著『日本映画のために』を出版されました。これを機会に、改めて蓮實さんに日本映画の話をお伺いしたいと思います。ところで『ショットとは何か』の連作(講談社、二〇二二年~二四年、全三冊)では、純粋な日本映画論は「歴史編」に収められた濱口竜介の『悪は存在しない』論だけでした。日本映画のこの〝完全な不在というわけではない曖昧な不在〟が少し気になっていました。そうしていると、今回〈日本映画論集〉が刊行されたわけです。まずは出版の経緯について教えてください。
蓮實 これには大変長い歴史があります。かつて『ユリイカ』編集部におられ、岩波書店に移られたさる編集者から、もう十数年前に、「日本映画論を一冊にまとめましょう」という依頼をいただいておりました。その時は、日本の新しい作家たちについてもっと語りたいという理由と、加えて、どうしても内田吐夢について語らないと、日本映画について語ったことにはならないと思い、「内田吐夢論を書かせてください」とお願いをし、そのために二人で旧フィルムセンターに籠もって『限りなき前進』を見直したりしていました。その内田吐夢論の執筆が非常に遅れてしまい、ここまで時間がかかったということです。去年の九月くらいから、ようやく書きはじめ、結局二〇二五年の一月一日に脱稿した。それぐらい厄介なものだったのですが、理由はいくつかあります。まず内田吐夢の映画は、パソコン画面上では見られるのですが、大きな画面で見ようとすると、VHSの機械が必要となります。それを、ある方のご助力によって設置することができ、VHSで見ながら書いたのです。すると、やはりとても時間がかかる。時々機械がおかしくなったりしながらやっているうちに時間のみ経ち、さすがにもう書かなければいけないとなったのが、去年の秋くらいだったと思います。書きはじめると、想像していた以上に時間がかかりました。なぜか。内田吐夢の作品では、まずは『飢餓海峡』が有名ですね。だけど、あれは本当につまらない作品です。それに比べて、もともと好きだったのが『妖刀物語 花の吉原百人斬り』、これについて詳細に分析して書きたかった。ただし『妖刀物語』という映画は、舞台装置がかなり込み入っているので、その装置等々に関してどのように扱うべきかを考えながら書いているうちに、去年の暮れからはほとんど失語状態に陥り、やっと一月一日に書き上げたという次第です。
伊藤 内田吐夢の映画というと、小津安二郎の『突貫小僧』と一緒に『天国その日帰り』が発見されて、上映の際に蓮實さんが講演されたことをよく覚えています。「小津が発見された、発見されたとばかり言われるけれど、なぜ内田吐夢が発見されたと言う人はいないのか」。そう発言されていました。私は当時大学生で、数本しか見ていなかったので、お話を聞いて恥ずかしくなり、慌てていくつか見た思い出があります。
蓮實 いかがでしたか。
伊藤 非常に面白かったです。内田吐夢は一八九八年の生まれで、溝口健二や伊藤大輔と同い年ですが、映画が肌に身についている感じがして興奮しました。そこで、まずお聞きしたいのが、内田吐夢は、戦後、日本に帰国するのが遅くて、一九五五年に『血槍富士』で映画界に復帰します。蓮實さんは一九五六年に大学に入学されていますが、内田吐夢の映画との最初の出会いは何でしたか。
蓮實 はい。これは、いま言われた『血槍富士』です。受験勉強中か、大学に入った後に遅れて見たのかまでは記憶にありませんが、最初は『血槍富士』でした。
伊藤 内田吐夢は、戦前には左翼的な〈傾向映画〉などを撮っていましたが、戦時中に中国大陸に渡り、甘粕正彦の自決現場に立ち会うなど、壮絶な経験をしました。戦後もなかなか日本に帰れず、終戦から八年後の一九五三年に、ようやく帰国を果たしました。そうした経過は、当時、どのように受け止められていたのでしょうか。
蓮實 そういう経歴については、後知恵ですけれども、それなりに知っていました。満洲映画協会のこととか、なぜ日本に帰って来られなかったのかとか、あれこれ新聞・雑誌に書かれていましたし、大陸に長らく滞在しておられたことには、憧れのようなものさえ感じていました。
伊藤 満映の理事長が、関東大震災の時に大杉栄を殺害した甘粕正彦でした。左派の監督がその甘粕正彦に誘われて満映に在籍し、戦後も大陸に長く残り、炭鉱労働などもしました。そうして帰国後に復帰第一作『血槍富士』を撮ると、そのラストで軍歌『海行かば』が流れました。僕の世代だと、どういう風に受け止めたらいいのか、わからないのです。
蓮實 わたくしも、それはどう受け止めたらいいのか、まったくわかりませんでした。ただ『血槍富士』が活劇としてよくできている。そのことだけはすぐにわかりました。
伊藤 片岡千恵蔵がどんな槍さばきを見せてくれるのかと思っていたら、ただの槍持ちの役で、最後に怒りにまかせて長い槍をひたすらぶんぶん振り回すんですよ。千恵蔵にこんな立ち回りをやらせるのかと。槍が酒樽に次々と刺さってお酒が溢れ出て、最後は泥だらけになるんです。こんな時代劇があるのかと驚きました。
蓮實 主人公が「武士ではない」というところが、『妖刀物語 花の吉原百人斬り』にもつながっている。
伊藤 どちらも片岡千恵蔵ですし。『血槍富士』では、千恵蔵が何人もの武士を殺しながら、無罪で終わりますよね。当時のハリウッドだったらあり得ない結末ですね。『妖刀物語』も、この後千恵蔵は罰せられるんだろうと、観客は思うのでしょうが、映画自体にそういう場面は一切ありません。
蓮實 あれだけのことをして、一切処罰なしですからね。
伊藤 日本では、大丈夫だったのでしょうか。
蓮實 受け止められ方としては、ごく普通に見ていたと思います。アメリカ映画にあるいろいろなコードのことなんかはまったく考えずに、『血槍富士』を活劇として受け入れた。それと同じように、『妖刀物語』も無条件に受け入れていました。
伊藤 二本とも、主人公が最後に怒りを爆発させて、何人もの相手をなぎ倒して殺します。このパターンは、その後の任侠映画でも用いられ定型になりますが、任侠映画の場合は、必ず警察に逮捕されて終わります。この点で、やはり内田吐夢はかなり変わっていたと言っていいのでしょうか。
蓮實 変わっていましたよね。しかも、最後は「花」で終わってしまうのですから。
伊藤 桜の花ですね。『妖刀物語』のラストで描かれる桜の木について、蓮實さんは本書で、詳細に書かれていらっしゃいます。当時、吉原の目抜き通りの仲之町では、桜の季節だけわざわざ桜の木が移植されていたそうですね。映画はセットですけれど。最後に片岡千恵蔵が出てきて太夫のお披露目の列と向かい合うと、千恵蔵のショットの背景にも、切り返しによる太夫の列のショットの背景にも、桜の木が映っています。千恵蔵が人を斬り出すと、桜の花びらが舞いはじめます。蓮實さんは次のように指摘されています。「惨劇は、実際、この桜の花びらが、風もないのに不意にはらはらと舞い落ち始める瞬間を契機とするかのように誘発される。あれこれ噂をしながら行列を見まもっていた群衆のさなかに、折れ曲がった蓑傘で容貌を隠していた千恵蔵の姿を人が目にするのは、まさしくその瞬間である。そして、隠し持っていた「妖刀」を懐から引き抜き、行列の先頭を歩いていた置屋の亭主を切りつけようとするとき、あたり一帯に花びらが舞い始める。この「フィルム的な現実」に誰もが思わず言葉を失う」(一九頁)。まさにその通りで、この桜の木とそこから舞う花びらが実にいいんですよね。
蓮實 いまだに『妖刀物語』のどこが面白いか、わからないという人たちもいるでしょう。ただし、あの桜を見て泣かなきゃダメですね。
伊藤 ええ。蓮實さんが指摘されている通り、内田吐夢の映画には、木がいつも出てきて、それがとてもいい構図に収まっています。読みながら、日本の時代劇では木がいかに重要な存在であるか、改めて痛感しました。内田吐夢の映画では、完全版は現存しませんが、戦前の『人生劇場』にもイチョウの木が出てきますね。戦後の『人生劇場 飛車角と吉良常』にも、最初と最後にイチョウの木が出てきます。どちらも、主人公の父親がこの木に向けて銃を撃つんです。戦前版では、父親が子供時代の主人公を木に登らせますが、同じく戦前の『土』でも、主人公の息子が木に登ります。戦後の作品でも、『宮本武蔵 二刀流開眼』で、城太郎という少年が木に登ります。それから何と言っても、蓮實さんが書かれている通り、『宮本武蔵 一乗寺の決斗』のラストで描かれる京都の一乗寺下り松での決斗が素晴らしい。この松の木が大きいんですね。七三人が待ち構えているんですが、宮本武蔵は大木の根元で要となる人物を刺し殺すと、逃げて、泥田で泥まみれになりながら闘います。『血槍富士』のラストも泥だらけでした。『妖刀物語 花の吉原百人斬り』でも、水谷八重子の情夫の木村功が夜の泥田で泥にまみれながら刺し殺されました。
蓮實 内田吐夢をいいと言ってくださるだけで嬉しい。
伊藤 『妖刀物語 花の吉原百人斬り』は、蓮實さんが詳述されている最初の見合いのシーンが、これまた素晴らしいですよね。画面の手前から奥まで何艘も屋形船が重なって映り、それぞれが左右に滑るように進んでいるんです。
蓮實 『妖刀物語』の冒頭を見てこれは参ったと思ったのは、まさにあの船の交錯シーンです。
伊藤 打ち上げ花火のショットではじまり、次に、屋形船の上で着物姿の女性たちが踊るショットに見とれていると、やがて手前に見合い相手の女性の船が入ってきます。
蓮實 そこは、見合い相手がほとんど見えない。
伊藤 はい。さらに別の船に片岡千恵蔵が乗っています。その船が往復し、戻ってくる時に顔の向きが逆になって、そこで女性が顔の痣を見て、無言で俯くんですね。それが見合いの結果というわけですが、その俯く仕草の瞬間も、船が五艘くらい重なっていて、しかも左奥では着物姿の女性たちが踊っています。画面がとても重層的で、俯くという重要な仕草の時も、他に見るべきものがたくさんあるんです。一体どんなセットを作って、こんなに豪華で贅沢なショットを撮ったんでしょうね。
蓮實 俯くというのは心理の問題ですけれど、ひとつの心理を見せるために、心理とは無縁のものが豪華に配置されている。
伊藤 圧倒されました。それから二代目水谷八重子が岡場所上がりで太夫を目指す遊女を演じていますが、これがふてぶてしくて強烈で、素晴らしい。
蓮實 最初見ていると、どうなっていくのかとはらはらしますよね。
伊藤 そうなんです。片岡千恵蔵と水谷八重子が初めて二人きりになるシーンがありますよね。「ああ、喉が渇いた。飲ませて」と水谷八重子がまず言って、千恵蔵に酒を注がせて二杯も飲みます。それから、千恵蔵に酒を注ぐんです。千恵蔵が顔の痣を気にすると、水谷八重子は笑い出し、「心の中にまで痣があるわけじゃないだろ」と言います。そして、痣に接吻をして、「あたしが吸い取ってあげたから」と言うんですね。これで千恵蔵が惚れ込んでしまうんですよ。原作の歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒』(かごつるべさとのえいざめ)は違っていて、主人公は遊女の容姿の美しさに惚れるんです。それから、主人公の顔にあるのも痣ではなく、あばたなんですが、この容姿の欠点はそこまで重視されていません。遊女が主人公を裏切る理由も違います。原作では、遊女の情夫が殺されることはなく、遊女は彼への愛のために主人公を裏切ります。しかし映画では、彼女は商人である主人公のお金がなくなったから裏切るんです。依田義賢の脚色がうまいんですね。ところで、今回の内田吐夢論では、この『妖刀物語』が中心になっていますが、もし他の作品を挙げるとしたら、蓮實さんはどの作品がお好きなのでしょうか。
蓮實 現代劇ならば、『どたんば』も好きです。
伊藤 いいですね。炭鉱労働の話で。僕は世代的なこともありますが、『宮本武蔵 一乗寺の決斗』と『人生劇場 飛車角と吉良常』の二本も大好きなんです。
蓮實 それはもちろん、わたくしも大好きです。
伊藤 『一乗寺の決斗』の最後の決斗が白黒になりますよね。『人生劇場飛車角と吉良常』の最後の斬り込みも白黒になります。それがすごくいい。その直前に、鶴田浩二扮する飛車角が敵陣に乗り込もうと夜道を進むと、その足元だけが示され、藤純子扮するおとよが飛車角を追いかけると、彼女も足元だけが示されます。これがいいなあと思って見ていると、突然白黒になって、手持ちカメラで画面が揺れるんです。実に素晴らしい。大好きなシーンです。
伊藤 それと、おとよは、飛車角が刑務所に入っているあいだに、高倉健扮する宮川と浮気しますよね。吉良常がおとよに会いに娼婦街に行き、飛車角の話をすると、おとよの様子が怪訝なので、吉良常が「それとも他に男が?」と尋ねると、おとよの俯瞰気味のバストショットになります。この時の藤純子の表情が素晴らしい。「ええ、それが」とだけ言って黙り込み、そのまま立ち上がって、右手の人差し指で障子に小さく穴を開けるんです。たまらないシーンです。自分の拘りばかり話してしまうのですが、本当に好きな映画の一本です。
蓮實 伊藤さんが、それほど内田吐夢に狂っていただけるとは、嬉しいかぎりです。
伊藤 内田吐夢だと、今挙げた『飛車角と吉良常』や『宮本武蔵』シリーズの五本に加えて、『大菩薩峠』三部作もあります。
蓮實 『大菩薩峠』だって、決して捨てたものではない。
伊藤 僕は最初に見た『大菩薩峠』が三隅研次と森一生の大映版でした。その印象がとても強かったので、主人公の机竜之助というと市川雷蔵になってしまったんです。その後、遅れて内田吐夢版を見たんですけれど、『大菩薩峠』は内田吐夢版が一番だという人が多いみたいですね。
蓮實 市川雷蔵の机竜之助だっていいじゃあないですか。
伊藤 大映版が大好きなんですが、今回、東映の内田吐夢版を見直してみて、これもやっぱり面白いと思いました。ところで、『妖刀物語 花の吉原百人斬り』と『浪花の恋の物語』は、どちらも、女遊びを知らない商人が遊郭で遊女と遊んで恋に落ち、お金を使い込んで身を滅ぼすという、同じ物語を語っています。しかし、水谷八重子と有馬稲子が対照的な性格の遊女を演じているので、随分印象の違う話になっています。僕は『浪花の恋の物語』もかなり好きな映画です。
蓮實 両作品とも、「禿(かむろ)」という遊郭の紅い衣裳の少女たちがちらほらと出てきます。ああいうところもきっちり撮っていて、本当に素晴らしい。
伊藤 内田吐夢の映画に遊郭が出てくると、髪を切りそろえた遊女見習いの禿たちがいつもいますね。『一乗寺の決斗』でも、宮本武蔵が三十三間堂での決斗のために遊郭を抜け出す時に、吉野太夫のお付きの禿に言づてをします。翌日に、その禿が吉野太夫の手紙を武蔵に渡しますね。それから、『浪花の恋の物語』では、公開の二年後に結婚する中村錦之助と有馬稲子が実にいい感じなんですよね。遊女屋に中庭があって、ここにも木が何本か植えられています。最後に、有馬稲子がその中庭に身を投げようとして止められますね。その最初のショットが遊女屋の二階あたりからの引きの俯瞰で撮られていて、とてもいい。手前に木が大きく映り、その奥に有馬稲子が小さく見える構図になっていて、木の使い方が上手いんです。これはセットの木ですが、『一乗寺の決斗』の松も作り物ですね。ロケ地に作り物の木を植えたんです。時代劇に出てくる木は基本的に偽物ですが、その偽物の木が映画を豊かにしているんです。そう考えると、急に大きな話になってしまいますが、これからの日本映画はどうなっていくんだろうと思うんですね。たとえば撮影所がなくなった後、木をどうやって撮っていくのでしょうか。
蓮實 昔のように大掛かりなことは絶対できないでしょう。中島貞夫が言っていましたけれども、内田吐夢は何もないところに、とにかく木を持ってきて植えちゃったというんだから(笑)。映画って、そういうものだった。今は木を植えることなんてできませんからね。人造の樹木を使えない状況のなかで、若い人たちがどう撮るかということだと思います。
伊藤 今の若手だと、自然の美しさをどう撮るかみたいな、そんな素朴なリアリズムに陥っている人もいますよね。
蓮實 だけど『一乗寺の決斗』という作品は、あの松の木がないと成立しない。
伊藤 そうすると、今一番撮りにくいのは時代劇ということになってくるのでしょうか。偽物だからこその美というのがあると思うんですが、蓮實さんは今回の本に収録された山中貞雄論でも、『河内山宗俊』に舞う作り物の雪を絶賛されています。しかし、最近の映画では、本物の雪を撮影するのが普通になってきています。これも致し方ないことなのでしょうか。
蓮實 近年、人工の雪を使った作品で覚えているのは、青山真治の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』ですね。あの最後の雪のシーンは、山中貞雄を考えて降らせたと、本人が言っていました。三宅唱さんの新作『旅と日々』、あれはほとんどすべて本当の雪でしたね。
伊藤 雪の降る中にヒロインを小さく捉えるいいショットがありました。試写室で一度見ただけで記憶が曖昧なんですが、オープンセットの宿のあたりに積もる雪は本物でしょうか。
蓮實 もう一度よく見直してみないと正確なことは言えませんが、これについては、なんとなく書きたいという気持ちが強くあります。久しぶりに書いてみたいと思いました。
伊藤 三宅唱は『旅と日々』で、ヒロインが庄内地方に移動する時に、電車を撮らないんです。ごく短い風景の移動ショットひとつですませます。この簡潔さがすごいんですね。そう思いながら、今回の本に収録された、蓮實さんと三宅監督の対談を読んだら、蓮實さんは「見えない電車」の話をされていました。しかも、「コメディを撮ってください」とまで言われています。『旅と日々』はまさに「見えない電車」の登場するコメディです。これは蓮實さんの教育的な効果ではないのですか。
蓮實 いえいえ、それは違います。しかし、あの「見えない電車」には痺れました。それでいて、「旅」の部分は交通機関を見せず、トンネルの出口だけ。あの素晴らしさ。
伊藤 あの対談では、三宅監督に「時代劇を撮ってください」ともおっしゃっていますね。今の日本の監督で時代劇を撮るならば、やはり三宅唱なのでしょうか。
蓮實 若手で誰が上手いかということまでは、なんとも言えませんが……。
伊藤 今回の本には、黒沢清の『スパイの妻』論も収録されていますね。蓮實さんは、黒沢清がこの映画で同時代ではない物語を初めて撮ったと指摘されています。戦前の物語ですね。
蓮實 舞台、衣装、装置等が自然なものではない作品ですね。
伊藤 僕の妄想なんですけれど、黒沢監督には戦前の物語だけでなく、江戸時代の時代劇も撮ってほしいんです。
蓮實 その妄想には、わたくしの妄想も一致します。たとえば黒澤明の『用心棒』みたいな映画を、彼が撮ったとしたら、あの百倍面白くなると思う。
伊藤 せっかく撮るなら、『用心棒』ではもったいないです。黒沢清では、『スパイの妻』論の次に『Cloud クラウド』論が収められていますね。これを読んで『Cloud クラウド』の暴力描写を思い出していたら、黒沢清が『大菩薩峠』をリメイクしたらどうだろうと、ふと思ったんです。ああいう話は黒沢監督に合うんじゃないかと。
蓮實 「『大菩薩峠』を撮れ」と、本人に言ってやってください。
伊藤 いい映画になると思うんですよね……。本の話に戻りますが、冒頭の「序文に代えて」でも、何本か作品を挙げていらっしゃっていて、最初に三隅研次の『座頭市血煙り街道』に触れられています。ご指摘の通り、あのラスト・シーンは素晴らしいです。雪が降っていて、対決の一番大事な箇所でBGMが止んで、無音のクロースアップが連続するんですね。三隅研次の『座頭市』では、やはり『血煙り街道』になりますか。
蓮實 全部見直したわけではないんですけれども、一番記憶に残っていますね。
伊藤 その一年後に撮られた『喧嘩太鼓』が、僕は個人的には大好きなんです。ラストがこれまた良くて、諏訪明神の一番太鼓が鳴り出すと、市は目が見えないので、太鼓の音で何もできなくなってしまいます。前半では、反対に暗闇の中で優位に立つシーンもありました。
蓮實 三隅研次論が書けなかったことは本当に残念です。ただ、書き出したらキリがないので、冒頭で、ああいう形でオマージュを捧げさせていただく以外にないと思って書きました。
伊藤 「序文に代えて」では、蓮實さんは中川信夫の『高原の駅よ さようなら』も褒めていて、嬉しかったです。今までは、「中川信夫ならもっといいものがあるだろう」と言われそうでしたが、これでようやく堂々とこの映画が好きだと公言できます。僕は単純な人間なので、ラストは、香川京子が馬に乗った時点でもう泣いていました。
蓮實 それは当然泣きます。あそこで泣かなきゃ、一体何を見ているのかと言いたい。
伊藤 男性の友人が香川京子を乗せて馬を走らせるんですが、その馬と列車が並走するショットがすごいですよね。背後からのショットと手前からのショットがあるんですが、これはわざわざ二回撮っているんですね。
蓮實 そういうところに驚いてくれないとね、いくら映画について高尚に論じたって駄目なんです。こちらから撮って、反対側から撮ってつなげている。そこを見ないでどうするのか。それを「フィルム的な現実」と、わたくしは呼んでいるわけです。
伊藤 あそこは一度にカメラを二台回すのでは撮れない構図なんですよね。それに、香川京子と水島道太郎が接吻をかわすシーンもいいです。嵐のため雨宿りをしている二人のクロースアップの切り返しで、表情がとても艶めかしい。嵐で揺れる草木の影が顔に落ちるんです。
蓮實 今回オマージュを捧げた作品を見てくれる人が、一人でも二人でもいれば嬉しいですね。
伊藤 先ほどもちらっと名前が出ましたが、この本で嬉しいことのひとつは、中島貞夫にかなりページ数が割かれていることです。個人的には一番嬉しかったです。中島貞夫も「かつて内田吐夢監督が作ったような時代劇を撮ってみたい」と語っていましたよね。今回、読みながら色々と思い出していたら、中島貞夫は伊藤大輔だけではなく、内田吐夢も受け継いでいるんじゃないかと思いました。
蓮實 そうだと思います。
伊藤 直接の師匠はマキノ雅弘でしょうが、内田吐夢の影響も確かに感じられます。
蓮實 中島貞夫は、『一乗寺の決斗』で内田吐夢の助監督についているわけですからね。
伊藤 『一乗寺の決斗』の最後で、中村錦之助扮する宮本武蔵が泥まみれになって闘います。中島貞夫の『懲役太郎 まむしの兄弟』でも、最後の対決で泥まみれになりましたね。どこかで思い出したのかもしれません。内田吐夢も中島貞夫も、型から入るのが嫌いな監督です。主人公の生き方もちょっと似ているような気がします。組織に染まらず、一人で生きるというような……。
蓮實 どこか似ている。「似てる」なんて言うと、「中島貞夫は商業監督じゃないか」なんて言われるかもしれないけれども、そういうことではない。中島さんって、本気で撮れば撮れる人です。でも九〇パーセント、本気ではない。
伊藤 内田吐夢も巨匠の扱いでしたが、結果としていい映画になるなら何でもありという面もありました。
蓮實 あと一〇パーセントのすごさをわたくしどもが感じ取ればいいだけの話です。中島貞夫にしても、最後の遺作なんて素晴らしいでしょ。
伊藤 『多十郎殉愛記』ですね。素晴らしい作品です。
蓮實 あれ以上の日本映画って、あの頃、本当にあったのかと思うくらい素晴らしい出来栄えです。
伊藤 多部未華子がいいんですよね。
蓮實 井戸端のシーンは実によい。
伊藤 多部未華子が盥の水を高良健吾にかける動作を一度しか見せずに、あとは彼女が釣瓶を引き上げるショットと、男が水を浴びるショットだけを交互に示します。そういう編集の妙味もありますが、多部未華子の動きがいいんですね。あと、受けの芝居も上手です。目に力があるし、なで肩だから和服が似合います。ラスト近くに、彼女が目を負傷した木村了を助けて川辺にやって来るシーンがあります。小川を背景にじっと無言で男を見つめる多部未華子のバストショットが素晴らしい。目に力があるから、それだけで画面が生き生きとするんです。中島貞夫に関しては、蓮實さんはこの本で『893愚連隊』もかなり褒めていますね。中島監督の代表作としては、やはり『893愚連隊』と『多十郎殉愛記』になるのでしょうか。
蓮實 中島さんの場合、代表作を選ぶというのは、彼に対する失礼にあたるのではないかと思う。何でも撮れる人だったし、そういう監督に対して、代表作なんて言ったら罰が当たるのではないか。
伊藤 そう言われると急に言いづらくなってしまいましたが、僕は『小枯し紋次郎 関わりござんせん』が無茶苦茶好きなんです。中島貞夫は最終的には時代劇の人ではないかと思っています。中島貞夫はこの作品で、任侠映画へのアンチテーゼとして股旅物を取り上げて、一匹狼の映画、無法者の孤独の映画を撮りました。実の姉と再会しても何の救いもないんですよ。一作目の『木枯し紋次郎』もそうですが、木枯し紋次郎役の菅原文太のアクションが時代劇の従来の殺陣とは異質な動きですね。中島貞夫は型から入るのが嫌いで、東映京都撮影所で時代劇の所作を教え込まれた役者とはまるで異なる菅原文太を起用したのが良かったんです。内田吐夢は『血槍富士』で、片岡千恵蔵に長い槍を振り回させ、『宮本武蔵』の第一作では、中村錦之助を千年杉から吊るして、役者としての型にはまった芝居を封じてしまいます。こういう俳優の演技に対する考え方を、中島貞夫も受け継いだんじゃないでしょうか。
蓮實 それは今まで気がつかなかったけれど、内田吐夢系統の「型嫌い」が中島貞夫には確かにありますね。
伊藤 中島貞夫の『真田幸村の謀略』も世間では色々言われていますが、型にはまらない時代劇を模索していて、僕は好きなんです。ところで、『893愚連隊』は現代劇で、B級映画の精神みたいなものを発揮して、低予算でさっと撮ってしまった映画ですが、当時はヒットしたのでしょうか。
蓮實 ヒットしたと思います。
伊藤 僕が生まれる前の映画なので、公開当時、どういう受け止められ方をしたのか知りたかったんです。
蓮實 山根貞男さんやわたくしなどは推したけれど、それほど高い評価はされませんでした。
伊藤 京都駅でゲリラ撮影された冒頭の横移動のショットが鮮烈ですね。白タクのシーンです。こういうのを見ると、被写体のドキュメントとか安易に言い出す人がいますが、そんなに簡単な映画ではないと思います。このロケ撮影の映画も、「被写体を撮る」のではなく「被写体をつくる」という、牧野省三以来の京都の伝統を新たな形で受け継いでいると、僕は考えています。登場人物たちの魅力的な造形を見るとわかるのではないでしょうか。主演は松方弘樹ですが、天地茂がかなり複雑な立場のヤクザを演じていて、これはつくりこまれたものです。あと、荒木一郎がとてもよくて、この人は『ポルノの女王 にっぽんSEX旅行』でもいい味の演技をしていました。近藤正臣のすけこましぶりもよかったです。
蓮實 わたくしから伊藤さんにひとつうかがいたいことがある。今度のわたくしの本は、『日本映画のために』と題されてはいるけれども、不在があるわけです。黒澤明についてほとんど触れていないということ。それから山田洋次についてもほとんど触れていません。
伊藤 大学生の時に受けたゼミで、蓮實さんが「『男はつらいよ』の新作は毎回見ている」とおっしゃっていて、当時、僕はまだ数本しか見ていなかったので、恥ずかしく思ったのを覚えています。確かに、『男はつらいよ』は見れば確実に面白いんですが、山田洋次の他の映画を見て、いまひとつだったんですよね。それから、やはりゼミで、「黒澤明を馬鹿にしてはいけない」とおっしゃっていたのもよく覚えています。僕は子どもの頃から、黒澤明の映画を普通に面白く見ていました。ただ正直に言うと、重要な監督だとは知っていたものの、熱中することはありませんでした。
蓮實 熱中できないのです。今回も、無視するつもりはまったくなくて、黒澤さんに触れていないわけではないんですけれども、彼について何かを書く気にはどうしてもなれない。
伊藤 『虎の尾を踏む男達』には言及されていますね。黒澤明の映画は、この画面がすごいっていう面白さがわかりやすいし、あと、観客をちょっと饒舌にさせるところがあるでしょう。そういうのにのせられて語ってしまうことに、あまり意義を感じられないんですね。本当は、なかなか気づきにくい細かい創意工夫があるんですが、それらを辿っても、最終的に本当に面白いところに行き着くように思えないんです。
蓮實 本書の中では、何度も「フィルム的な現実」という言葉で表現しましたが、私はそういう意味では、黒澤さんに心を動かされたことがないんです。だから、「不在」については仕方ないんですね。山田洋次にしても、つまらなくはないけれども、黒澤に比べたら山田洋次の方がずっと下で、やはり撮れない人ですよね。言ってみれば、カメラの置き方を知らない。
伊藤 『幸福の黄色いハンカチ』のラストは、カメラの距離や位置が全部おかしい気がします。とはいえ、僕はいまだに見逃しているものが色々あるので、否定できる資格があるかどうか。黒澤明にしても、下の世代の山田洋次にしても、撮影所システムの中で育ち、撮ってきた監督ですね。一方、今の若い監督たちはもう撮影所システムがない時代を生きています。振り返ってみると、一九八〇年代に相米慎二や黒沢清が登場し、撮影所システムなき時代の新しい映画を撮り出します。九〇年代に、そこに北野武や青山真治が加わって、蓮實さんのおっしゃる日本映画の第三の黄金時代がはじまるわけです。けれども、彼らに直接影響を与えたのは、むしろ神代辰巳や中島貞夫といった、撮影所の中で撮り続けた監督でした。松竹をすぐにやめた大島渚よりも、三隅研次や神代辰巳、中島貞夫のほうが影響を与えたと、言えるんじゃないでしょうか。
蓮實 わたくしもそう思います。
伊藤 吉田喜重も、正直に言うと松竹にいた頃のほうがいいですよね。『日本脱出』とか、『嵐を呼ぶ十八人』とか。
蓮實 『嵐を呼ぶ十八人』など、本当に素晴らしい。
伊藤 その頃のほうが面白かったです。撮影所システムなき時代の新しい映画に影響を与えたのが、撮影所に残った監督の作品だったり、撮影所を去った監督の撮影所時代の作品だったりします。このことを、どう受け止めたらいいのでしょうか。
蓮實 それは最大の問題ですね。本当にそう思います。伊藤さんが是非書いてください。
伊藤 最後にあと二つだけ言わせてください。大久明子がまだ十分評価されていません。大久監督の『美人が婚活してみたら』で、黒川芽以が田中圭と一緒に自分のアパートの部屋に入るところがあります。玄関のドアがゆっくり閉まると、カメラが中に入って、玄関のショットになるんですが、このショットがとてもいい。黒川芽以が電気をつけると、二人が無言で見つめ合うんです。それから僕は、三隅研次では『雪の喪章』が、もしかしたら一番かもというくらい好きなんです。夫の浮気を知った若尾文子が家を飛び出して、雪山で倒れます。番頭の天地茂が見つけて、若尾文子の足袋を脱がせて、素足をさすって温めるんですね。そのシーンがいいんです。ただ三隅研次で『雪の喪章』がいいと言ってくれる人がほとんどいません。
蓮實 そのことも含めて、是非、三隅研次論も書いてください。わたくしは、年齢故に、そこまで書くことはできません。けれど、三隅研次が素晴らしい映画作家だということだけは、皆さんにわかって欲しい。そのために、最初にオマージュを捧げたのです。何でもないところが特にすごい。伊藤さんの三隅論を期待しています。(おわり)
★はすみ・しげひこ=映画批評家・フランス文学者。パリ大学で博士号取得。東京大学教授を経て東京大学第26代総長。著書に『「ボヴァリー夫人」論』『ジョン・フォード論』『ショットとは何か』など。一九三六年生。
★いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学者。パリ第三大学で博士号取得(アポリネール研究による)。著書に『映画時評集成』。本紙にて「映画時評」を担当。一九六九年生。
書籍
書籍名 | 日本映画のために |
ISBN13 | 9784000617154 |
ISBN10 | 400061715X |