2025/07/04号 6面

日本知的財産史事典

友利昴氏に聞く 『日本知的財産史事典 トピックス1868 - 2024』(日外アソシエーツ)の魅力 <近代以降の歴史のミッシングリンクを埋める事典>  1868年から2025年3月までの日本の知的財産権に関するトピック4471件を年月日順に掲載した記録事典、『日本知的財産史事典 トピックス1868―2024』(日外アソシエーツ編集・発行)刊行を機に、知財に詳しい作家の友利昴氏に、具体的な項目を解説いただきつつ、本書の魅力を語ってもらった。    (編集部)  ――最近、知的財産(以下、知財)に関する話題を目にすることが増えてきました。そうした折に、日外アソシエーツ編『日本知的財産史事典トピックス1868―2024』が刊行されました。そこで今回は、本事典を通してどんなことが読み取れるのか、本事典の持つ魅力を含めて、知財に関するご著書を多数出されている友利昴さんにご解説いただきます。本題に入る前に、まず友利さんの自己紹介からお願いします。  友利 私は、普段企業で知財の仕事に従事するかたわら、知財の分野を中心に執筆や講演を通してその魅力を発信しています。知財の話題というと、制度や法律の面からの真面目な解説が多いですが、私は比較的斜めの視点から、その面白さ、奥深さ、あるいは制度の矛盾点のようなものを読者にお伝えするスタイルで書くことが多いです。拙著『江戸・明治のロゴ図鑑』(作品社)では、江戸から明治時代にかけて商標登録されたロゴマークの面白さを掘り起こす試みをしましたし、『エセ著作権事件簿』(パブリブ)では、著作権侵害訴訟の敗訴した事件例ばかりを集めて解説しました。  ――一口に知財と言ってもその内容は多岐にわたると思います。それを保護する知的財産権がどういったものか教えていただけないでしょうか。  友利 人間の営み、産業の営みの過程で、様々な発想が生まれ、それらが社会に浸透することで、人々の生活は豊かになります。その繰り返しで文化や産業が発達していき、人間の社会は進化していきます。  日々、人々が生み出す新しい技術や、創作物、商売で使うブランドなどに一定の独占権を与える仕組みが知的財産権です。なぜ独占権が必要になるのか。たとえ新しいものを生み出しても、すぐに他の人、会社が真似をして同じものを自由に作ることが出来てしまうと、誰も頑張って新しいものを作ろうとは思わなくなります。それでは豊かな社会に繫がらないので、一定の期間は新しく物を産み出した人に独占する権利を与えるのが知的財産権の趣旨です。  ただし、独占が強すぎると、同じ人、会社だけが永続的に儲かってしまうことになります。それでは競争が生まれず、その結果、恩恵が末端の人々にまで行き届きませんから、これも豊かな社会に繫がりません。独占と競争の促進のバランスを調整することで豊かな社会を作るのが、知的財産権の重要な役割です。  ――では、ここからは『日本知的財産史事典』についてお話を聞いていきます。友利さんには事前にご一読いただきましたが、まずは本書の感想を教えて下さい。  友利 先に外見的な感想を申し上げると、日外アソシエーツさんの事典は図書館で参照するものだというイメージがあって、本書もそれに類する一冊かと想像していました。でも、手にしてみると案外コンパクトにまとまっているので、これだったら手元に置いておいて普段から参照したいと思いました。  あと、索引が充実しているのも本書のポイントです。こういう事典って、普通は頭から通読しませんよね。キーワード、たとえばトヨタが関わった事件について調べる……という参照の仕方が多いと思います。本書の半分を占める膨大な索引の項目に、読み手への気配りを感じました。企業名、人名、国、出来事など様々な項目があって、見やすいし探しやすい。意表をつく立項も散見できるので、見ているだけで面白いです。  ――友利さんは本の執筆の際に、知財に関する様々な書籍を参照されていると思いますが、本事典のような日本の知財の通史を網羅した書籍は他にあるのでしょうか?  友利 知財関連の本には、その年の学説や重要判例を集めた専門的な年鑑があって、日本評論社から出ている『年報知的財産法』などは私もよく読んでいますが、本書のような1868年から2025年初頭にかけて、150年以上に及ぶ知財に関する出来事を通史的にまとめた本は見たことがありませんでした。  さらに本書は、知財関連書の分野において特異なだけでなく、日本の近代以降の産業史、メディア史、文化史を、知財という切り口から参照できる本という点でも、とても重要な一冊です。産業史などを通史的に振り返る本は多いと思います。ところが、そのような通史の中では、知財に関するトピックは、大事件や主だったものならまだしも、細々としたものはスルーされがちでした。  そうした見過ごされがちな知財の小さなトピックであっても、それによって生じた規範意識、法規制が社会に与える影響は決して小さくありません。ある事件や法改正が、産業界の勢力図や、文学界や音楽界のムードを変えたということはしばしばあります。本書は産業史、メディア史、文化史がこれまでフォローしきれなかった歴史のミッシングリンクを埋めるための資料という読み方もできると思います。  ――友利さんは、本書からどういったことが学べましたか?  友利 日本の知財制度の変化の歴史、全体の大雑把な流れを摑むことができました。合わせて外国の動きもわかるので、世界の潮流と日本の動向の比較もできます。  例えば、本書は冒頭に「前史」として、15世紀の世界初の特許からはじまり、19世紀中盤までの欧米での知財制度の成り立ちを簡潔に列挙しています。ここで面白いと思ったのは、16世紀にかけて西洋では現在の知財制度の源流となる法律が制定されていくなかで、日本は1721年に「「新規御法度」公布」とあるんです。これは徳川吉宗が定めた、新しい発明を禁止する法律です。西洋で発明を保護する機運が高まっているなか、日本の知財制度は発明を禁止するところからはじまっていたわけです(笑)。  現在の先進国における知財の秩序はおおよそ調和がとれていて、知財を保護する精神自体に大差はありませんが、昔は制度自体が国によってだいぶデコボコしていたし、制度設計も今とは違います。今は当たり前に保護されているものが、以前は保護対象ではなかったということも往々にしてあったのです。  ――昔と今では国ごとにも考え方がだいぶ違ったのですね。  友利 その上で、もう一つの気づきもありました。一般に、知財に対する認識として、昔は他人の権利を尊重する意識は低かったけど、だんだん厳しくなっていった、という理解がなされていると思います。でも、本書を読むと、意外とそうでもないんですよね。  たしかに、大まかには時代とともに法制度は複雑化していっているし、保護対象も拡張されています。だからといって、昔の人の知財に対する意識が低かったかというと、一概にそうとも言えない。昔から、実はアイディアや技術の独占にこだわる向きはあったし、権利侵害の事案だとして問題提起する人も多かった。何なら、過剰に権利主張をする人さえ昔からいて、明治時代にも今と同じような商標権侵害、特許権侵害で訴えた事件がたくさんあります。決して知財意識が低かったわけではなかったんですよ。  ――実際にどういう事件があったんですか?  友利 私が面白いと思ったのは、例えば1892年(明治25年)11月の「〔特許事件〕アスファルト使用で日銀を告訴」という事件です。日本銀行の建築工事で使用されたドイツ製アスファルトに関して、特許を持っていると主張する日本人が現れたそうなんです。その人が特許権侵害を主張したという事件ですが、訴えた相手が、アスファルトのメーカーでも建築業者でもなく、当時の日銀総裁だったというんです。そっちを訴えるんだって(笑)。  ――訴える相手を間違えていますね(笑)。  友利 訴訟技術や法律への理解といったテクニカルなところは、当時はまだまだ未発達だったのでしょう。他方で、自分が考えた発明やアイディアの権利に対するこだわりは今とあまり変わりないのかもしれません。当時から特許に対する強い意識を持って動いている人がいたんだという発見がこの事件にはありました。  ――他に気になった事件はありますか?  友利 1896年(明治29年)10月28日の「〔著作権事件〕興行権主張に機能なし」も面白かったです。これは古典作品の版権と興行権を内務省に登録した人がいて、その権利をもとに、その古典を使って興行をしていた人に訴訟をちらつかせて興行料を請求したのですが、その古典作品はその人の作品ではありませんから、これは要するに「エセ著作権」だということで、警視庁がこの人の主張には何の権限もありませんと各所に通達したという事件です。明治29年からそういうチート的な権利行使をする人がいた好例です。  それから、1917年(大正6年)5月6日の「〔商標事件〕蘭領ジャワにおける商標問題報道」。中国の商人が日本製の綿織物に使われていた商標を剽窃して、東インド諸島で商標登録したという事件です。他人のブランドを外国で勝手に商標登録してしまうというトラブルは、今も結構あります。人間の悪知恵は、100年経ってもさほど変わりがないんだなという感慨がありました。  ――友利さんの解説から、明治大正時代であっても今と同じような事件が起きていたことがわかりました。他に本書からはどのような発見がありましたか?  友利 知財の独占意識は実は今も昔もあまり変わりがないという話をしましたが、一方、どこまで独占させるのが正しいのかという制度上の基準や社会通念上の規範は、時代によってだいぶ違うということが見えてきました。  たとえば、明治、大正時代の日本の知財制度は、外国人の発明や著作権を保護しないのがスタンダードでした。これは今では通用しない考え方です。今は外国人であろうと、日本人であろうと、日本で成立した権利であれば保護するのが基本です。  でも、明治、大正時代の社会状況を鑑みると、当時の正しさの基準にも一理ある部分があります。当時の日本は、西洋の進んだ技術や思想をどんどん吸収して、それを真似て国を強くしていかなければならない、という社会情勢でした。そこで外国人の特許や著作権を保護すると、日本人の学びをある意味で阻害してしまう。だから、外国人の知的財産権を保護しないことが、この時代においては正しい基準だったのです。  ――歴史の裏の一面が見えますね。  友利 ところが、列強諸国から不平等条約を改正するかわりに、外国人の商標権、特許権、著作権を認めろと強く迫られます。不平等条約改正という歴史上の大きなムーブメントの裏でそういう動きがあったのです。本事典からは、明治の後半から大正にかけて日本側が外国人の知的財産権を認めていく過程が見えてきます。  ――知財をダシにした 〝ディール〟が行われた、と。  友利 しかし、外圧による法改正が先行すると、法律上の基準と、現実の日本社会における人々の規範意識にギャップが生じてしまうことがあります。  その歪みが顕在化した事件のひとつが、1931年(昭和6年)の項目にある「〔著作権事件〕〝プラーゲ旋風〟起こる」。これはヨーロッパの著作権管理団体の代理人だというドイツ人のプラーゲという人が突如来日し、日本で洋楽を扱っている音楽業界や放送業界などを訴えまくったんです。  ――急に、ですか?  友利 しかも、見境なく訴えまくったので、みんな驚いてしまったんですよ。たしかにこの時点で制度上は外国人の著作権を守ることが定められていましたが、実際は著作権料がちゃんと払われていたわけではなかったようです。この頃はまだ、明治初期の正しさの基準が残っていたため、人々の規範意識が制度に追いついていなかったんです。  この昭和6年のプラーゲによる強行的な権利行使にみんな困り果ててしまい、1934年(昭和9年)1月20日に「〔著作権〕「ベルヌ条約」脱退論」が出ます。ベルヌ条約とは条約加盟国の著作権を等しく保護するための国際条約ですが、そこから脱退すべきだという声が挙がります。  ――時代的にだんだんきな臭くなってきましたね(笑)。  友利 国際連盟脱退論に通じますよね(笑)。結局、いきなりやってきたプラーゲのやり方も、外国人に著作権を管理されるのも気に食わないからということで、日本国内での音楽の著作権は、日本人が管理するべきだという機運が高まり、1939年(昭和14年)11月21日の「〔団体〕大日本音楽著作権協会設立」に至ります。つまり、今のJASRACがここで誕生するのです。  現代の制度は、こうした歴史の必然の積み重ねの上に成り立っていると言えますから、決して急にできたわけではないということです。そして、日本の知財に関する規範意識は、こうした個々の出来事をきっかけに調整されていった。そのような流れもこの事典からは読み取れます。  ――冒頭にも言ったように、最近は知財関連の話題を目にすることが増えていて、特にAIと知財の関係が取り沙汰されています。そういった動向の中で、今、知財の歴史を学ぶ意義はどういうところにあるとお考えですか?  友利 まさに、今はAIの問題がホットトピックで、本書でも2024、25年の項目で取り上げられる多くがAIの話題です。ただ、同時代の出来事すぎて、これらが知財史上、どのような意味を持つのか、冷静に振り返るのはまだ難しい。でも、この先、10年後、30年後に読み返したときに、それが分かるんだろうと思います。  知財の歴史を学ぶ意義は何かというと、同じような出来事が過去にもあったという気づきにあるのではないでしょうか。現在進行形で巻き起こる、AIにまつわる問題を巡っては、日々、学者、技術者、クリエイター、実務家、ユーザーが侃々諤々やっています。でも本書を読むと、過去にも、今と似たような出来事が繰り返されていることに気づかされます。2000年代にはファイル交換ソフトの問題がありましたし、さらに遡ればコピー機、ビデオ、有線放送など、その時々で新しいテクノロジーやビジネスモデルが生まれていて、その便利さと知財保護のバランス調整を、人類は繰り返し迫られてきたのです。  その時、歴史の当事者たちはどういった議論をして、あるいはトラブルを起こして、それらをどう着地させ、法律や規範を作り上げてきたのか。そのお手本となるトピックが歴史のなかからたくさん見出せます。  そこを参照しないで、「今」だけを見て、AIをどうするんだということだけに議論を終始するのは迂遠というか、非効率な議論になってしまう怖れがあります。現在直面している問題のヒントは、案外歴史の中にたくさん転がっています。そういう意味でも、知財の問題が注目されている今、知財の歴史を学ぶ意義は十分にあると思います。(おわり)

書籍

書籍名 日本知的財産史事典
ISBN13 9784816930515
ISBN10 4816930515