破壊の社会学
荻野 昌弘・足立 重和・山 泰幸編著
德宮 俊貴
また一人、日本と世界の社会学界で異彩をはなつ理論的指導者が、大学教育の任を全うしてその現場を退いた。稀代の社会学者・荻野昌弘氏の定年退職を祝し、「破壊の社会学」という新領域を切りひらくことをめざして編まれた本論集は、「死から捉える社会」「破壊と社会秩序」「社会の余白と暴力」「社会の再生のために」の四部構成になる。氏から多大な影響をうけた総勢二八名、全二七章の各論的な紹介に限られた紙幅を費やすのは野暮だから、一冊全体にかかわる内容を掘り下げてみよう。
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社会学のニュー・スタンダード。これが率直な第一印象だ。本書が(荻野が)あつかう暴力、死、文化遺産、戦争、震災、病、犯罪、いじめ、開発といった現象のなかには、編者が自認するとおり社会(学)の周縁と見なされてきたものが少なくないし、家族や学校などの身近な存在を例にとったありがちな教科書でまくしたてられる社会学用語も、社会学史(と称した偉人列伝)で初学者がかならず教わるエミール・デュルケームやマックス・ヴェーバーら古典的な社会学者も、本書にはほとんど登場しない。にもかかわらず、自前の理屈でもって些細な出来事を社会の全体構造へ結びつける手つきからして、どの章も社会学的思考のセンスがほとばしっているのだ。邪道にして王道とでも形容すべき荻野の学統が存分にうけつがれている。
それだけに、ややもったいなく感じられた部分もなくはない。入門書を企図したわけではないだろうから、ある程度の前提知識が求められるのは仕方ないにせよ、多彩な執筆陣によっていささか性急に応用編が展開されたことで、破壊の社会学の輪郭がかえってぼやけ、新ジャンルを打ち立てようとする一書をとおしての主張が薄らいでしまったような印象を受ける。各章の布置に見取り図を与え破壊の社会学を定式化してくれる序論が巻頭におかれていれば、読者の理解と感動はいっそう深まったにちがいない。
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評者が理解したかぎりではあるが、破壊の社会学あるいは荻野理論の要点を集約するなら、僭越ながら次のように整理することができそうだ。
およそ社会秩序というものは、戦争や災害などの「事件」によっていつ破壊されるともわからない中かろうじて再生産される、もろく危うい構築物にほかならない。伝統的に、共同体の秩序は死者とのかかわりを表象することによって形成され、維持されていた(=追憶の秩序)。共同体外部の他者との対等な商品交換からなる市場経済の進行は追憶の秩序と矛盾するため、フィクショナルにこれを統制するからくりとして国家が登場する。他者の生産物(商品や文化遺産)への思惑が渦まく近代資本主義国家の闖入は、不ぞろいな都市開発にともなう空間のひずみを排出しながら社会的な移動と分断を助長し、人間関係や社会秩序を容赦なく破壊する。破壊された地点では、たんに追憶の秩序が資本主義的秩序におきかわるわけではなく、「余白」(平常時の社会階層や善悪がまるごとご破算になる無法地帯)が生じる。それゆえに、(詐欺や暴力と渾然一体となって)まったく新しい秩序がゼロから立ち上ってくる可能性を余白は同時にはらんでいる。再生産の局面ばかり論じてきた従来の社会学に対し、破壊にこそ目を向け、第三者から見た必然性(因果関係)のみならず当事者にとっての不条理(偶然性や突発性)を理解するとともに、既定の社会秩序があらかじめ区分しておいた他者像に回収されることなくむしろ脱構築するような能動的な他者として、余白から立ち上る新しい秩序を展望する(ときには構想する)のが破壊の社会学である。
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近代社会において共同体秩序が資本主義に侵されるという認識は、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ(フェルディナント・テンニース)とか、システムによる生活世界の植民地化(ユルゲン・ハーバーマス)といった社会学者にはおなじみの図式に一見よく似ているけれど、何をおいても余白を発見するところに破壊の社会学=荻野理論の独自性はあるだろう。しかし、これを継承し発展させるにあたっては課題が残されているように感じられる。本書においては、資本主義による追憶の秩序の破壊と資本主義そのものをのりこえる破壊との区別が曖昧なままになっている。仮に「破壊Ⅰ」「破壊Ⅱ」と名づけておくなら、破壊の社会学=荻野理論の創造性はまちがいなく後者にある。破壊Ⅱの可能性を問うことが今後の理論的な主題になるわけだ。
明言はされないが、三つの方向性で本書はゆれているように読める。
第一に、(現代版の)追憶の秩序の再興。だが、科学技術の発展とともにグローバル化と個人化がこれだけ進んだ時代にあって、死者への(集合的な)想像力をとりもどすというのは現実味に欠けるし、復古主義にも受けとられかねない。
第二に、資本主義をもって資本主義を破壊するという一種の加速主義。本書がくりかえし指摘するように、出自や身分などの社会階層を貨幣の力はたしかに破壊する。と同時に、この先だつものをどれだけもちあわせているかで人びとを画然と序列づけもするはずだ。平準化と序列化という一見矛盾する作用こそ、まさにコインの両面なのである。結局、資本主義による破壊は資本主義内部での再編成にしかなりえず、破壊Ⅱに内在的には到達できないのではないだろうか。
第三に、資本主義と根柢から切り結ぶ贈与への意志。贈与なる概念は多くの論客がそれぞれに意味づけすぎて錯綜しているので、(欺かれようとも)見返りを求めぬ無償性を強調するために、あえて喜捨といいかえてもいいだろう。とりわけ荻野はここに――私的所有と等価交換と貨幣経済と市場主義を支える秩序の底がぬけた余白のもと、他者との即興的で直接的な出会いにこそあらわれる純粋贈与に――可能性を見いだそうとしているようだ。
そして、贈与(と対をなす享受と)は官能的な関係・行為であると評者は直観しているが、それ以上の確信が荻野にはあるように思えてならない。破壊の社会学の次なる展開は、すでに本書に示唆されているところである。(とくみや・としき=大阪産業大学講師・社会学)
★おぎの・まさひろ=関西学院大学名誉教授・関西学院理事長・社会学。著書に『零度の社会詐欺と贈与の社会学』『開発空間の暴力』など。
★あだち・しげかず=追手門学院大学社会学部教授・社会学・文化人類学。著書に『郡上八幡 伝統を生きる 地域社会の語りとリアリティ』など。
★やま・よしゆき=関西学院大学人間福祉学部教授・学部長・社会学・地域防災。関西学院大学災害復興制度研究所所長。著書に『江戸の思想闘争』など。一九七〇年生。
書籍
書籍名 | 破壊の社会学 |
ISBN13 | 9784862833921 |
ISBN10 | 4862833926 |