2025/05/16号

文学ノート*大江健三郎

対談=工藤庸子・王寺賢太<大江健三郎と戦後文学を読む>工藤庸子著『文学ノート*大江健三郎』(講談社)刊行を機に
<大江健三郎と戦後文学を読む>対談=工藤庸子・王子賢太  フランス文学者の工藤庸子氏が、五二六頁におよぶ大作文芸批評『文学ノート*大江健三郎』(講談社)を上梓した。刊行を機に、大江健三郎文庫(東京大学文学部内)運営委員を務める王寺賢太氏(東京大学教授)と対談をしてもらった。(編集部)  王寺 『文学ノート*大江健三郎』、とても面白く読ませていただきました。この本は、工藤さんの前著『大江健三郎と「晩年の仕事」』を承け、大江健三郎にとって「戦後文学」「戦後の精神」とは何だったのかを問うものです。この問いは必然的に、大江さんの仕事を通じて第二次世界大戦後の日本で「戦争と文学」「政治と文学」あるいは「歴史と文学」の関係を問うことにも結びつく。この非常に大きな問いに答えるのが、この本では、第Ⅰ部の大岡昇平と大江健三郎の交錯的読解、第Ⅱ部の大江健三郎と蓮實重彥の交錯的読解、そして第Ⅲ部の『万延元年のフットボール』と『同時代ゲーム』の作品論からなる三部構成ということになります。さらに各部冒頭と巻末には「このノートのためのノート(一)〜(三)」と「しめくくりのノート――女性と大江文学」が置かれている。  書名の『文学ノート』も「このノートのためのノート」も、工藤さんは最初から大江さんの『文学ノート 付=15篇』の「もじり」「まね」であることを宣言しておられます。ただし、大江さんの『文学ノート』が、『洪水はわが魂に及び』執筆中の作家自身による「書く行為」についての反省だったのに対し、工藤さんの本は、大江作品を読み、また大江さんが読んだものを読み、さらにそれについて書くご自身のwork in progressの記録であり、少女時代以来の回顧でもあれば自省録でもある。このずれを孕んだ反復がこの本の読みどころだなと思います。  というのも、この大江の積極的な模倣こそが、従来きわめて男性中心主義的な日本の文壇の中で論じられてきた「戦後文学」、「政治と文学」という問題に対する独自のアプローチを示しているからです。つまり、「戦後文学」や戦後における「政治と文学」の問題を考える際に、必ずしもそこにアクセスができなかった女性の側から、一定の距離をとりつつ、あらためて読みなおし、書きなおす際の工藤さんのスタイルを作っている。工藤さんは本書の冒頭で、ヴァージニア・ウルフの反戦論『三ギニー』から「戦争を阻止するためのわたしたちの最善の手助けとは、あなたがたの言葉を繰り返し、あなたがたの方法にしたがうのではなく、新しい言葉を見つけ、新しい方法を創造することです」という一節を引用されています。この「新しい言葉を見つけ、新しい方法を創造すること」に、工藤さんの見る「政治性」があり、「文学」における「政治的なもの」もある、ということでしょう。あるいは、この本では、作品を書くこと自体の政治性が問題になる。工藤さんはそれを大江健三郎を模倣し、反復することによって果たしておられる。  方法論的には、まず大江健三郎の小説作品と批評・時事評論を横断的に読み、大江の著作総体の中で、あちこちに見られる言葉の照応を丁寧に拾いあげていくこと。さらに、大江健三郎という貪欲な読み手に付き従い、テクスト上の言葉の反響から同時代の文学者との同時代性を浮かび上がらせ、大江から同時代の作家・批評家を、また同時代の作家・批評家から大江を読みなおすことが目指されています。この点、第Ⅰ部では、大江にとって最も敬愛する戦後文学者の一人であった大岡昇平が、第Ⅱ部では、大江と同世代の東大仏文の同窓生で、大江の後を追うように七〇年代に颯爽と批評界に登場しながら、相互に親しく付き合うことのなかった蓮實重彥が、大江との交錯的読解の対象としてとりあげられる。この第Ⅱ部が本書の最もポレミカルな要にして、第Ⅰ部と第Ⅲ部をつなぐ蝶番になっていると私は読みました。それに関して言えば、第Ⅲ部の『万延元年のフットボール』と『同時代ゲーム』の読解で、工藤さんがひそかに蓮實さんの大江論と袂をわかっているようにもお見受けしました。この点をどう理解するかが本書の読解の鍵になるかなと思っています。最後に、この本では、作家や作品が置かれた言語環境、テクストの外の言葉や声の行き交う環境にたえず注意が払われている。その関心は最終的に、巻末の『同時代ゲーム』論では、「伝承」の問題と結びつけられることになる。人々が互いに語ることと、小説や文学における書くこととは、どんなかかわりを持つのかという問いが、この本の通奏低音になっているわけですね。  前置きが長くなりましたが、この本の構想がどこから生じ、三年に及ぶ『群像』での連載の過程でどのように発展していったのか、またその間には、大江さん自身も亡くなっていますが、そのことが工藤さんの読みを変化させるようなことがあったかどうか――まずはそこからお話をうかがえますか。  工藤 ほとんどすべてを、見事に語っていただいたと感じます。最後の質問からお答えしますね。大江さんが亡くなったことと大江論を書くことのあいだに何か影響関係があったのか。そこはほとんど無関係だと思う。私は「大江文学」と向き合うのであって、書き始めれば、生身の大江さんのことはほとんど考えない。それは蓮實さんに対しても同じことで、「蓮實批評」のテクストと向き合うのであり、存在としての蓮實重彥のことは考えない。そのことを前提として、この本を書くことになった背景を、少しお話しします。私が学生の頃から、大江文学に女性はアクセスできないという状況があった。王寺さんが紹介してくださったヴァージニア・ウルフの問題提起です。読むことを禁じられていたのではないけれど、一介の女性に向かい「大江文学について、お考えをお聞かせください」などと問う人は、金輪際いるはずもなかった。ご指摘のように、「戦後文学」「戦後の精神」といった大きな問題についての「批評的な言説」を、女性に期待することなど、たぶん全くなかったのです。これは戦後の問題というよりむしろ、維新以来、近代日本が蓄積してきた巨大な構造的ひずみですね。そのことは、学生のときからずっと、何十年も考え続けてきました。  工藤 そんなわけで、大江さんの『晩年様式集』は、一読して、曖昧模糊としたものですが、衝撃を受けました。これと向き合えば何かしら書けるかもしれない、と思ったわけなのです。たぶん二つ理由を挙げることができる。長江古義人という大江さん自身と重なるところのある小説家が「小説を書くこと」をやめる話です。作家の親族である三人の女が、発言権を要求し、じっさい原稿を書いたりもする。若い頃から海外に出ていた大江さんは、おそらく非常に早い時期から、日本社会のジェンダー構造のひずみに気づいておられたと思うのです。それはそれとして、じつは大江さんも、それから蓮實さんも、「ジェンダー」という言葉を決して使わない。差別や格差をめぐる「クリシェ」に陥りがちな議論からは遠ざかる、ということではないかと思うのですけれど。ともかく、この作品は絶対に女が論じなければいけない、私は即座にそう思った。ただし、この「ジェンダー」的な物語は、読めばわかるように書かれているのだけれど、たとえば女たちが発言するようになったから男性の作家は黙る、という因果関係のようなものをそこに認めて安心してしまったら、それこそ短絡的な「クリシェ」の読解に終わってしまいます。一方で、小説家が「小説を書くこと」をやめる話を書く、というのは批評性の極北みたいな、まさに危機的な営みでしょう? フロベールやジョイスなどを多少は読んできた者として、まあ、入口から覗いてみるぐらいのことはやってみたい。二重の意味で、大江文学に誘惑された気がして、これは私がやってみるべきじゃないの?(笑)と自惚れました。  二〇一三年に、そのような衝撃を『晩年様式集』から受けて、ちょうど十年がたち、『大江健三郎と「晩年の仕事」』が刊行されました。二〇一八年に講談社の『大江健三郎全小説』全15巻の刊行開始。これに合わせてブログで小手調べのようなエッセイを書いてみたら、「群像」の編集者が目にとめてくださった。翌年の大江健三郎特集号に掲載されたものは、読み切り評論のようにも見えますが、じつは「晩年の仕事」六作品の全てを論じる構想なのだということがわかるように書いてあって、編集サイドから、あらためて連載のご提案をいただきました。時代も、そのように動いていたということでしょうね。書き終えた時の解放感は本当に大きかった。私個人の問題じゃないと思って、何十年も抱え込んできた鬱屈のようなものがありましたから。  『文学ノート*大江健三郎』の内容については、おいおいお話しするとして、先ほど指摘してくださった「模倣」ということについて、大切な視点なので、ここで応答しておきます。もちろん意図的に模倣しているんです。模倣というのは、だまって「貰っちゃう」ことなんですよね。つまり女の批評言語なんて存在しないわけでしょ? 日本の伝統的な批評言語は文体から思考法まで、オトコモノ。そう私は感じてきました。大江さんの文体や論述の形式を借りて、自分なりに変奏していけば、模倣された側との間に微妙な距離ができ、とりあえずの批評のスタイルを、少なくともその場では見せることができる。そういう意味では、相手次第です。大江さんのエクリチュールは、両性具有だという実感をもちましたね。ちなみに、真の作家は「両性具有」だというのは、これもウルフの指摘。そうした書き方のスタンスがどこから来ているかというと、じつは私、一九八〇年代から、作品論を書くことは、毛糸のソックスを編むことに似ている、と思っていました。決して締め付けないで、緩やかに温かく作品をくるんでいく。またもや、ですけれど、この話も、ヒントはヴァージニア・ウルフ(笑)。  王寺 私は編み物はしませんが(笑)、私自身、大江にせよ古井由吉にせよ中上健次にせよ、同時代の小説を読みながら、自分自身の言葉の体系を変え、主体のあり方を変えてきたという感覚はあります。他者の言葉なり文体なりに読み手が染まることで、読み手自身のなかに違う次元が生まれる。それが小説を読むことの重要な経験だと思ってきたので、工藤さんが「模倣」を大きな契機として大江作品にアクセスしておられることには、非常に共感しました。批評や哲学は、後から来る言説であるだけに、どうしても対象を支配するメタ言説になってしまうリスクがつきまとう。文芸批評の場がきわめて男性中心主義的だったことの背景には、そんな経緯もあるはずです。その批評の無自覚なマッチスモを回避する工夫がなされているように感じたんですね。  続いて、大岡昇平と大江健三郎を交錯させる第Ⅰ部についてうかがいます。ここは戦中・戦後の文学史を二人の文学者の交錯を通じて書くという意味では大変苦労なさった部分だと思いますが、それ以前に、戦争こそが、歴史的に言って、兵士たりうる男性を主体として特権化する男性中心主義の核心にあり、女性を政治的主体とすることから遠ざけてきたことを思わされました。工藤さんは、その主題に正面から切り込む。ただしその際にも、工藤さんはたとえば大岡の『野火』のなかで、人肉食の忌避が語られる有名な場面から、主人公が野に咲く花にエロティックな誘惑を感じる一節にふと目を留めたりしておられますね。大岡昇平は頑固な戦後文学者であったと同時に、非常に色気のある人でもありました。男たちの地獄とでも言えそうな戦場のただなかに、その大岡さんの色気がすっと現れるようで素晴らしかった。  王寺 この第Ⅰ部については、大江さんと対比される戦後文学者が、なぜ大岡昇平なのかと問うことができると思います。工藤さんはこの点、大江自身の世界文学との関係における先行者として、そしてとりわけ、政治と文学の問題をマルクス主義との関係において考えなかった文学者としての大岡の意義を強調しておられます。大岡さんにとって、政治とは、誰もがあらかじめ巻き込まれてあるものだった。それは文学とは対極にあるけれども、誰にも拒否することはできない。その状況の中で、一人の個人としてどうふるまい、どう書くかが問題になる。そういうかたちで、政治と文学を切り離さない立場を大岡さんは維持し続けた、ということになるでしょうか。一九七〇年代以降、言語・言説の上での政治という問題が浮上する際に、非常に重要な先行者として大岡昇平がいる。この見立ては非常に面白く受けとりました。この本では、批評家・文学史家としての中村光夫も大岡とパラレルに置かれており、その後の蓮實さんまで含めて、「政治と文学」という問題に、文学の政治的効用とか、政治に対する文学の自律性といった観点からアプローチしたマルクス主義本流とは少しずれたところから取り組んだフランス文学者たちの系譜を見ることもできる。この第Ⅰ部では、特に『俘虜記』と『レイテ戦記』を扱ったところが素晴らしかった。あちこちでついホロっとしてしまいました。  工藤 「マルクス主義本流とは少しずれたところ」という位置づけ、その通りだと思います。いずれにせよ『レイテ戦記』を読まずして戦争を語るな、といいたいですね。小説、すなわち「散文のフィクション」でなければ書けない「戦争というもの」を大岡さんはお書きになった。  王寺 工藤さんは、大江さんが『レイテ戦記』をどんなふうに読んだのかを丁寧に辿り、そこからご自分の読解を展開しています。そして大江さんに倣って、この作品は「全体小説」だと断言してみせる。とはいえ、野間宏や埴谷雄高みたいに最終的に弁証法的に統合される「全体小説」ではない。『レイテ戦記』の「全体性」は、公的な記録や戦史から個々の兵士に至るまで、さまざまな視点からの証言を逐一検討し、たがいに突き合わせながら構成されるものだからですね。  工藤 そうそう、井畑一等兵の話とか、いいでしょう? 一般に「戦記」とは、書く権利や書く能力を持つ社会的エリートたちの証言から成るものだという了解がありますよね。そこへいきなり、無名の兵卒たちの一人に名前と言葉を与えることで、大岡さんとしては許せない軍隊的言語的秩序を、颯爽とひっくり返す。  王寺 「井畑一等兵」として『レイテ戦記』で名ざされる下級兵士が、実は『俘虜記』に匿名で現れる、紀伊半島出身のヤクザ上がりで、戦傷で声を失った俘虜と同一人物であることを工藤さんはさらりと示してみせる。それとともに、大岡さんが俘虜収容所で親しく付き合ったこの井畑一等兵から、筆談や身振り手振りを交えて教わったことを『レイテ戦記』のなかで一兵卒の証言としてとりあげていることが明かされるわけです。物理的に語ることもできなくなった兵士たちの言葉にもならない言葉をすくいあげる大岡さんの姿勢と、小説でしか書けない「歴史」のありさまが、あの指摘からくっきり立ち現れる感がありました。  工藤 語られる言葉、書かれる言葉、記録される言葉……いろいろな言葉が交錯する磁場に身を置いた大岡さんが、戦争というものを、いかに細やかに、かつ雄大に、造形していったのか。作品世界が生成するプロセスを、大江さんのガイドに従ってゆっくり読みとっていくのは、じつに豊かな経験でした。  王寺 そういうところに注意が向くのは、優れた小説読みならではですね。  工藤 編み物というのは、全体も細部も、対象の形をよくわかってあげなきゃいけないわけ(笑)。作品を優しく包みこむのだから。  王寺 その点、さらに素晴らしかったのが、大岡さんの特攻の評価について論じておられるところです。大岡さんは、戦争終結を遅らせるためだけに特攻を計画した軍部・国家の愚劣を断固批判しつつ、自ら死に赴いた兵士たちへの「誇り」を語る。「今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない」。この大岡さんの言葉を大江さんが引用し、さらに工藤さんが引用する。  工藤 大岡さんのその言葉は、大江さんの信じるところでもあるわけですね。そこは引用するだけでいい、と思いました。  王寺 ええ。こうやっていろんな人たちの声が一つの文章の上に重なり合う。天下国家に対する悲憤慷慨があり、同時に、その中に巻き込まれて自ら死に赴く選択を強いられた人たちに対する共感がある。それとともに、戦死者たちの記憶がさまざまな声で変奏され、繰り返し現前する。これこそが「戦後」であり、「戦後文学」だったんだなという思いを抱かされました。  工藤 引用すること、つまり復唱することって、「祈り」に似ているような気がしませんか……。戦争に関わる問題を、女性のエクリチュールで反芻・反復するのは無意味ではない。その感覚は書きながら常にありました。  王寺 工藤さんは「残酷さ」の描写に関して、自分は文学少女だったけれど戦争文学なんて読もうともしなかったと書かれていて、そのこと自体に対して疑問を呈しておられます。こうしてそこかしこに差し挟まれた書き手の自己言及が、繰り返し女性の書き手としてのご自身の立場を読者に明示する。結果として、戦争からも戦争文学からも隔てられてきた女性の立場から、その隔たりを超えてゆこうとする意志、これは書いておきたい、反復しておきたいという思いが強く伝わります。『レイテ戦記』を論じた章は、本当に感銘を受けながら読みました。  工藤 そのように読んでいただけて、嬉しいです。女性と戦争の隔たり、というご指摘、その通りですね。私は大学でフランス近代小説を専攻するようになってから、ナポレオンとの関係で『戦争と平和』は何度も読み返したし、クラウゼヴィッツの『戦争論』まで読んだのに、日本の『レイテ戦記』はずっと本棚に鎮座したままだった。怠惰を反省するというだけじゃなくて、なぜこれを読まなかったのか?と問いなおすことで、いわば戦後という時代を生きなおすことができるように思いました。『レイテ戦記』は、とりわけ女性に読んでもらいたいですね。  王寺 第Ⅰ部についてはもう一つ。工藤さんが重要な参照項にしている『同時代としての戦後』で、大江さんは戦後文学者たちの「終末観的ヴィジョン・黙示録的認識」について語っていました。工藤さんによれば、大岡の「終末観的ヴィジョン」は、空間の広がりを前にしてふっと「不安」を覚えるような作家の「存在の根源的なありよう」に結びついている。それはたしかに、「今日ではまったく消滅してしまった」特攻隊員の意志に希望を見出す、無常感と生成の永遠性がないまぜになった両義的な感覚に通じていますね。だとすると、大岡の「終末観的ヴィジョン」が示すのは、いわば「終わりがない」ことであり、だからこそそこには「希望」が成立するということになるでしょうか。このことは、大江の『同時代としての戦後』が、三島の自決を「日本人全体への「侮辱」」とし、これに対する反駁として記されていることにもかかわるように思います。自決によって自分で勝手に終わらせてしまった三島に対して、大江さんは、終わりなどないこと、終わりこそが始まりをもたらすことを戦後文学者の認識として対置する。  工藤 すぐれた読み解きだと思います。三島由紀夫の問題については、王寺さんのほうが何か重要な問題系のようなものを捉えておられるのではないでしょうか。『同時代としての戦後』は各章に「戦後作家」の名にあたいする作家の名が掲げられていて、それらはオマージュとしての作家論なのだけれど、終章は「死者たち・最終のヴィジョンとわれら生きのびつづける者」という長いタイトルで、そこに三島の名は掲げられていない。ただし、じつは全面的な、それこそ真剣勝負の三島批判です。本当は、この重層性を強調して論じなければ、『同時代としての戦後』という評論集の全体を語ったことにならない。それは自分で書いている時にもわかっていたけれど、「大岡×大江」という当面の文脈をはなれて大きな問題に踏みこみたくはなかった。  王寺 今回は、言わずにやりすごすことで、ある種の立場を示すということですね。  工藤 まあ、言い訳をすれば、そういうことになると思います。一見それらしく、切腹などしたけれど、作家としての黙示録的認識は三島にはない。大江さんはそのように思っている。ただそれだけのことを確認すればよい、と。  王寺 大江健三郎における三島問題は天皇制問題にもかかわるので、またあとで立ち返らせてください。続いて第Ⅱ部では、大江さん自身がもっとも幸福な時期だったと回顧している七〇年代に焦点を合わせて論じられています。それは日本では、蓮實さんが批評言語を刷新していく時代でもあった。同時代にありながらほとんど没交渉だったこの二人の文学者を、工藤さんは言語への肉体的な接近と、言語自体の制度性・政治性の認識において出会わせる。そこにはバルトのような共通の参照項の存在があったことも示されています。  工藤さんにとっては、七〇年代はフランス留学を終えて研究者として独り立ちしていく時期にも重なっています。そんな経緯もあって、工藤さんが当時から現在まで続く文学をめぐる言語環境やフェミニズムのあり方について率直に物申しておられるのもこの第Ⅱ部です。たとえば、「最優先は、大江自身の「作品」を読むこと、それも「小説」と「評論」を読み合わせながら、繰りかえし「大江文学」へのアクセスを自分で試みることじゃないの?」なんていう下り、私にとっては、かつて自分が習った教師としての工藤さんの口吻を思わせました。  工藤 大江さん自身が晩年の〈レイト・ワーク〉の時代から、Rereadingということをはっきりいいはじめる。これは何かといえば、ただ「作品を読みなおそう」ということ、それも「構造のパースペクティヴ」の中で読みなおそうということです。作品というのは作家が命がけで書くものであるから、その作品にちゃんと向き合って欲しい。大江さんの教えを、私は愚直に実践しようとしているだけです。大学で教えていたときも、「テクストは舐めるように読みましょう」と繰り返しいっていました。それが言葉をモノとして受け取る方法だと思う。  王寺 それは私にとっても、東大仏文で学んだ最大の教えでした。工藤さんは私にとっては仏文の先輩でもあるわけですが、工藤さんの場合、そうやって文学作品を読むスタイルはどこで身につけられたものなんですか。  工藤 テクストを徹底的に読んで分析するという姿勢は、フランスで学んだ気がしますね。特に誰から習ったということではなく、言葉ひとつひとつの手触りを、いかに確かめていくか、その営み自体が「文学」であるという感覚は、何となく身につけたような気がする。それと私が留学する前から、フランスでは批評そのものがクローズアップされていたんですね。先頭を切ったのがフロベール研究です。ラディカルに、あらゆる方法が試みられ、散文研究の最先端になっていた。そうした研究の動向は、これは当然のことですが、大学院の頃からずっとフォローしていました。  王寺 読むこと自体の自覚化が、六〇年代から七〇年代の批評を通じて進んだ。その最先端にフロベール研究が置かれていたわけですね。  工藤 はい、その通りです。手に入るものを片端から一生懸命読んでいました。そこには構造主義的なものも文学社会学的なものも、精神分析もナラトロジーも言語論も主題論も、全部入っている。自然に批評の方法論を学ぶことになりました。  王寺 この本は、戦後の「文学少女」として出発した工藤さんが、その文学経験を経て、大江健三郎を論じ、戦後文学を論じる女性の書き手になっていくビルドゥングスロマンの趣ももっていますが、六〇年代から七〇年代にかけて、工藤さんは、批評家としてデビューする前の蓮實重彥に出会っておられますね。フロベール研究の直近の先輩でもある蓮實さんを当時どんな風に見ておられましたか。  工藤 蓮實さんとの学年の差は八年です。私の世代の学生たちは、皆そう見ていたと思うけれど、カッコイイ先輩、というひと言に尽きる。助手になったばかりの蓮實さんが、満席の大教室の壇上に姿を見せるということがありました。一九六六年、ロラン・バルトが来日した時のことですが、講演会で通訳をされて、それは見事なデビューでした。当時は学生がフランスにいくこと自体、大変な時期でしたし、東大がフランス人の作家を招聘するのは、いってみれば大事件です。ロラン・バルトと蓮實重彥が穏やかに壇上に並んでいるだけで、目前に異文化との堅強な橋が架けられたような感動がありました。それは、会場にいた者たち皆が感じたことだったと思いますよ。その二年後、蓮實さんが『フロベール全集別巻』の「解説」を書かれて、これが本当に素晴らしいものでした。「ヌーヴェル・クリティック」と呼ばれていた新傾向の批評家たちのなかで、蓮實さんが特に身近に感じていたのは、ジャン=ピエール・リシャールやロラン・バルトでしょうね。リシャールについては、一九七四年の『批評 あるいは仮死の祭典』の巻末に、リシャール批判とも読める評論を収めています。あれを読んで、勝負あったと感じた人は、少なくなかったはず。蓮實さんは、リシャールの限界を見据えたうえで、その後、独自のテマティスム(主題論)の道を歩みはじめる。ここまでの進み行きは非常にはっきりしていて、私も修士論文ではフロベールのことを書いたりしてますから、当たり前のこととして、読むべきものは読んでおりました。ただし、日本の小説についての先鋭な「表層批評」や、映画論については、熱心な読者ではなかったと思う。  王寺 今回の本に引きつけると、たとえば大江と大岡と蓮實を突き合わせる、あるいはその外郭に『二葉亭四迷伝』の著者中村光夫を配するといった工藤さんの身振りには、蓮實さんがフランスの同時代の批評や哲学を導入した際の、日本側の文脈を示す意義もあると思います。それは同時に、小林秀雄を本尊として展開してきた日本の文芸批評の文脈に対して一線を画そうとする批評的スタンスとも結びついている。その工藤さんにとって、小林秀雄的なものってどんなものだったのか。あるいはどのような現象として触知されていたのでしょうか。  工藤 私はマルキストじゃないから「疎外」という言葉は使いたくないけれども、まったく対話が成り立たない世界だろうという予感めいた距離感はありました。小林秀雄が、一介の女性に向かって「戦後文学」「戦後の精神」について語って下さい、などと提案するでしょうか? かりに小林的なものが、文壇や、学問の世界で、圧倒的な権威として脈々と生きつづけていれば、私に書く機会は訪れなかった。大江健三郎論を書く機会は、他ならぬ大江さん自身からいただいたと思っています。  王寺 個人的には、詩と作家を特権化する小林と、小説・散文とそのテクストに注意を向ける文学者たちの系譜の違いがあり、それぞれの主体のあり方の違い、言葉の行き交う空間の違いがあるように感じてきました。この小林的なものはどこか、かつての文学男子からいまどきの現代思想男子まで、文系男子の系譜に脈々と受け継がれているようにも思えます。この点に絡めて、「六八年」の運動とのかかわりについておうかがいします。「六八年」を戦後の一つのターニングポイントとして捉える歴史叙述に対して、工藤さんはむしろ「七〇年代」に焦点を合わせる。それ自体が「六八年」との距離をうかがわせる事態です。その点についてお話しいただけますか。  工藤 「文学男子」「現代思想男子」って、素敵な言葉ね(笑)。「文学女子」「現代思想女子」は存在しないということが自ずとわかる。王寺さんの母上は、私とほぼ同い年だそうですが、次世代の鋭い視線を感じて、とても満足しています。まず「一九七〇年代」という枠組みは、大江さん自身の捉え方に由来することをいっておかねばなりませんが、先立つ一九六八年については、大江さん、蓮實さんが、どのような立場から、どのような発言をしていたかを、一通り確認してみたところ、事態の推移に対する微妙な距離が認められた、というところまでは、今回の本に書きました。今度は、王寺さん自身の立ち位置から、時代を通観する「戦後民主主義批判」を書いていただきたい。もともと大江さんと「同時代」などというのは、特権でも何でもない。「同時代者」は、均質な環境の中で、同じ出来事について、共通の体験をしたのだろう、などと推測すること自体が間違っている。そのことは、私も自覚しているつもりです。そこで、この対談の趣旨からはみだしてしまいそうですが、私の「六八年」についてちょっとだけ……五月はボルドーにいました。大学の封鎖、舗道のバリケード、催涙弾、そしてゼネストまで、一通り体験して、ジュネーヴはレマン湖のほとりに「亡命」した。十月の初めに帰国。東大もスト決行中で、全共闘の人たちが喫茶店でサン・ジュストなどを読み、年が明けて安田講堂の攻防戦があり、やがて民青系の学生が中心となってスト終結のオルグが大々的に始まった。六月卒業ということで学生はキャンパスに戻り、東大は内ゲバも相対的には早く静まった。いったい何が起きているのか、全く理解できませんでした。フランスの五月革命は本場モノ、などと浅はかなことをいうつもりはありません。じっさい一九七〇年代の日本で、思想・文学・批評が「沸騰的」な活気を呈したことは事実なのですから。ただし、そこに女性の姿はなかったということは、繰り返し強調しておきたい。  王寺 工藤さんが、フランスでは「六八年」前後から「すべてを読み、理解し、発言する」フェミニストたちが登場してきたのに、日本ではどうしてそうならなかったのかと問いかけておられることとつながる立場ですね。私自身は「六八年」の後に生まれ育った元「男子」なので(笑)、「六八年」については、その当事者たちの望んでいたこととそこから帰結したことの齟齬はそれとして、けっして後出しジャンケンで済ませないように努めてきました。  王寺 工藤さんのおっしゃる通り、日本では「六八年」こそ、われわれがまだその中にいるらしい「戦後民主主義」をはじめて問題にした時でもあるからです。私にとっては、大江さんも蓮實さんもこの「六八年」をそれぞれの仕方で肯定し、それに答えた物書きですが、それは彼らが「六八年」の齟齬にことのほか敏感であったから、そして彼らが「戦後民主主義」の第一世代の子供でもあったからかもしれない――そんなことをご著書からは考えさせられました。  続いて第Ⅲ部「神話・歴史・伝承」に話を進めます。『万延元年』と『同時代ゲーム』の作品論が示される部分です。この後者は、大江さんが「遅れてきた構造主義者」などと自称して、さかんに神話学・人類学・民俗学を参照した時期の作品で、工藤さんもバシュラール、エリアーデ、山口昌男など、同時代の学者たちの著作の反響を認めておられる。のみならず、工藤さんは最近の大江研究の動向も踏まえつつ、柳田國男や折口信夫の民俗学が大江作品にどのような痕跡を残しているかを丁寧に指摘しておられます。『日本書紀』や『古事記』が『同時代ゲーム』冒頭から言及される以上、ある意味当然の関心の方向だと思います。蓮實さんはいみじくも『小説から遠く離れて』と題された評論集でこの作品をとりあげ、同時代の作家たちに反復される説話論的構造について語っていましたが、工藤さんはむしろ大江さんの「神話」や「元型」の探究を真剣に受けとるわけですね。  工藤 私は「蓮實論」ではなく「大江論」を書いている、という自覚は常にありました。大江文学における「神話」と「小説」の関係というのは、途方もなく大きな問題ですが、その重要さを的確に捉えた文章は、見たことがありません。ご指摘の「神話の元型」というのは、構造主義的な人類学の基本概念にあるものですよね。一方で大江さんは学生の時から、深瀬基寛訳のT・S・エリオットを通じてモダニズム文学の淵源としての古代神話に親しんでいる。『個人的な体験』の中にはウィリアム・ブレイクの絵が出てきますし、キャスリーン・レインのブレイク研究も、生涯の愛読書だったようです。つまり、こちらの系譜が先行している。たしかに『同時代ゲーム』という作品には、構造主義人類学と柳田民俗学が、まさに構造的に取り込まれているのですが、大江さんは一九八〇年代から神秘主義とネオプラトニズムの系譜にいっそう強く惹かれるようになる。W・B・イェイツを表題に引いた『燃えあがる緑の木』三部作は、その成果です。ちなみに、この三部作はオウム真理教の話を書いたものだという俗説があるようですが、作者自身が強く批判している安易な結びつけには用心しなければいけない。「俗説」が「通説」になり「定説」になれば、「批評」の試みは窒息してしまいます。今さらながら、ネオプラトニズムの源泉であるプラトンを読まなければいけないなあ、と考えているところです。  王寺 最初に、第Ⅲ部の工藤さんの大江論は蓮實さんの大江論と袂をわかっていると言いましたが、それはこの大江さんにおける「元型」の探究の評価にもかかわります。なにしろ「表層の意識がはっきりした把握に至りえぬ深部にあるものを読みとることで、共同体の「神話と歴史」の淵源に迫る」ことが、『同時代ゲーム』の主人公の探究の目標なのですから。この点が気になるのは、工藤さんの『万延元年のフットボール』読解が、蓮實さんが『大江健三郎論』でこの作品に認めた「本当のこと」の謎解きを目指す、根本的にロマン主義的なメロドラマという説話論的構造の読解にやんわり異論を呈しているせいです。  工藤さんの読解自体には説得されたのですが、その際、工藤さんは蓮實さんが『万延元年』の数のテマティスムを通じて、大江作品を「万世一系」の「一」だけは拒絶する反天皇制的な小説であるとぬけぬけと主張する箇所は素通りしてしまう。私にとって、蓮實さんの大江論の最大の読みどころは、物語批判において大江を退けつつ、テマティックな記号の散乱において大江を肯定し、その地点で両者のエールが交わされる点にあります。いかにも戦後第一世代の子供たちに特有のエールかもしれません。それだけに、工藤さんの繊細な作品読解が、ここで反天皇制というあからさまに政治的メッセージを迂回し、『同時代ゲーム』論では、それが天皇神話まで含む「元型」の探究に回収されるようなのがどうも気になるのです。大江を通じて戦後日本の「政治と文学」について語るとき、天皇制問題は避けて通れないと思うだけに。  工藤 鋭いご批判ですね。蓮實さんの大江論が「万世一系」の「一」で終わっているところを、なぜ無視したのか?複数の理由で、意図的に無視しました。そもそも私は「父と天皇制」という主題そのものが好きではない。なんで「母と天皇制」じゃないのよ?と馬鹿なことを考えてしまうから。でも『万延元年のフットボール』の中で「母」が「父」に対する批判を通じて「天皇制」に触れているところなどは、ちゃんと拾いました。一方で、『同時代ゲーム』は、あからさまに「父と天皇制」の話ですけれど、大江作品における「神話的な元型」の検証という作業は、当然やるべきだと思っただけで、目標ではありません。むしろ手に負えぬ作品に向きあった苦しまぎれのRereadingというべきで、「全体」にかかわる構造的なものとテクスト上の細部とを視野に収めようとして書いていたら、ああいうものが書けてしまった。これで、お応えになっているかどうか、わかりませんけれど……。  王寺 いや、工藤さんの意図的な迂回は重々承知の上で、作品論のレベルで「政治と文学」について論じることの難しさを感じさせられたので、あえてひとこと申し上げたまでです。ただ、工藤さんの『同時代ゲーム』読解からは、昔から苦手なこの小説をこんなふうに読めるんじゃないか、というヒントもいただきました。そもそも、この小説で神話や歴史の伝承の蒐集者・教育者であった「父=神主」の許からは一切の資料が消え、「僕」の手紙の宛名人であった「妹」は、「僕」の手紙の中に、「僕」の語りを通じてしか現れない。工藤さんも、大江が平田篤胤に触れて、篤胤の仕事が「「狐憑きのようなことになった」少年の意識・無意識のフィクションを一応信じるふりをし」たものではないかと語っていることに注目しておられます。私はこれを、自分の屁の中に包まれて「屁が「メビウスの輪」を作ったようですが!」という「僕」の滑稽な回想につなげて読みました。つまり、神話にせよ、歴史にせよ、繰り返し語りなおされることなしには存在しない。あるいは「元型」が「元型」として存在することはなく、それは常に「未来に向かって回想する」ように、無から前方に向かって反復する現在の語りなしにはありえない。いかにも雑駁ですが、工藤さんが『同時代ゲーム』の「小説的ユニット」について書かれたことを、私はそのように受け取りましたが、いかがでしょうか。  工藤 なるほど、面白い、賛成です。「屁が「メビウスの輪」を作ったようですが!」という台詞は、最高ですよね。モダニズム文学の神髄、といいたい。これは冗談ではなくて。  王寺 今回、工藤さんの本に寄り添いながら、一連の大江作品を読みなおして感じたことを最後に。学生時代から晩年に至るまで、大江さんはたえず旺盛に読み、旺盛に書き続けてくれた。その大江さんの仕事によって、読者は一九五〇年代から現在までをひとつながりのものとして感じることもできたし、古今東西の書物にも世界にも目を開かされてきた。『晩年様式集』の最後に詩が出てきたとき、もう大江さんは書かないんだなとは思いましたが、そうして二〇世紀後半から今までを大きな幹のようにしてつないでくれていた作家が、現実にいなくなってしまった。そのことに私はとても大きな喪失感を感じるんですね。  工藤 二〇一三年の『晩年様式集』は、小説家の遺著のようなものであり、この先、作品が書かれることはないだろう、と私も思いました。でも、それは完結した巨大な「大江文学」が目前にあるという意味でしょう? 大江健三郎は「文学」を信じている。その意味では底抜けに建設的な人ではないかと思うの。「さあ、読んでくれないか」という呼びかけが聞こえて、「はい、読みます」と応えて、思わず書いてしまった二冊の本を、王寺さんがしっかり受けとめて下さって、本当に嬉しく存じます。  王寺 こちらこそ、今回は本当によい機会をいただきました。この工藤さんの大江論が、女性・男性を問わず、一人でも多くの読者にとって大江健三郎と戦後の文学を読みなおすきっかけになるよう祈っています。(おわり)  ★くどう・ようこ=フランス文学者・東京大学名誉教授。著書に『フランス恋愛小説論』『近代ヨーロッパ文明批判序説』など。  ★おうじ・けんた=東京大学教授・社会思想史。著書に『消え去る立法者』、訳書にフーコー『カントの人間学』など。大江健三郎文庫運営委員。