文芸 11月
山田 昭子
誰しも一度はどこかで体験したことがあるであろう「マジックハウス」は、錯覚を利用した室内体験型アトラクションである。鏡による視覚の変化や、回転する部屋、傾いた床による平衡感覚の狂いを楽しむもので、そこに入った者は自身が認識している「世界」と目の前の「世界」とのギャップに戸惑う。だが、あたかも「マジックハウス」に入り込んでしまったかのようなその違和感は、日常の中にも突如訪れるものなのかもしれない。
村上春樹「夏帆とシロアリの女王」(『新潮』)は「夏帆」「武蔵境のありくい」に続く同名主人公の三作目だ。ある時実母の異変に気が付いた夏帆は、母の体がシロアリの女王に乗っ取られたことを知る。ありくいの奥さんは一連の出来事を「あなた自身の世界の物語」として受けとめ、善なるものと悪しきものを選別し、それらを受け入れるか否かの選択をするよう夏帆に求める。やがて母の体はシロアリの女王と「共生」状態になるが、夏帆はそうした事態を受け止めるべきか否かの結論を出すことができない。インターネットと現実、真実と虚偽、善と悪、本作はいくつもの対となる世界が交錯している。「自分自身の世界」の確実性すらも疑う夏帆の姿勢は、わかりやすいものに安易に飛びつかない慎重さの現れであるともいえる。だが、与えられ、待つことによる夏帆の生き方は果たしてどこに行きつくのか。続きを楽しみに待ちたい。
『群像』では武塙麻衣子「西高東低マンション」が最終回を迎えた。本作はマンションの住人たちが送る穏やかな日常という世界に潜む、小さな非日常の瞬間を捉えた連作短編だ。最終回では、小説家である主人公の「私」が同じマンションの老婦人に出会う。夫を迎えに行くために、「私」が聞いたことのない「礎隧道」行きのバスを待つという老婦人には知症の疑いがあり、息子に連れられ帰ってゆく。結局「礎隧道」が何だったのかについては判明しないまま物語は閉じられる。だが、同じ日本でも西と東で異なる天気が同時に存在し得るように、真偽不明の出来事が共存するのが日常なのだ。だからこそ日常は面白いといえるのかもしれない。
杉本裕孝「刻印」(『文學界』)の桐嶋誠は宝飾販売員である。「わたしは地球上に存在するすべての人間を殺す」という意味のフランス語でリングの刻印を依頼してきた男は、いわゆる迷惑系YouTuberで、メゾンの名に傷がつくことを恐れた桐嶋は刻印変更の交渉にあたる。失恋で自暴自棄になった男性YouTuberがXに投稿した「死にたい」という言葉は、自身のセクシャリティに苦しんだ桐嶋の過去と重なるかに見えるが、男の苦しみは彼女とよりを戻すことで安易に解消されてしまう。それを「どこか遠くの世界の出来事」として眺める桐嶋の思いは、近いと思っていたものが実は遠くにあると知った時の絶望感に等しい。一方で桐嶋の前から姿を消したフランス人ゲイカップルが今でも続けているInstagramの投稿は、遠く離れても近くにある世界の存在を示し、桐嶋に力を与える。食卓を囲む二人の投稿を目にして覚えた空腹感は、桐嶋の中にある「生きたい」という意志のあらわれだ。
更地郊「粉瘤息子都落ち択」(『すばる』)には、就職後、コロナ禍で会社になじめず精神を病み社会生活から離脱した野中と、ビットコインで一財産を築いたが故に生きる目的を失った忍が登場する。二人は粉瘤を絞ること、莫大な財産を使うことで内に溜まったものを各々少しずつ発散させている。高校生二人組が無断で自販機に貼り続けたテプラの謎の言葉は、野中が出品したメルカリとYouTubeを経由し、自動AI作曲アプリで忍が作った歌となってTikTokで拡散され巡り巡る。そこに加わるスト6、マウンテンデュー、スキャニバースといった数々のアイテムが混然一体となって野中の冴えない日常を描き出す。東京から故郷に戻ることを決めた野中にとって「都落ち択」が最適解かどうかの答えはゲームのようにすぐには得られない。だが新たにできた粉瘤は、忍と過ごした日々から得られた生きる気力のゲージであり、それを絞るという行為は野中が新たなステージへ踏み出すきっかけとなり得るだろう。
人が何かに向かって一歩を踏み出す時、果たしてその足には何を履いているだろうか。芝夏子「纏足とスニーカー」(『小説トリッパー』)の花凛は放課後児童クラブの主任指導員であり、注意欠陥多動性障害の傾向がある玲於奈君を育児放棄の父親から引き離し、しかるべき大人の元で育てる作戦を立てる。家庭に縛り付けられてきた母が、父が中国で買ってきた土産物の纏足のレプリカで父を殴って反撃したように、花凛は自ら選んだフェラガモのパンプスで玲於奈君の父親との対決に挑む。
本作には「ハーメルンの笛吹き男」の物語が象徴的に響き合う。町に残された大人たちがすべきことは、子供たちを取り戻して縛り付けることではなく、行く末を見守り見届けることだったのではないか。癇癪を起こして飛び出した玲於奈君の裸足は、父親、そしてクラブからの解放をも意味する。踵を踏んだスニーカーで追いかける花凛の足元はおぼつかない。だが踏み出した一歩は、彼を見守るために転んでも起き上がる力へとつながっている。(やまだ・あきこ=専修大学非常勤講師・日本近現代文学)
