2025/03/07号 1面

謎ときエドガー・アラン・ポー 知られざる未解決殺人事件

竹内 康浩インタビュー<ポーが仕掛けた完全犯罪の謎を解く>『謎ときエドガー・アラン・ポー 知られざる未解決殺人事件』(新潮社)刊行を機に
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竹内 康浩インタビュー <ポーが仕掛けた完全犯罪の謎を解く> 『謎ときエドガー・アラン・ポー 知られざる未解決殺人事件』(新潮社)刊行を機に  アメリカ文学者・北海道大学大学院文学研究院教授の竹内康浩さんが『謎ときエドガー・アラン・ポー知られざる未解決殺人事件』(新潮社)を上梓した。本書は、推理小説の始祖であるポーの短編「犯人はお前だ」に記されているものの、二世紀近く気付かれることのなかった殺人事件の真相と、その読解からポーの創作原理に迫る文学評論。刊行を機に、竹内さんにお話を伺った。  ※本インタビューは「犯人はお前だ」(2面に要約掲載)の核心に触れています。  (編集部)  ――『謎ときエドガー・アラン・ポー 知られざる未解決殺人事件』は、『謎とき『ハックルベリー・フィンの冒険』ある未解決殺人事件の深層』『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』に続く、竹内さんの〈謎とき〉シリーズ三冊目です。  本紙では『謎ときサリンジャー』刊行時、竹内さんと文芸評論家の阿部公彦さんに対談していただきました(二〇二一年九月三日号)。そこで阿部さんが、竹内さんは「「問うこと」への執拗さが他の人と段違い」とおっしゃっていた。徹底的で隙がないテキスト分析は新刊でも変わりませんが、このスタイルは何かきっかけがあって確立したものなのでしょうか。  竹内 私は大学を卒業してすぐに新聞記者になりました。一年足らずで辞めているので偉そうなことは言えませんが、少なくとも新聞記者がひとつの情報を取るために、信じられないくらい多くの時間をかけることは経験しました。事件を捜査している警察官から情報を聞き出すために、その人の家まで行って勤務時間外に話を聞く。いわゆる「夜討ち朝駆け」です。最初は会ってくれるはずもなく、歓迎もされない。それでも、何度も足を運びます。そうやって多くの時間を費やした果てに、ほんのちょっと事件に関するネタを得られればよい方で、基本的には空振りばかりです。  そういう仕事と比べると、本を読むというのは情報収集の苦労がないとも言える(笑)。ページの上に、丸見えの状態で書かれているものを読めばいいだけ。本が相手だと頭を下げる必要も門前払いされる屈辱もありません。ただページを繰ればいい。今回の『謎ときエドガー・アラン・ポー』の扉では、中原中也「春日狂想」の次の一節を引用しています。「奉仕の気持になりはなつたが、さて格別の、ことも出来ない。そこで以前より、本なら熟読」。せめて本なら熟読ぐらいしないと、申し訳が立たない。そういう気持ちが私にもあります。  ――少し先走ってしまいますが、第三章では「テキストを読んでいるのですから、最終的な判断材料は常識的な推論ではなくてテキストの中に求めたい」(八六頁)と述べられています。これは、竹内さんの評論すべてに共通する考えだと思いました。  竹内 ちょっとした言い訳かもしれないけれど、私はあまり勉強家ではないので、頭に知識が詰まっていません。だから、テキストを熟読するしかないという面もあります。一方、知識や常識が豊富にあれば、それを使いたくなるのが人情でしょう。作品を自分の知識に引き寄せて読みたくなる。そういう読み方は一般的なものですし、学会では私の方が少数派です。しかし結局、私にはテキストに書かれていることを読むことしか出来ないし、まぁそれでアメリカの学術誌に論文が載るのだからいいではないか、と開き直っています。テキストを自分に引き寄せるのではなく、自分の方がテキストの高みに登っていく読み方をしたい、と言えば格好のつけすぎでしょうか。  ――今回、竹内さんは推理小説の始祖であるポーの短編「犯人はお前だ」の謎解きを行っています。この作品はポーが亡くなる五年前、一八四四年に書いた「最後の推理小説」でもある。本書では、二世紀近く気づかれないままだった殺人事件とその真相を明らかにし、そこからポーの創作原理に迫っていきます。「あとがき」にも書かれていましたが改めて、執筆のきっかけをお伺いします。  竹内 私のゼミでは、院生が選んだ短編を読むという授業をしていて、数年前にひとりの院生が「犯人はお前だ」を持ってきました。読み始めると、これが大変面白い。ポーが仕掛けたとんでもない謎も見えてきました。それで早速、本書の元となる論文を英語で書き始めました。  日本語で書かなかったのは、日本の学会誌は理論的枠組みがしっかりした論文を採用する傾向があるからです。私が院生の頃はそうでもなくて、私の破格な論文も載せてくれていました。助手時代、私がテリー・イーグルトンの本を手にしていると、ある高名な先生に「君はそんなのを読んでいるのか、フン」と鼻で笑われたこともありました。同僚が訳者なのに!時代の違いですね。一方、今でもアメリカのジャーナルは多種多様なので、私の八千語ほどの論文も、紆余曲折を経たものの、なんとか載せてもらえました。  面白かったのは、その過程で査読者のひとりから「都合のいい材料の寄せ集めだ」と全否定されたことです。ポーの作品に未解決殺人事件が隠されていたなんて、ポー学者として到底信じられない、ということでしょう。もちろん短い論文で語れることは限られています。ならば全てを語ってやろう。そう思って、拡大版を書くことにしました。こちらも燃えたぎっているという事情もあって、最終的には英語で九万語に近い原稿になってしまった。一〇倍返しは、ちょっとやりすぎた気もしています(笑)。  ――他二作と同様、先に英語で書いたものを自分で日本語に訳し直したのでしょうか。  竹内 今回もそのまま訳したわけではないですね。先に英文版を書いたのは、もしかしてこれでエドガー賞がもらえるかも、という下心があったからです。本当は二〇二四年のうちに刊行したかったのですが、アメリカの版元から刊行まで一年かかると言われてしまって。もうちょっと早くできるだろうと思いつつ、どうやっても二五年のノミネートには間に合いそうになかったので、その間に日本語版も書いてみようと思ったんです。  日本語で書いてみると、それはそれで楽しかった。英語版は註なども多数あって、形式的には学術的な本になっています。でも、日本語版はアメリカ文学の専門家だけを対象にするわけではない。構成や内容も少し変えていて、日本語版は読んで楽しいものを目指しました。ポーが読者に仕掛けた謎解きを楽しんでもらい、同時にその天才ぶりを再認識してもらえると何よりです。  ――仰る通り、読んでいて本当に楽しい一冊です。どうして今まで気付かなかったんだろう!という発見が、次々に語られていく。その過程はまるで、ミステリでいう「多重解決もの」のようでした。  竹内 学問も、多重解決といえるかもしれませんね。ある謎を解いてみたところ、さらに大きな謎があった。もしくは分かったことを元に、今度は別の視点から謎に取り組むことで違った答えが見えてくる。どんな分野の研究であっても、真理の探求には終わりはないのですから当然ですね。  この本でいえば、「犯人はお前だ」の謎を解いて得た読解は、ポーの他の作品を貫く彼の創作原理にも通じていたという展開になっている。たとえば、謎めいたゴシック小説として受け止められている「アッシャー家の崩壊」。この作品に「犯人はお前だ」の読解をあてはめると、単に屋敷が崩壊するだけではない、あるトリックが見えてきます。が、当然、本書で論じた私の読みが唯一の正解ということではありません。問いや謎は、それを解いて終わりではなく、その先にはさらに別の謎が見えてくる。そこがポー作品の面白さでもあります。  ――序章には、竹内さんによる「犯人はお前だ」の全文訳が収録されています。  竹内 まずは作品を読んでもらわなければ、私が言っていることは理解されない。そう思って、今回は全文訳も収録しました。優れた訳は他にいくつもあるけれど、すべての読者が本書と別に文庫本を買ったり、あるいは図書館で本を借りて「犯人はお前だ」を読んでくれるわけではない。ですから、まずは序章で私が訳したものを読んでもらうことにしました。ゼミでも前もって作品を読んで来ることが出席の最低条件です。それと同じ形式を本書でもやっています。  ――現在、ポーの作品で最も評価が高いのはデュパンものの「盗まれた手紙」で、これはラカンやデリダなど、フランスの思想家たちも論じています。しかし竹内さんは「犯人はお前だ」こそ、ポーの推理小説の最高到達点だと述べている。  竹内さんが本書で解き明かした「犯人はお前だ」の謎の概要はこうです。なんとシャトルワージー殺しの真犯人は、グッドフェローではない。それどころか、シャトルワージー殺しとはまた別の殺人事件が、衆人――現場にいた登場人物も、殺害現場そのものを読んでいる読者さえも見逃しているけれど――の目の前で堂々と起きている。しかもポーは読者に推理勝負をしかけていて、その事件の謎を解き真相に辿りつけるのは、作中の探偵役たちではなく読者だけ。衝撃的ですが、竹内さんの指摘通りその証拠はテキストにしっかり残されています。  竹内 ポーは、探偵デュパンが事件を解決する物語、言い換えれば、作家が読者に答えを与えるような話は最高の形ではないと考えていたようで、友人宛の手紙でもこう述べています。「作家自身が元々解決する明確な意図をもって編み上げた謎を解いて見せたからといって、そのどこがすごいのだろうね?」。名探偵が事件を解決して終わる作品よりも、読者が真相を探す作品の方がいいと、ポーは思っていたはずなのです。  竹内 世界最初の推理小説「モルグ街の殺人」も、ポーの最高傑作といわれる「盗まれた手紙」も、探偵のデュパンが謎を解いて答えを提示します。読者は探偵の答えを受け取っておしまい、受動的な立場にいる。けれど、「犯人はお前だ」にデュパンはいません。この作品は、読者が能動的に作品に参加することを求めている。真相に辿りつくために必要な手がかりはすべてテキスト上に丸見えになっていて、読者自身が事件の謎解きをするように仕掛けられています。「答えを書かない探偵小説」というジャンルを生み出そうとしていたポーの企みは、同じ年に発表された「のこぎり山奇談」が同じ趣向であることからも確かめられます。  晩年に記した「ユリイカ」という作品では、ポー自身が宇宙の謎に迫りました。出題者は神様、解答者はポーです。自然の謎、人生の謎、神様の謎を解いて、この世界が何なのか知りたい。そんな真剣勝負への欲望がひっくり返されて「犯人はお前だ」は書かれました。読者に謎解き役を担わせ、自分と勝負させる。そういう意味でも、「盗まれた手紙」より「犯人はお前だ」の方が面白く、スケールの大きな作品だと思います。 ※以下からの内容は『謎ときエドガー・アラン・ポー』の核心に触れております。ぜひ本書をお読みいただいた後に、お目通しください。 【要約】ポー「犯人はお前だ」 ※物語の核心に触れています  ある日、ラトルボローの町の名士シャトルワージーが外出したきり失踪するという事件が起きる。シャトルワージーの馬だけは戻ってきたものの、傷だらけ。心配した町の人々は、シャトルワージーの親友グッドフェローの指揮のもと捜査を行う。すると、シャトルワージーの甥ペニフェザーの犯行を示唆するような証拠ばかりが発見され、ペニフェザーは逮捕された。  その後、グッドフェローに代わり、今度は名もなき語り手が推理を始める。語り手によると、ペニフェザーは罠に嵌められただけで、真犯人はグッドフェローだという。それを証明すべく、語り手はある巧妙な仕掛けを用いる。シャトルワージーの死体がグッドフェローに向かい、「犯人はお前だ!」と叫んだかのように見せかけたのである。その結果、グッドフェローは衆人の前で自白し絶命。ペニフェザーは釈放され、町の人々は、死人復活という「奇跡」を信じたのだった。  ――第一章では、「犯人はお前だ」の本当の犯人に迫ります。竹内さんの読解によると、この作品は「語り手が周囲の登場人物だけでなく読者をも見事に騙しきることを目指した完全犯罪の物語」。つまり、シャトルワージー殺しの真犯人は語り手が示したグッドフェローではなく、本当は語り手自身である、と。  竹内 この点は強調しておきますが、私は謎を解くことを前提に作品を読んでいるわけではありません。どんな小説を読むときも、書いてあることは全部頭の中に入れようと思って読んでいるだけ。一見意味のなさそうな部分でも、飛ばし読みはしない。だから、あらすじ的には無意味そうな箇所でも強く引っかかりを覚えることがあります。  「犯人はお前だ」で私が特に引っかかりを感じたのは、in/outのエピソードです。原文では、in/out(「入って」/「出て」)がイタリックで強調される場面が二つある。一つは、グッドフェローとシャトルワージーが楽しくワインを飲んでいるとされる場面。ワインが「入って」、知性が「出て」いく、と表現される。二つ目は、シャトルワージーの傷ついた馬に語り手が言及する場面。馬の体には、銃弾が入って、「出て」いった傷があった。語り手はこの銃弾が手がかりになって、グッドフェローが犯人だと気づいたと述べます。何かが入って出ていくという、似たような描写がなぜ繰り返されるのか。しかも、ここでもイタリックで強調されている。そんな違和感を覚えたのが、本論の出発点でした。  でも、これって謎解きではないですよね。「犯人はお前だ」がミステリだから、そういう風に読んでいるわけでもない。どんな小説でも、意外な場面が意外なところに繫がっています。点と点がどんな線で結ばれているのか。その線が、恣意的ではなく、自然に浮かび上がってくるまで時間を掛けて観察する。世界情勢にせよ自然科学にせよ、何と何が対応しているのか、何と何が類比的なのかという対応関係を見出した時、人は発見の喜びを経験するのではないでしょうか。  ――第二章は、竹内さんの本領が発揮されていて、「グッドフェロー犯人説」を否定する材料がつぶさに取り上げられ、検討されます。一切の反論ができないほど論理詰めで、白旗を振ってしまいました。そのうえ、さらに衝撃的な真相「語り手とペニフェザーが共謀し、グッドフェローに罪を着せた」が提示される。「グッドフェロー犯人説」を否定するだけに終わらず、ペニフェザー共犯説を打ち出したのはなぜでしょうか。  竹内 語り手が本当の犯人であるという結論は、真相の全てではないからです。物語では、殺されたシャトルワージーの甥であるペニフェザーが奇妙な行動をとり続けています。彼は、自ら犯人になりたがっているとしか思えない。その理由も謎解きしなければ、読者あるいはあの毒舌査読者も納得しない。ペニフェザーの言動の謎が明らかにならない限り、都合のいいところだけを議論しているという批判が出てきてしまいます。  正直、「犯人はお前だ」の真相だけなら、ペニフェザーの役割を議論しなくても解き明かすことができます。私自身、論文の段階ではペニフェザーが犯人になりたがっていた理由まで書くことはできなかった。しかし、可能な限り査読者の反論に応えることが今回の目標でもあったので、ペニフェザーの役割も割と細かく論じました。  共犯者のペニフェザーは、なぜ疑われることを望んだのか。ポーの愛読者なら、「盗まれた手紙」にヒントがあることに気づくかもしれません。手紙を盗んだ犯人も、自ら進んで家を留守にして警察が捜査できるようにしていたではありませんか。「盗まれた手紙」は「犯人はお前だ」と同時期に書かれているので、他にも重要な共通点があります。丸見えの状態に手紙を置くことで手紙を隠す、というあの物語の逆説的な秘策を、ポーは「犯人はお前だ」で実際にやって見せたのだと思います。つまり、隠し場所のないテキスト上に「真犯人」を丸見えの状態のまま見事に隠したのです。  ――第三章では、「グッドフェロー犯人説」を支える犯行自白のからくりが解き明かされ、さらに別の殺人事件の存在が浮かび上がってきます。まさかの「グッドフェロー殺人事件」です。グッドフェローは自白をした後に「死にました」と、語り手は述べています。が、実際には「自白した時、すでにグッドフェローは死んでいた」。これこそ、竹内さんが本書で明らかにした未解決殺人事件です。  竹内 物語ではグッドフェローがシャトルワージー殺しを「自白」しています。これはどういうことか。  まず、「犯人はお前だ」の、表向きのトリックを思い出して下さい。語り手がグッドフェローから自白を引き出すために用いたのは腹話術でした。その特技を使って、シャトルワージーの死体が「犯人はお前だ!」と叫んだように見せかけた。それに驚いてグッドフェローは自白した、とされる。  つまり腹話術師である語り手は、死者であれば思うままに喋らせることができる。ならば、語り手は腹話術を一度ではなく二度使ったのではないか。つまり、グッドフェローが自白した時、彼がすでに死んでいたとしたら、語り手は腹話術を使ってどんな自白でもさせられる。共犯者のペニフェザーを救うために。それこそが語り手の本当のトリックです。では、グッドフェローはいつ殺されたのか?  その謎を解くための手掛かりも、ポーはしっかりとテキストに記していました。語り手は、グッドフェローが殺されたであろうその瞬間、確かに凶器を手にしている。それだけでなく、語り手は犯行直前には急にボトルやグラスを割って、赤ワインを周囲にまき散らしています。グラスを割ったという描写は唐突で不自然なようにも感じられるでしょうが、それが殺されるグッドフェローの血を目立たないようにするための隠蔽工作だったと考えれば納得です。ポーは本当に用意周到なのです。  ――第三章の時点で、「犯人はお前だ」の評価が一転するような発見がされていますが、竹内さんの追求の手は止まりません。第四章では「犯人はお前だ」の仕掛けから、ポーという作家の創作原理を読み解いていきます。  竹内 「犯人はお前だ」の語り手の最大の失敗は、自身の罪を着せる相手(スケープゴート)であるグッドフェローが、期せずして自分の語りの中で、自分そっくりに仕上がってしまったことです。たとえば、最初に探偵役を担ったグッドフェローの「ペニフェザーを弁護するフリをしながら実際には有罪へと追い詰める」という屈折したやり方は、そのまま語り手の「不誠実」な語りを映し出しているのです。この物語の欠陥としてしばしば問題になるのは、語り手の不誠実さで、彼は最初からグッドフェローが犯人だと知っているはずなのに、結末のどんでん返しまで彼をいい人として弁護し続けた。しかし、そのような「欠陥」は、グッドフェローの不誠実さとセットで考えた時、この作品の大いなる仕掛けとして輝き出すのです。二つの屈折した語りの鏡像関係に気づくと、二つの語りの目的もまた鏡像であることが浮かび上がります。つまり、グッドフェローはペニフェザーをスケープゴートにしようと企んだ、とされますが、それはまさに語り手自身の策の鏡像で、語り手がグッドフェローをスケープゴートにした可能性が見えてくるのです。  「犯人はお前だ」を分析した結果、ポーの作品の数々が、鏡像関係における鏡像(コピー)と実像(オリジナル)の入れ替えによって構成されていることがよく分かってきました。もちろん「鏡像」は既に目立つ主題で、たとえば「黒猫」には二匹のそっくりな猫が、「ウィリアム・ウィルソン」には語り手の分身のような存在が登場します。しかし「犯人はお前だ」を読み解くことで、ポーが読者を相手にチャレンジしていたのは、鏡像関係の中に存在する〝オリジナルとコピーの違いを見分けられるか〟だと気づいた。ポーは謎を作る時、二つの関係を反転させるのだ。鏡像関係を一ひねりして提示すること、これがポーの創作原理の一つになっているのだと思います。すごく単純な原理ですよね。しかし、シンプルだからこそ正しい気がするのです。  ――その気づきをもとに、続く第五章では、ポーによるもうひとつの完全犯罪の物語「のこぎり山奇談」を謎解きしていきます。  竹内 語り手は、自分とグッドフェローの間にある鏡像関係を見落としたために、完全犯罪に穴を空けてしまいました。もし、この読みが正しいのなら、他の謎めいた作品も同じ視点から、つまり正しい鏡像関係を把握することで読み解けても不思議はありません。  そして実際、「犯人はお前だ」と同じ一八四四年に発表された「のこぎり山奇談」という短編でも、語り手が鏡像関係におけるオリジナルとコピーの見分けに失敗している。逆に、読者が二者の関係を正しく把握できれば、真相に到達できる。つまり、この作品にも未解決殺人事件が描かれていて、読者が探偵役を担えば真相に辿り着くことができるのだと思います。  もしそうなら、謎解きの難易度は「犯人はお前だ」の方が高いものの、ポーは同じような完全犯罪の物語を同じ年に発表していることになります。これが示唆するのは、ポーが読者に探偵役を担わせて謎を解かせるという新しい犯罪小説のジャンルを企図していたということです。それを確認するためにも「のこぎり山奇談」の読解は必要だったので、第五章を丸ごと使いました。  ――ポーが「読者の参加が不可欠な推理の物語」というジャンルをつくろうとしていたことを、竹内さんは本書全体で何度か確認していますよね。中でも一三九頁の、ポーは「プロットを見抜かれて負けたくないが、見抜かれないと自分のすごさは分かってもらえない」「負けなければ勝つことができない」という指摘は象徴的です。  竹内 ポーは「探偵のいない推理小説」を作ろうとしていたのであり、それが実現すれば、傑作といわれる「盗まれた手紙」よりも一歩進んだ物語になる。しかし、そのことをポーが読者に分かってもらうには、読者が完全犯罪を見破らねばならない。完全犯罪を突き崩してもらわねば、ポーの努力は報われない。  負けないとすごさが分かってもらえないというのは、完全犯罪者の悩みですよね。完全犯罪のままでは、自分の努力や頭の良さを誰にも褒めてもらえません。ポーはそれを詐欺師のジレンマとして作品に書いたこともありました。詐欺師は成功の喜びを他人と共有できないので、自分自身で嚙み締めるしかないんです。  「のこぎり山奇談」と「犯人はお前だ」で、ポーは読者を完璧にだまし切った。しかしポーはそれを自慢することができなかった。完全犯罪者だけでなくスーパーヒーローにも共通するジレンマです。ポーは「大鴉」という詩を書いていて、後年にその解説を発表しています。もっと長生きしていたら、もしかしたら「犯人はお前だ」で仕掛けたトリックを解説してくれたかもしれない……。結局その前に亡くなったので、ポーの完全犯罪は解かれることのないまま、二世紀近くが経ってしまいました。  私の謎解きがなくても、ポーが天才であることは揺らぎません。ただ、私のような権威者でも何でもない普通の人が、ポーの本当の素晴らしさを示すことには、少しは意味があると考えています。文学賞しかり、評価はどうしても権威主義的なところがありますよね。もともとポーの詩はアメリカよりも、フランスで翻訳されて評価が高まりました。その後、デリダやラカンなどによる「盗まれた手紙」の読み解きで、ポーの評価は絶対的なものとなった。でも、フランスの有名な思想家の権威に頼らずとも、ポーのすごさは指摘できる。ただちゃんと読めばいいだけ(笑)。本書がその実践になっていれば幸いです。  ――第六~八章は、いわば実践編です。オリジナルとコピー/ねじれた鏡像関係というポーの創作原理を、第六章では探偵デュパンの分析に、第七章では「盗まれた手紙」に、第八章では「アッシャー家の崩壊」「ウィリアム・ウィルソン」「黒猫」の読解に用いています。一例でいうと、「アッシャー家の崩壊」の語り手も、鏡像関係に気づいていない。この作品は怪奇小説として評価されているからこそ、竹内さんの読み解きが導くオチには笑ってしまいました。  竹内 思わず、ずっこけてしまうようなオチですからね。語り手は、非常に深刻ぶっていっていろんなことを言っているけれど……っていう。  語り手やアッシャーの狂気に焦点を当てた、怪奇小説としての読みが間違っているわけではありません。私が行ったのはその方面からの読みではなくて、ポー作品全体の流れ、つまり鏡像関係に着目した読み解きです。オリジナルとコピーを入れ替えることで謎をつくるというポーの創作原理を参照すると、「アッシャー家の崩壊」は語り手の鏡像関係に対する度を越した鈍感さがオチになっているようにも読めます。そもそも語り手は、アッシャー兄妹が双子だったことにずっと気づかなかったぐらいですから。また、そのように読めば、「アッシャー家の崩壊」とデュパンものなどの作推理小説群も繫がっていく。  そういう隠れた繫がりを見つけたとき、私は「発見」の興奮に震えます。「犯人はお前だ」のin/outは場面同士ですが、そのさらに上位に作品同士の繫がりがある。「犯人はお前だ」の私の推理が正しければ、その読みはポーの他の作品とも繫がるはずです。そこで本書後半では、違う作品という「点」を「線」で結んでいきました。  ――最後に、本書で分析される作品の語り手の多くは、鏡像関係について「誤解」をしていたゆえに真の問題に辿りつくことができず、混乱し、恐怖し、絶望していました。やはりポーには、「読者に推理してほしい」という強い思いがあったと竹内さんは考えますか。  竹内 ドタバタ騒いでいる語り手を見て笑って欲しい、という気持ちもあったかもしれない。あるいは読者をだましたい、とか。先ほど述べた通り、ポーは答えを書かない。作家は問いを与えるだけで読者が答えを考える作品がいい、とポーは考えて創作をしていました。その基本方針で書かれているのが、「黒猫」であり「ウィリアム・ウィルソン」であり、「犯人はお前だ」だと思います。しかし、本書では、ポーの期待に勝手に応じて推理を試みただけではありません。「出題者」としてのポーの頭の中を分析し、彼が問いをつくるときの原理は何かも論じました。単に一つの「解答」を示すだけでなく、「出題傾向」も探った感じでしょうか。  ポーの創作原理はいくつもあるかもしれませんが、鏡像関係においては、オリジナルとコピーをひっくり返すことで謎を作っていた。これは「犯人はお前だ」の真相が分かったからこそ、逆算することができた原理です。言ってしまえば手品師や詐欺師の典型的なトリックだけれど、私たちは二世紀近くその手法に幻惑されてきた。どういう形で虜にされてきたのか明らかにしなければ、ポーの才能の全容には近づけません。見事な手品に魅了されるだけでなく、その仕掛けまで明らかにしたかった。手品師も完全犯罪者も自身で真相を語ることはありません。だから彼らの本当のすごさを認識することは難しい。本書はポーの「秘策」の一端を明らかにすることで、人が思うよりポーはもう少し天才だった、と主張しています。  私の勝手な推測だけれど、ポーはきっと自分の完全犯罪のトリックを喋りたい、分かってもらいたいという気持ちがあったのではないでしょうか。いいものを書いても、どこがどうすごいのか分かってもらえないのは辛いでしょうから。その気持ちに、本書でどれほど応えられたのかは分かりません。けれど、一欠片だけでもその企みを明らかにできていたら、ポーに対するいい供養になるのではと思っています。     (おわり)  ★たけうち・やすひろ=北海道大学大学院文学研究院教授・アメリカ文学。著書に『謎とき『ハックルベリー・フィンの冒険』』、共著に『謎ときサリンジャー』(小林秀雄賞受賞)など。一九六五年生。

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