論潮8月
高木駿
今回の参院選の結果を出張先のソウルで知り、何だか落ち着かない気持ちでベッドに入りました。案の定、翌日の韓国の新聞には「極右政党が躍進した日本」、「右傾化した日本」といった見出しが並び、テレビでも、日韓関係を心配する声とともに、選挙結果が大々的に報道されていました。ご存知の通り、今回の参院選では、「日本人ファースト」をかかげた極右政党である「参政党(Party of Do It Yourself)」が大きく議席数を増やし、大躍進を果たしたからです。ちなみに、日本のメディアはどうかと言うと、海外メディアが「極右」という表現で今回の結果を報じていることを報じるといった、ずいぶん間接的で婉曲的な報道をしていましたよね。
とうとう日本にも本格的な極右ポピュリズム・排外主義の波が来たのかというショックもあった一方で、それ以上に、どの政党・候補者を支持するのか、自分がどんな立場なのか、どんな価値を重視するのか、といったことについて、身近なところでイザコザやディスコミュニケーションが起きていたことが気になりました。僕のまわりには、俗に「リベラル」と言われる人が多いのですが、東京とかとは違い、北九州では(たぶん他の地方都市でも)、同じ価値観を持った人が固まるような形でコミュニティは作られません。多様な人が同じコミュニティに属していて、外国の方に悪いイメージを持っている人もいれば、中立を支持する人もいるし、選挙に行ったことがない人もいます。
気になったのは、リベラルな人たちが、「上から目線」で、参政党の支持者に対して注意や説教をしたり、中立を標榜している人に圧力をかけたり、選挙初心者が選挙に行くことをよしとしていなかったりした点です。もちろん、排外主義や差別主義がよくないのは言うまでもないし、極右政党を支持することをやめてほしいという気持ちにも強く共感できます。ただ、それを表現するアクションや態度に、蔑みや否定、敵意といった排除や分断につながりかねない負の雰囲気があり、それがどうしようもなく気になりました。
また、SNSを見てみると、もっと酷い状況で、参政党の支持者は「カス」だ、中立を謳う人は「無責任」だ、「無知」な人は選挙に行くなといった、より攻撃的で排除的な言説に溢れていました。多様性を重視し差別をなくそうとする人たちが、逆に差別的になってしまっていたのです。こんな状態なので、新規に政治にコミットメントしようとする人々がリベラルに対して反発しがちになっても仕方がないように思います(山本昭宏「『失敗』という本質 民主主義は幻滅から立て直せる」、『世界』)。
このように、リベラルな人が差別的な人に対して差別的に応答する状況は、寛容な人が不寛容な人に対して不寛容に応答する状況に似ています。オーストリアの科学哲学者K・ポパーは、寛容な人々が不寛容な人々を寛容することで、不寛容が深刻化し、寛容そのものが崩壊してしまうという問題を、ナチス政権における民主主義の崩壊の事例から指摘しました。そのため、寛容な人であっても、寛容を維持するために、不寛容な人々に対しては不寛容な仕方で応答しなければなりません。寛容は寛容を守るために不寛容を必要とするわけです。「寛容のパラドクス」と言われる事態です。
リベラルな人々は、その名の通り、他者の自由や権利、あるいは多様性を尊重します。それなら、差別をする自由や権利、差別的な振る舞いや価値観も認めることになりますが、そうなってしまうと、他者の自由や権利が侵害され、究極的には、リベラルの理念自体が崩壊してしまいます。だから、リベラルな人々は、その理念にもかかわらず、差別的な人をむしろ差別的に否定・排除しているのではないでしょうか。「リベラルのパラドクス」とでも言える状況がありそうです。
この状況を、どう考えればよいのでしょうか? 大きく二つの考え方がありうると思います。一つは、差別的な人を認めること、つまり差別も多様な価値の一つとして承認することです。パラドクスは解消され、一見すると価値の多元主義や複数主義と親和的な道が開けるような気がしますが、コミュニティや共同体、国家間で共通性が失われ、分断化や孤立化が促進されるでしょう。結果、悪い意味での相対主義や自文化中心主義、エゴイズムが社会に根付き、やはりリベラルな理念の維持は難しくなっていきます。たしかにパラドクスは解消されるけど、リベラルも崩壊してしまいます。リベラル側からすれば、元も子もありません。
もう一つの考え方は、差別的な人に対してはあくまでも差別的に(否定や排除で)応答することです。差別を多様な価値の一つや多様性の一部としては認めず、多様性の尊重の範囲外におくということです。差別は、リベラルの理念が適用されない限界の一つとして考えられます。こうなると、パラドクスのように見えた事態も実は疑似問題ということになります。差別的な人について、その自由や権利、振る舞いや価値観はそもそも尊重の対象にはならないというわけです。
しかし、問題は、何を基準として、差別ないし差別的な人に差別的になるのか、良く言えば、そういった人々を批判するのかという点です。リベラルな人のなかには、この基準が不明瞭であったり、漠然としていたりするために、本当に差別的な人だけでなく、中立な人や関係ない人までをも攻撃してしまう人がいるように思います。ただ、その基準をはっきりさせるのは思いの外難しい。いくつかの基準が考えられるし、それらには問題も指摘されているからです。
例えば、人権という基準が考えられます。『世界人権宣言』に謳われているように、人権はあまねく人に与えられている権利であり、自由や民主主義の核心としてなくてはならないものです(暉峻淑子「民主主義を手放せるか」、同)。そんな人権を侵害・毀損する差別は否定されるべきとなるわけです。ただ、人権概念が持つ白人中心主義や男性中心主義をどう考えるのかという問題があります。他にも、苦痛や嫌悪といったより感覚的で身近な指標を基準にすることもできます。誰かに苦痛を与えることは良くないとする道徳感覚が私たちにはあって、それに抵触する差別は許容できないとする立場が成り立ちます。ただ、これにも、それが「誰」の苦痛や嫌悪なのかによって、社会的な不平等や格差が生まれてしまうという問題が指摘されています。いずれもアメリカの哲学者J・バトラーによる問題提起です。
もちろん、基準になるものには他にも複数の選択肢(公正な手続き、ケイパビリティなど)が存在します。リベラルな人が(それ以外の人も)差別を否定する際には、それらの基準を明確化し、それによって、何を、誰を批判するのかを明らかにすることが不要な攻撃や反発を生まないことにつながります。しかし同時に、その基準の問題については絶えず向き合っていく必要があります。僕も考え続けたいと思います。(たかぎ・しゅん=北九州市立大学准教授・哲学・美学・ジェンダー)