2025/04/11号 5面

井口時男批評集成

井口時男批評集成 井口 時男著 杉田 俊介  本書は一九八三年に中上健次論で群像新人賞を受賞して以来約四十年、井口が様々な媒体で書き続けてきた批評文のうち、他の単行本未収録の文章を「落穂拾い」したものである。七百頁超の厚みがある。四部構成で、「Ⅰ 批評の方へ」「Ⅱ 近代文学の方へ」「Ⅲ 戦後文学の方へ」「Ⅳ 現代文学の方へ」から成る。  「あとがき」には静かだが揺るぎのない自負が記される。「以来四十年、ジャーナリスティックでもポレミックでもなく、そもそも社交性のかけらもない私だが「独立自尊」の気概だけはなんとか守り続けたつもりである」。「(略)結局、徹底して「読む」こと以外に批評の便利な方法などなかったのである」。  だがその自負と「独立自尊」とは対照的に、文学・批評に関する状況に対しては、言葉の節々に、ある種の諦観が感じられる。「作家論や作品論は今も鮮度を保っているはずだし、批評が批評であった良き時代の香気も少しは残っているだろう」。「なお、実は文芸ジャーナリズムに対する失望体験を繰り返したあげく、十年ほど前から、私の関心はもっぱら俳句という無口なジャンルに移ってしまった」。「俳は詩であり批評である」とも付されてはいる。しかしやはり「批評が批評であった良き時代」はすでに終わった、自分が書いてきたものたちにはその「香気」が「少しは残っているだろう」が、後続する人々、これから来る若い人々にはもはやそれはない、氷河期とすらすでに言えない、という諦観が文面に滲んでいる。  別にそのことを嘆いている風ではもちろんない。「文芸ジャーナリズム」は朽ち果てたが単独的な営みとしての「批評」は普遍的だ、という切り分けとも違うだろう。だがそれなら、他者のテクストを「徹底して「読む」」という「独立自尊」の姿勢としての批評は、現代の批評家たちの位置は、今後いかなるものでありうるのか。  本書の帯には「これが文芸批評だ!」とある。シンプルだが、井口の気概と姿勢を良く示す一文であると思う。私はそこから幾つかの言葉を連想した。たとえば大杉重男(一九六五年生まれ、井口の十二歳年下)の二十年ぶり、三冊目の単著『日本人の条件』の帯には「最後の文芸批評家」とある。またその「あとがき」には「日本の「批評家」たちはテクストを回避して「文脈」しか読もうとしない人ばかりだ(略)」とあり、自らの批評は「読者とテクストという荒野に引き出そうとする」ものだ、とある。あるいは川口好美(一九八七年生まれ、井口の三四歳年下)の初の単著『不幸と共存』の帯には「最後の熟読者」とあり、また「あとがき」にはこうある。「自分以外、同世代に文芸批評を書く奇特な人間はいないだろうし、たぶん今後も現れないだろう」。  最後の文芸批評家。最後の熟読者。年齢を超えて彼らは、自らを批評史の「最後」の人間として位置づける。文芸誌で「小林秀雄」の連載を既に十二年以上続ける大澤信亮、一万四三〇〇円の大著『保田與重郎の文学』を刊行した前田英樹などもおそらくそうではないか、と想像する。むろんその場合も、「批評」なるものの定義と範囲が問題であり、本居宣長や伊藤仁斎も批評家かもしれないし、イエスや釈尊や孔子もそうかもしれない。だがここで言うのは、日本近代史・戦後史に属する狭義の批評家であり、小林や保田から蓮實重彥・柄谷行人辺りまでの範囲のことである。  すなわち、外部としてのテクストと遭遇し熟読する、という読みの強度が、そのまま、倫理的な生き方と一致しうる、という「独立自尊」の系譜。井口が記す「批評が批評であった良き時代」とはそうした意味だろう、と私は受け止める(もちろんそれらの系譜に対する「アンチ」もまた逆接的に「良き時代」に依存し内属する)。  井口は端的に書く、小林秀雄にとって批評は理論でも自己表現でもエッセイでもない、「小林が必要としたのは、「私」を死なしめるにたる強力な他者との出会いだ。批評とは、そのような強力な他者としての作品に出会うための方法である。このとき、小林にとって、批評の方法と生の方法は区別されない」。柄谷行人にとって――「「切断」はただ「他者」との遭遇によってのみ生じる。しかも氏の徹底性は、この認識を書くことの倫理として実践している点にある」。秋山駿にとって――「「内部」は「神」に直結するのではない。「内部」は「異物」とじかに接触するのである」。大江健三郎にとって――「民主主義は世界に無数の他者たちがいることを承認することから始まります。だから、その大江さんが「最後の小説」に「女たちによる別の話」と題された批判の言葉を集中的に載せたのは当然のことだったかもしれません」。  この「落穂拾い」としての大著を通読するうちに、ここでは「最後」と「始まり」、あるいは「自己」と「他者」が反転し循環しているかに見えてくる。私もまた、この浩瀚な書物の始まりの位置に戻ろう。冒頭近くから、再び小林についての井口の言葉を引こう――「したがって、彼の批評は、いわば、「他者になる」ための試みでありその実践報告である」。ひたすらテクストを読むことのみを通して「他者になる」。それが批評なのだとしたら、驚くべきは、四十年以上の時間の試練をこの「熟読する」という一点で支え、持続しえたその執拗な意志の力であるだろう――だが。しかし。  だが、それにしても、多くの批評家たちが共鳴的に口にする「最後」とは何なのか。この私はそこではたと立ち止まる。立ち尽くす。あるいは、最後というその覚悟と倨傲と宿命、それこそが批評の柔らかな自由を食い潰すのであり、書き方ばかりかその生き方をも孤立的に閉塞させていくのだとしたら、と。私の疑念は直観にすぎない。ただ、この私の書き方と生き方はこれでいいのか、そうした名前のない不安を、持て余してどうにもできないでいる。(すぎた・しゅんすけ=批評家)  ★いぐち・ときお=文芸評論家。著書に評論集『悪文の初志』(平林たい子文学賞)『柳田国男と近代文学』(伊藤整文学賞)『蓮田善明 戦争と文学』(芸術選奨文部科学大臣賞)句集『その前夜』(現代俳句協会賞)、『批評の誕生/批評の死』『危機と闘争 大江健三郎と中上健次』など。一九五三年生。

書籍

書籍名 井口時男批評集成
ISBN13 9784865032000
ISBN10 4865032002