2025/08/29号 1面

対談=スージー鈴木・柴 那典<追悼・渋谷陽一>半世紀早かったメディア論の実践者

対談=スージー鈴木・柴 那典 <追悼・渋谷陽一>半世紀早かったメディア論の実践者  7月14日、音楽評論家でロッキング・オン・グループ代表の渋谷陽一氏が亡くなった。74歳だった。1972年に『ロッキング・オン』を創刊し、日本を代表する音楽雑誌に成長させ、また、ラジオDJ、フェスプロデューサーなど多方面で活躍し、多くの人に影響を与えた。  このたび、共に渋谷氏から影響を受けた、音楽評論家・スージー鈴木氏とロッキング・オン出身の音楽ジャーナリスト・柴那典氏に、渋谷氏のことを振り返ってもらった。(編集部)  柴 追悼対談ということで、お互いの渋谷陽一との出会いから話し始めましょうか。スージーさんはいかがですか?  スージー 出会ったのは忘れもしない80年代前半の高校時代。高校の図書館にあった『ロックミュージック進化論』(日本放送出版協会、のちに新潮文庫)を読み、大変感銘を受けました。その後、『音楽が終った後に』や『ロック微分法』(ともにロッキング・オン)も読みましたが、私の渋谷陽一著作ベストはやっぱり『ロックミュージック進化論』です。  柴 だいぶ衝撃を受けられたんですね。  スージー ロックの通史を語る建付けの本なので、彼にしてはかなり筆が抑制的で、一応客観的に、唯物史観的にロックを語りますが、それでもちょいちょい顔を出すんですよ、渋谷陽一本人が。途中に割り込んでくる、新宿のロック喫茶・ソウルイートの思い出話も、抜群に面白かった。  そもそも、評論というものは歴史をおさえることが大前提であると同時に、歴史を語ることに客観中立なんてあり得ないのだと私は解釈し、だからこそ、書き手がパフォーマンスする必要があることをこの本から学びました。柴さんはどうですか?  柴 私は、中高時代に「鋼鉄春秋」という同人誌を作るほどのヘビーメタルファンで、むしろ『BURRN!』で育ちました。『ロッキング・オン』を読むようになったのは大学に入ってからで、95年のことです。当時はオアシスやブラーといったUKロック全盛の時期で、邦楽では小沢健二などがフィーチャーされていた。それまで熱心に追ってこなかった同時代のポップス、ロックに触れるきっかけが『ロッキング・オン』であり、私にとっての渋谷陽一との出会いになりました。  スージー おめでとうございます。  柴 そういう意味では、だいぶ遅いんですよ。その頃の渋谷さんは「季刊渋谷陽一」として『BRIDGE』を立ち上げた頃で、音楽雑誌の編集者としての渋谷さんに出会ったのは『ロッキング・オン』や『ロッキング・オン・ジャパン』ではなく『BRIDGE』がきっかけでした。そこから『音楽が終った後に』という著作を読んだ。私自身、中高の時代に同人誌を作っていたくらいに、音楽雑誌に対してはずっと興味と熱意があったので、『音楽が終った後に』を読み、その中に収録された一編「メディアとしてのロックン・ロール」にやられた。  スージー 同じく。「メディアとしてのロックン・ロール」の有名な一節、「我々がコミュニケートしなければならないのは、きっとどこかに居るだろう自分のことをわかってくれる素敵な貴方ではなく、目の前に居るひとつも話の通じない最悪のその人なのである」という文章を読み、モーゼの十戒のごとく道が開けました。  このコラムは、『ロッキング・オン』が軌道に乗りだした頃に書かれたものですが、雑誌を出す以上は売れなければ意味がなく、売れないことを読者のせいにして嘆いてもしょうがないのだという意識が明確にあります。だから、まずは話の通じない人に向けて書け、と。このメッセージに天啓を受けて、後にTOKYO FM (当時:FM東京)で渋谷陽一からサインをもらうという僥倖に恵まれました。  柴 この文章の中で、渋谷さんは「僕のメディア作りの基礎となっているのは、既存のマスコミに対する不信と怨念である。あるいは組織に対する反発と言ってもいいかもしれない」とも述べている。一方で「メディアとはシステムなのである」「システムを作りあげる事が雑誌作りの全てなのだ」とあります。既存のものに対して中指を立てるマインドがうかがえる一方で、スージーさんが天啓を受けた、経営者としての持続可能な青臭くない商業主義の精神が最初から共存していたことがわかります。そこにやけに納得しました。  スージー 渋谷陽一は1951年生まれだから団塊の世代のちょっと下で、同世代の山下達郎や忌野清志郎に近い感覚を持っています。それは何かというと、50年代生まれの人たちは40年代生まれの人たちのことを、学園紛争などで自己主張して、結果敗北した世代だと捉えているところがあり、その反面教師として、自分たちは好きなことを主張するにしても、同時にビジネスとして成立させなければいけないのだと考えている。そうしたスタンスは、執拗にCMソングにこだわった山下達郎、ロックバンド化してめっちゃポップになった忌野清志郎のやり方に表れていて、渋谷陽一もまた、持続可能なビジネス精神と批評精神の両立を成立させていました。  私も音楽評論をするときは、ライターとしての自己主張以前に、書いた文章に商品価値があるのか、どれだけ世の中的な需要があるのかを考える癖があり、そこは渋谷陽一のスタンスから影響を受けた、私の書き手としてのベースです。柴さんも同じ書き手として、そういった影響はありましたか?  柴 結果的にそうなっていると思います。ただ、私の場合は渋谷陽一=ロッキング・オンイズムを叩き込まれたのは完全にロッキング・オンに入社して以降で……。  スージー ロッキング・オンに入社とかおそろしいことをしたよね。私なら絶対無理です(笑)。  柴 これはロッキング・オンという会社のユニークなところですが、在籍時からライターとして自分の名前でライナーノーツなどの仕事をしている人が多数いて、また会社を辞めてから自分でメディアを作るケースが多いんですよ。『音楽と人』を立ち上げた市川哲史さん、『snoozer』や「The Sign Magazine」の田中宗一郎さん、『MUSICA』の鹿野淳さん、「Real Sound」の神谷弘一さん、『RiCE』の稲田浩さんなど枚挙にいとまがない。  スージー みんなロッキング・オン出身か。  柴 出身者たちが各地でメディアを立ち上げ、一定の成功をおさめることで、90年代以降の日本のカルチャー状況にも影響を与えていった。ロッキング・オンイズムが何かというのを言語化するのは難しいですが、そのひとつとして「メディアを作る」ことや「自らがメディアとなる」ことへの意志や欲求があり、それが受け継がれているということなのではないかと思います。  柴 渋谷さんが亡くなってから、ものすごくたくさんの方がnoteやブログなどで、「追悼・渋谷陽一」を書いているじゃないですか。有名なミュージシャンが亡くなったときに皆さんが一斉に追悼文を書くのはわかるのですが、一出版社の社長に対して、ここまで多くの方が自分の青春と重ねて追悼するのは異例なことで、改めて不思議な存在だなと感じました。  スージー 山のようにネットに押し寄せた追悼記事を見てどう思いましたか?  柴 皆さん、様々な形で影響を受けてこられたんだなと思います。初期『ロッキング・オン』読者のような上の世代も、ロック・イン・ジャパン・フェスで見て知った若い世代も、どの方も渋谷陽一に火をつけられた。それは私もスージーさんも一緒で。というのも、渋谷さんには様々な側面があった。1つは、文学的批評をロックの世界に持ち込んだ評論家の面。2つめは、長くラジオDJとしてパーソナリティを務めてきた語り手の面。3つめは、『ロッキング・オン』を立ち上げて、一大メディアグループに成長させた経営者としての面。4つめは日本最大の邦楽フェスを立ち上げたフェスプロデューサーとしての面。それを総括するものとして、私はさらに思想家としての面を挙げたいです。何より私が一番影響を受けたのは、思想家としての渋谷陽一かもしれない。  スージー 具体的には?  柴 渋谷さんが吉本隆明の批評性の影響を受けていることは巷間言われますが、もちろんそれもありつつ、それ以上に「メディアとしてのロックン・ロール」に象徴される、受け手が主役である、参加者が主体であるという思想が大きい。組織の論理に縛られないからこそ、熱意を持った素人が作るものはプロが作るものを凌駕する。であるがゆえに、その理想を実現するために独立独歩の自分のメディアを作らねばならない、というある種のメディア論の実践者だった。  だから、渋谷陽一に火をつけられた人は「自分でもできる」と思うんですよ。それはミニコミやZINEでもいいし、今の時代だったらnoteで定期的に文章を発表することで、自分がメディアになれる。それを70年代の時点でメッセージしていた人は他にいないのではないでしょうか。  スージー つまり今、誰もが渋谷陽一になれる時代が来た、と。  柴 特にnoteやブログで渋谷さんの追悼文が多く書かれたというのは、投稿雑誌だった70年代の『ロッキング・オン』でやろうとしていたことの地続きだとも言えます。要するに、半世紀早かった。  スージー 渋谷陽一の凄みはそういうところにあったんだ。  柴 私はそう思っています。なので、仮に今の私が99年に受けたロッキング・オンの入社面接の場に行けるとしたら、渋谷さんに「インターネット・イズ・ロックン・ロール」と言いたいと思います。なぜなら、渋谷さんが『ロッキング・オン』創刊の時に標榜していた、読者こそが正解を持っていて、素人こそがメディアの主役であるという理想は、90年代以降、インターネットという革命によって成し遂げられていきましたから。  スージー 自慢じゃないけど、私はインターネットに着手するのがめちゃくちゃ早くて、html言語を手打ちして書いていたんですよ。それも渋谷陽一イズムだったんだな。  柴 そうだと思います。インターネットで個人サイトをいち早く立ち上げ、ブログブームに先駆けてブログを始めた人というのは、70年代に渋谷さんたちがやっていたことのデジタルな焼き直しである、というのが私の理解です。  スージー 柴さんは、渋谷陽一の思想家としての側面と経営者としての側面を別軸で分類されましたけれども、その両面はパキッと分かれているのか、あるいは融合しているのか。  柴 融合していますよ。それに、スージーさんが影響を受けたライターとしてのある種の天才性みたいなものとも通じ合っていると思います。  スージー 私が愛読していた80年代の『ロッキング・オン』というのは、雑誌自体の作りが優れていたと同時に、「架空インタビュー」のようなおもしろい企画も載っていて、私のようなロックビギナーに対しても、ちゃんと商品として成立していました。その中に時々渋谷陽一も書いていて、今日持ってきた1985年7月号では、「We are the world」のことをボロクソに書いている。たまにそういった刺激的な文章を載せるけど、ちゃんと売ることも考えていたので、雑誌としてのバランスが良かった。だから、老舗の『ミュージック・ライフ』を超えることができたわけで。  柴 書き手の面で言うと、あそこまで戦うライターもそんなにいませんよね。  スージー 中村とうようのこともボロクソに言っているから(笑)。  柴 そうした好戦的なところも、書き手としての渋谷陽一の魅力だと思います。そもそも、音楽評論家、あるいは映画評論家というのは、基本的に作品の良さを伝える、プロモーションを果たす役割があるので、「We are the world」批判みたいなことを大々的に言える人は当時いなかった。  スージー 一方で、渋谷陽一以前の評論家というのは、ミュージシャンの作品に平気でダメ出ししていたので、要するに怖い存在だったんですよ。そういった高圧的な評論家に対しても渋谷陽一はアンチだった。だから、彼の書く文章は居丈高ではなく、プロレス的な要素も踏まえた上で喧嘩を売っていたので、文章がポップに成立していた。言ってしまえばそれが中村とうようとの違いであり、あくまで読者が読んで面白いかどうかが第一。このあたりが、さっきもいった50年代生まれと40年代以前生まれの違いかなと思いました。適度に刺激的だけど、適度にポップじゃないと、当時の私のような普通の青少年はその世界に入っていけませんから。       スージー 渋谷陽一は文章も面白いけど、ラジオの喋りも面白かった。ラジオDJを務めていたNHK-FM「ワールドロックナウ」では、病気療養に入る寸前まで洋楽の最新ヒットを語っていたじゃないですか。私のように60手前になると、いつ、この「最新ヒット麻雀」からベタ折りしようかと逡巡するものですが、私よりも歳上の渋谷陽一は平気でそれをやっていた。あのこだわりは驚嘆です。  柴 渋谷さんは「ワールドロックナウ」で最後まで最新の洋楽を紹介していましたし、湯川れい子さんも「Music Rumble」(FMヨコハマ)で今も変わらず新曲を紹介していますよね。  スージー 更なるゴッドの名前が出ましたね。  柴 私は以前、湯川さんにインタビューをしたことがあり、ポップミュージックの歴史を語ってもらったのですが、エルヴィス・プレスリーからビートルズ、マイケル・ジャクソンまで一通り語ってもらった最後に、「湯川先生が最近ハマっているのは誰ですか?」と尋ねたら、「ブルーノ・マーズかな、この間出たアルバム(『24K Magic』)が最高だったから」と。そして今は藤井風にハマっている。  音楽評論家たるもの、こうやって最新のスターを追いかけて生きていくんだということを教えられた。何十年先でもこう言える人間であろうと、マジで思いましたから。  スージー 大事なことですよ。  私は2016年から『東京スポーツ』で「オジサンに贈るヒット曲講座」の連載をはじめたんだけど、流石に最新のアーティストのことは全然わからないから、当初はどこまで続けられるか心配だったんですよ。だけど、渋谷陽一しかり、小林克也だってラジオで最新のヒットチャートを語っているじゃないかと。そういう後押しもあったし、聞いてみたら案外いい曲がある。米津玄師やVaundyに出会えたのも、諦めずに続けてきたからです。  柴 渋谷さん、湯川さん、小林さんのように、ああやっていられる人だけがずっと生き残っていけるんでしょうね。渋谷さんは「音楽を文学的に読む」のテーゼを最後まで貫き続けましたが、それをある種の商業主義につなげたことで魅力的な書き手となり得たし、倒れる直前まで新曲を紹介し続けたラジオDJとしてのバイタリティにもなっていたのだと思います。  スージー 要するにミーハーってことですね。  柴 そうそう。  スージー そんなミーハーな先輩方にならって最新のヒットチャート追いかけつつ、柴さんの本などで今の音楽シーンの状況を知ると、そこではメディアの民主化のようなものが成し遂げられていることが見えてきます。  今は才能のある人間が自らメディアを持ち、自分たちで積極的に発信して、それをレコード会社が拾い上げていくといった、とても民主的な環境になってきています。それに比べて、私が愛した80年代の日本の音楽シーンはいかに非民主的だったか。レコード会社が大手を振るい、利権まみれの金の力で全部動いていたわけですから、それならば、ボカロPから米津玄師が出てくる今の環境のほうが断然いい。  そのように今の音楽を捉え直していたのですが、それも渋谷陽一イズムとつながっていたということが今日の対談でよくわかり、いい発見になりました。  柴 渋谷陽一の思想は、フェスプロデューサーとしての面とも密接に結びついていました。  今の40代より上の方にとっての渋谷陽一は『ロッキング・オン』の編集者というイメージでしょうけれども、それよりも若い世代にとってはロック・イン・ジャパン・フェスの「朝礼おじさん」。メインステージのオープニングアクトが出てくる前に、渋谷さんがステージで挨拶をします。さすがに喋りのプロですから、持って回った挨拶ではなく、フェスにかける思いを明朗にお話しされる。  その朝礼で話される内容というのは、ロッキング・オンの全社会議での発言とも通じ合っていて、その根底には『ロッキング・オン』創刊時の理念が込められていました。ですから、フェスの朝礼を目にした人たちは知らぬ間に渋谷陽一イズムを受け取っていることになるのです。  スージー そういう意味でも、「メディアとしてのロックン・ロール」を書いた人と、フェス事業を成功に導いたプロデューサーとしての面はつながっていたんですね。  柴 私はロック・イン・ジャパン・フェスの立ち上げ時に『ロッキング・オン・ジャパン』の編集者として現場で働いていましたが、そこで理解したのは「フェスはメディアである」ということでした。雑誌の表紙を飾るアーティストを決めるように、フェスのヘッドライナーをブッキングし、紙面の台割を組むようにして、当日のタイムテーブルを固めていく。まさにフェスこそが音楽を紹介するメディアそのものだという発想があり、それならば自分たちでイベントをオーガナイズさせていこう、と。  興味深いのは、フェスを成長させるプロセスと雑誌創刊から軌道に乗せるまでの手法が一緒だということです。『ロッキング・オン』の創刊号はソウルイートで知り合ったプロの編集者がレイアウトやデザインを手掛けたけれど、それが気に食わずにその人たちを追放して、2号目からは自分たちだけで作ったのだと、『音楽が終った後に』で書かれていますが、それと全く同じことをロック・イン・ジャパン・フェスでもやっている。  スージー フェスも自分たちだけでやったことですか?  柴 当然、ロッキング・オンはイベント運営の素人なので、初回の運営は既存のイベンターにお願いして、ロッキング・オンはアーティストのブッキングとコミュニケーションだけという形でしたが、2年目からは初年度で起用したイベンターを追放して、渋谷さんが全権を握りました。  スージー 全く同じだ。  柴 つまり、最初は既存のものの力を借りるけど、ノウハウを学んだら、あとは自分たちで全部やる。メディアのシステムを作り上げることにかけては天才的な手腕があったと思います。かつ渋谷さんは、既存のイベンターとは違い、来場者と同じ動線でライブを見てきた自分たち、すなわち観客のプロが作るフェスがロック・イン・ジャパン・フェスなんだと力説していました。  スージー だからだ。私が行った時にビデオメッセージで、「トイレの数を増やしました」と言っていたのは。  柴 まさにそれです。渋谷さんはロック・イン・ジャパン・フェスにまつわる発言で、ほぼ必ずトイレの数に言及します。全てのメッセージの中核がトイレの数なんです。  スージー 他の発言はうろ覚えですが、口を開けばトイレ、トイレと言っていたのがやけに印象に残っている。  柴 渋谷さんがトイレのことばかり言うから、トイレフェスだと揶揄されていました(笑)。  だけど、ロック・イン・ジャパン・フェスでトイレの数を誇ることは、『ロッキング・オン』が投稿雑誌からスタートしたことと、実は相似形を成しています。つまり、読者・参加者が主役、主体であり、業界が誰を売り出したいかではなく、読者、参加者がどう感じるかがメディアの本質であるのだ、と。  スージー そして、行き着いたのがトイレだった。  柴 そうなんですよ。実際、病気療養に入る直前のインタビューでもトイレの話をしていますから。そして、その核が、「参加者がメディアの主役である」という思想にあるということは、重ねて強調しておきます。  70年代のメディアの世界では異端だった、「参加者がメディアの主役である」を実現するために自分たちで雑誌を創刊し、日本を代表する音楽雑誌に成長させ、従来のフェスに欠けていた参加者主体のフェスという理想を叶えるために自らフェスを立ち上げ、結果的にフェスプロデューサーとしても日本随一の存在になった。  渋谷陽一は主に2つのカルチャー領域で大成功を遂げた稀有な人であり、そして2つの成功に共通した哲学の本質、「参加者がメディアの主役である」こそ、私が渋谷陽一から学んだことです。  スージー 今の柴さんの発言に私の言葉を付け加えるなら、音楽を論じるということは、ミュージシャンの米つきバッタとしてではなく、書き手自身がパフォーマンスするということ。そのパフォーマンスは、決して自分勝手なものではなく、あくまで読者のことを考えながら、ポップさを伴って表現することの重要さを、私は渋谷陽一から学ばせてもらいました。  最後にもう一言。渋谷陽一から「生意気な新入社員」と言われた柴さんと、TOKYO FMでお目にかかったときに「音楽評論家なんてエンガチョな商売だよ」といわれたスージー鈴木が渋谷陽一の追悼対談をさせていただき、どうも申し訳ありません(笑)。  柴 お後がよろしいようで(笑)。(おわり)  ★しぶや・よういち(一九五一―二〇二五)=音楽評論家・ロッキング・オン・グループ代表。ラジオDJ、フェスプロデューサーとしても活躍した。著書に『ロックミュージック進化論』『音楽が終った後に』『ロック大教典』など。  ★スージー・すずき=音楽評論家・ラジオDJ・小説家。著書に『大人のブルーハーツ』など。一九六六年生。  ★しば・とものり=音楽ジャーナリスト。著書に『平成のヒット曲』『ヒットの崩壊』など。一九七六年生。