2025/06/27号 4面

地域学者と歩くベトナム

地域学者と歩くベトナム 桜井 由躬雄著 長坂 康代  円安で海外旅行が遠のくと言われているが、ベトナムは穴場の旅行先として人気があるようだ。しかし、ベトナムに関心あるなしに関わらず、また研究者に限らず、ベトナム「全部・全土」を扱おうとする本書は、歴史的、民族的に多様で、各地で文化が異なるベトナムの広がりと深みを感じとることができ、読む人びとを魅了するだろう。歴史学や一つの学問ディシプリンをもつ人が、平明にベトナムの「生活細部にくまなく分け入り、しかも、全土にわたって」その文化を表象しようとした本書は、旅行案内のレベルではない、本邦初の文化紹介書である。  ベトナム研究の大家である故・桜井由躬雄は、自ら「地域学者」と名乗られていた。それは、ベトナム全土を歩いてつぶさに記録された経験に基づくからで、歴史学、農学、考古学など複合的に横断的に網羅された。本書は、それぞれの歴史や文化を捉えて多様なベトナム社会のあり様を的確に抽出し表している。  桜井はベトナム全土を巡って、フィールドノートに記録した。本書は、1975年に初めてベトナムの地に足を踏み入れ、1985年から在ベトナム日本大使館の専門調査員としてハノイに赴任したときの桜井の稀有な経験も含まれている。そして、長期にわたるバックコックムラでの調査や各地での共同調査、学生を連れて行った研究結果も記述され、本書の堅実さを裏付ける。ベトナムを語るにも戦争は外せない。第3章の「ホーチミンの憂鬱」(160―174頁)は、1975年4月30日のサイゴン解放からドイモイ(刷新)政策、そして経済発展の光と影に焦点を当てている。今年、サイゴン解放からちょうど50年の節目で、SNS上でも盛り上がりを見せていた。桜井の直の経験は、今なお私たちの琴線に触れる。本書では時折、第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)を指す「抗仏戦争」「抗米戦争」という表記が出てくる。ここからも桜井のベトナム側の視点を大切にされてきた思いを感じ取ることができる。その地に寄り添わない権力者視点の歴史「など」、これが実は地球の北側には多いのだが、限界がある。桜井はこの限界を謙虚に超えている。  また、ベトナムの経済発展に伴って、ベンチェ省発信のココナッツ教本部が観光スポットになったり、チャムの民族舞踊が創作されたりしていることを、桜井は憂う。伝統の創出は、外の目によって生み出される。チャンパ遺跡群、リゾート地ニャチャン、サーフィン文化、そしてホイアン、ダナンも観光名所になった。こういった安直なほど変わりゆくベトナムの変容を桜井は危惧している。これは、桜井のベトナム愛ゆえの批判的考察に思えてならない。  長年ベトナム研究を続けてきた桜井が後人に残した功績は大きく、今なお私たちに影響を与え続けている。一方、桜井が初期から関わるバックコックムラでの調査について後進のために惜しみなく門戸を広げ、他方、ボー・グエン・ザップとの写真(529頁)からは桜井のベトナムとの深い関わりを再認識させる。私は、第3章「ホーチミン市」や第5章「海道」で遠い自分の経験を重ね、第9章「ハノイ千年の都」では塗料職人街のハンホム通りや錫ブリキ細工職人街のハンティエックなど、職能にしたがって発展したことを自分の眼でも見てきたハノイ市内と重ねて読むことができた。ベトナム各地を巡った桜井と共に過去にさかのぼり、読者が「今」のベトナムを感じとる旅や現地生活を送るのも、またベトナムを広く深く知ることになるだろう。その意味で、この書は、ベトナム旅行案内以上の切り込みの視点を提供してくれるに違いない。  繰り返しになるが、これは単なるエッセイスト、あるいは学からの切り込みをもたない旅行愛好紹介者による「叙述」ではない。歴史学、農学、考古学など複合的、横断的に学が有機化した「記述」である。それによって、事実認識の深さを湛えた学者プロならではのディスクリプションだということを証しているのである。地理学に地誌、民族学(人類学)に民族誌、日本の村々に村史があるように、桜井ならではの学問の複合性を内包した、独自のベトナムの歴史と今を結ぶ総合的な「桜井由躬雄ベトナム史誌」なのである。平明に書くことこそ学の実力が要ることを証明した本書は「ここからならば(この視角から分析すれば)こう見えますよ」という事象の入り口を的確に開いてくれている。そうであるがゆえに、私は広く多くの人に本書を「読み込んで」ほしいと願うのである。(ながさか・やすよ=敬和学園大学准教授・文化人類学・都市人類学)  ★さくらい・ゆみお(一九四五―二〇一二)=日本ベトナム研究者会議元会長・東京大学名誉教授。二〇〇三年にベトナム国家大学から名誉博士号を受けた。著書に『ハノイの憂鬱』など。

書籍

書籍名 地域学者と歩くベトナム
ISBN13 9784839603250
ISBN10 4839603251